第十二章 四分の一で動く、四倍の値段
十一度目の試作が、動いた。
水を入れて、魔石をはめて、回路を通す。湯気が上がるまでに、いつもの倍の時間がかかった。だが、上がった。
セレナは、湯の温度を測り、記録をつけ、翌日も同じことをした。三日目も、四日目もやった。
十九日目の朝、魔石が空になった。
セレナは、記録の紙を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。それから、ゆっくりと膝から力が抜けて、床に座り込んだ。
十九日。目標の二十日には一日届かない。それでも、今までの五日と比べれば、四倍近い。
工房の扉が開いた。
「おはようさん。どや、調子は」
ハロルドだった。セレナは床に座ったまま、記録の紙を差し出した。
「……できました」
ハロルドは紙を受け取って、数字を追った。彼は図は読めないが、数字は読める。
「……十九日」
「はい」
「十九日」
「はい」
ハロルドは、紙を持ったまま工房の真ん中に突っ立っていた。それから、いきなり大声を出した。
「よっしゃあ!」
窓の外の鳩が一斉に飛び立った。
◇
その日の午後、ハロルドは冷静に戻っていた。
試作品を作業台に置いて、ためつすがめつ眺めている。初めて会った日と同じ、値踏みする目つきだった。
セレナは、その顔を見ていて、嫌な予感がした。
「セレナさん」
「はい」
「これ、原価なんぼや」
セレナは、手元の紙を見た。
「……金貨一枚と、銀貨十枚ほどです」
ハロルドが、ゆっくりと顔を上げた。
「今の湯沸かしが、いくらやったか覚えてるか」
「原価が銀貨三枚。売値が銀貨八枚です」
「今度のは、原価が金貨一枚と銀貨十枚。銀貨に直すと百十枚や」
ハロルドは指を折った。
「原価が三十倍以上。売値は最低でも金貨二枚は取らなあかん。今の売値の二十五倍や」
セレナは、黙っていた。数字は自分でも出していた。出していたが、口に出されると重かった。
「風呂屋のおやじが、これ買うと思うか」
「……買えません」
「せやな。あそこは今、店を半分閉めとる。金貨二枚出す余裕はない」
ハロルドは試作品を置いた。
「じゃあ誰が買うん」
「……貴族なら、買えます」
「買える。せやけど貴族は今、屋敷ひとつ分の魔石が要る。この湯沸かし一台入れても焼け石に水や」
「……」
「セレナさん」
ハロルドは、まっすぐにセレナを見た。
「これ、売れへんな」
初めて会った日は「売れてへんやろ」だった。今度は「売れへん」。
あのときは、もう売れなかったものを言い当てられた。今度は、これから売れないものを言い当てられている。
◇
その夜、セレナは工房にひとりで残っていた。
試作品が作業台の上に載っている。四分の一の魔石で動く湯沸かし。この国で誰も作れなかったもの。
そして、誰も買えないもの。
セレナは、椅子に座って、それを見ていた。
悔しかった。あのころとは違う悔しさだった。あのときは何もわかっていなかった。今は、何が問題なのかがわかる。わかっていて、解けない。
技術的には成功している。商品としては失敗している。
その二つが両立することを、この一年で学んだ。学んだのに、また同じ壁にぶつかった。
扉が開いた。ハロルドだった。
「まだおったんか」
「……はい」
「飯は」
「食べてません」
「あかんわ」
ハロルドは持ってきた包みを作業台に置いた。パンと、干し肉と、湯気の立つ何かが入っている。
「食え。話はそれからや」
セレナは、素直に食べた。腹が減っていたことに、食べ始めてから気づいた。
ハロルドは向かいの椅子に座って、試作品を眺めていた。
「セレナさん。落ち込んどるやろ」
「……はい」
「なんでや」
「作ったものが、売れないからです」
「ちゃう」
ハロルドは首を振った。
「あんた、ほんまは何が悔しいん」
セレナは、パンをちぎる手を止めた。
何が悔しいのか。少し考えて、口を開いた。
「……あの人たちに、届かないことです」
「あの人たち?」
「宿屋の女将さんとか、風呂屋のご主人とか、パン屋さんとか」
セレナは、試作品を見た。
「今いちばん困っているのは、あの人たちです。灯りを消して、風呂を止めて、店を半分閉めて。そういう人たちのために作ったのに、その人たちが買えない」
ハロルドは、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「それやったら、話は簡単やな」
「え?」
「安くしたらええ」
セレナは、彼の顔を見た。
「……できるでしょうか」
「知らん。それはあんたの領分や」
ハロルドは椅子の背にもたれた。
「けど、わしにも言えることがある。あんた、この試作品を『完成品』やと思っとるやろ」
「はい」
「ちゃう。これは『できることの証明』や」
彼は試作品を指した。
「四分の一で動く、いうことは証明できた。それは価値がある。せやけど、この形で売る必要はどこにもない」
「……」
「性能を落としてええ。十九日を十日にしてもええ。半分でも、今の倍や。それで原価が下がるなら、そっちのほうが売れる」
セレナは、口を半分開けたまま、彼を見ていた。
性能を落とす。
その発想が、なかった。技術者は上を目指すものだと思っていた。より少なく、より効率よく、限界まで。
「……落として、いいのですか」
「誰が使うん、を先に決めたらええ」
ハロルドは、指を一本立てた。
「風呂屋のおやじが払える金額はいくらや。そこから逆算して、その値段に収まる性能を作る。それが商品や」
「……値段から、逆算する」
「そや」
セレナは、紙を引き寄せた。手が震えていた。今度は悔しさではなかった。
「ハロルドさん」
「うん」
「風呂屋さんが払える金額って、いくらですか」
ハロルドが、にっと笑った。
「そう来ると思た」
彼は上着の内側から、折り畳んだ紙を出した。
「聞いてきた。三軒回った。金貨一枚が限界やそうや。それも、月々の分割やないと無理や」
用意していたのだ。落ち込んでいる自分のところに来る前に、答えを持って来ていた。
セレナは、その紙を受け取った。
「……ありがとうございます」
「礼はええ。作れるか」
セレナは、紙の数字を見た。金貨一枚。今の原価が金貨一枚と銀貨十枚。原価を半分以下にしないと、話にならない。
「わかりません」
顔を上げて、続けた。
「でも、やります」




