第十四章 この線を一本細くすると、銅貨二枚安くなる
最初の一台は、三日目に売れた。
買ったのは、店を半分閉めていた風呂屋だった。ハロルドが言った通り、二か月で回収できる計算を示すと、主人はその場で頭を下げた。
「頼む。分割でいいなら、今すぐくれ」
湯が沸いた日、風呂屋は閉めていた半分を開けた。
二台目が売れたのは、その四日後だった。同じ通りの、別の風呂屋である。一台目の主人が話したのだ。
三台目と四台目は、宿屋から同時に来た。五台目は飯屋。六台目は、洗濯屋だった。
「洗濯屋?」
注文票を見て、セレナは首を傾げた。
「湯沸かしを、洗濯に使うのですか」
「使うで」
ハロルドがあっさり答えた。
「冬の水は冷たい。今まではしゃあないから水で洗っとった。湯が使えるなら、そら使うわ」
「そんな用途は、考えていませんでした」
「客が勝手に見つけるんや。それがええ商品の証拠やで」
その月、湯沸かしは十四台売れた。翌月は三十一台になった。
◇
噂の広がり方が、それまでと違っていた。
着火具のときは、ハロルドが一軒ずつ売り歩いた。今度は、買った人が次の人に話した。
風呂屋が宿屋に話し、宿屋が飯屋に話し、飯屋が親戚のパン屋に話した。ある日、セレナが工房を出たところで、見知らぬ男に声をかけられた。
「あんたが、魔道具屋のセレナさんかい」
「はい」
「うちにも一台くれ。金は用意してある」
「あの、注文はハロルドさんのところで」
「並んだんだよ。二日待っても順番が来ねえ」
男は、真顔で言った。
「うち、豆腐屋なんだ。湯が使えないと商売にならん」
セレナは、その場で名前と注文を控えた。工房に戻って、ハロルドに話した。
「並んでいるのですか」
「並んどる」
「なぜ教えてくださらなかったのですか」
「言うたら作りすぎて倒れるやろ、あんた」
ハロルドは帳面をめくった。
「今、注文が七十一件たまっとる。今の作り方やと、月三十台が限界や。二か月半待ちや」
「増やせませんか」
「増やしたい。せやけど人がおらん」
◇
工房を広げたのは、その翌週だった。
隣の空き家を借り、作業台を四つ増やした。少年と女ふたりだった人手を、八人に増やした。集まったのは、店を閉めた職人や、仕事を失った人たちだった。
「セレナさん、この線、こんな細くていいんですか」
「いいです。太いと材料費が上がって、値段が上がります」
「値段が上がると、なんでいけないんですか」
新入りの女が、素直に聞いた。セレナは手を止めて、その人のほうを向いた。
「あなた、これを買いたいと思いますか」
「わたしですか? ……買えないですねえ。金貨一枚なんて」
「では、いくらなら買いますか」
「銀貨十枚くらいなら、無理すれば」
セレナは、うなずいた。
「では、いつかそこまで下げます」
「え、そんなことできるんですか」
「今はできません。でも、そこを目指しています」
セレナは、線を引く手つきを見せた。
「この線を一本細くすると、銅貨二枚安くなります。安くなると、買える人が一人増えます。だから、細く引きます」
女は、しばらく黙ってから、深くうなずいた。
「……なるほど。じゃあ、細く引きます」
その日から、工房の空気が少し変わった。誰かが線を細く引くたびに、「これで銅貨二枚」と冗談を言うようになった。
◇
貴族街から最初の問い合わせが来たのは、その二か月後だった。
手紙を持ってきたのは、身なりのいい使者だった。工房の煤けた扉の前で、居心地悪そうに立っている。
「ラングフォード伯爵家の者です。魔道具師セレナ殿にお目通りを」
セレナは、煤だらけの前掛けのまま出ていった。
「わたくしです」
使者は、一瞬固まった。それから、慌てて礼をした。
「し、失礼いたしました。当家に、貴殿の湯沸かしを納めていただきたく」
「何台でしょうか」
「屋敷の分、二十台ほど」
セレナは、少し考えた。
「順番にお並びいただくことになります。今ですと、三か月ほど」
「……三か月」
「はい」
「あの、前倒しは」
「できません」
セレナは、はっきり言った。
「先にご注文をいただいた方が、七十件以上おられます。その方々を飛ばすことはできません」
使者は、明らかに困った顔をした。伯爵家が平民の職人に順番を待たされる、という状況が、彼の想定になかったのだろう。
「……あの、失礼ですが、追加でお支払いすれば」
「同じです」
セレナは、静かに続けた。
「順番を金額で変えられるようにすると、次からは全員がそうします。そうなると、いちばん困っている方に届くのが、いちばん遅くなります」
使者は、しばらく黙っていた。それから、深く礼をした。
「……承知いたしました。三か月、お待ちします」
彼が帰ったあと、ハロルドが工房の奥から出てきた。にやにやしている。
「聞いとったで」
「盗み聞きですか」
「商談は全部聞くのが商人の仕事や」
彼は椅子に座った。
「あんた、伯爵家断ったな」
「断ってはいません。順番を守っていただいただけです」
「同じことや」
ハロルドは、上機嫌だった。
「ええ判断やった。あそこで貴族優先にしとったら、平民街の客が全部離れる」
「そういう計算ではありません」
「わかっとる」
彼は笑った。
「あんたは計算せんとそれをやる。せやから信用されるんや」
◇
その年の冬の終わりに、平民街の街灯が半分まで戻った。
湯沸かしが売れたからではない。セレナの省魔力回路が、他の魔道具にも応用され始めたからだった。
照明。保温箱。乾燥機。セレナが設計し、ハロルドが値付けし、工房が作った。全部、消費を三分の一から四分の一に落としたものだった。
市が街灯の魔石を計算し直した。同じ量で、倍の灯りがつけられることがわかった。
その報告が王城に上がったのは、春の初めだった。




