50.不協和音<1>
ナイフを持った手が痺れるくらい痛い。
「九十、ろくっ……!」
それでも、止めない。
「九十七ッ……!」
踏み込むたびに膝や足首が痛い。
「九十八っ」
それでも、止められない。
「きゅう、じゅう……」
どうして私の身体はこんなことで息を切らしてしまうのだろう。
限界を訴えかけている。
違う。それは限界なんかじゃない、私の甘えだ。
「きゅ……っ」
振り上げたナイフを木に当てた瞬間、衝撃に握力が負けた。
くるくると私の手から離れていったナイフは滑るように地面に転がっていく。
それでもう、駄目だった。
私は座り込む。
ぽたぽたと汗が地面に吸い込まれていく。
ぼんやりとナイフを振るっていた先を見る。
表皮は捲れ上がって削れてきたけれど、当然切れたり倒れる気配はしない。
木としては決して大きくもなく、幹も太くない。
「……リルが斬ったのと同じくらいじゃない」
そう。あの子がアーツ――いや、その前段階のただの風で斬り落としたのと同じくらい。
だから太くはない、細いはずなのだ。
彼女はアーツに頼らずとも双剣を一太刀すれば、きっと斬り落とせてしまうのだろう。
奥歯を噛みしめる。震える膝で立ち上がる。
「アクア・バレット!」
飛沫。当然木はびくともしていなかった。
「アクア・バレット、アクア・バレット、アクア・バレット――!」
どうしようもないフラストレーションが私を掻き毟って、追い立てた。
水鉄砲ごときで折れたら苦労していない。
それでも何度も何度も撃ち続ける。
ぬかるむほどに辺りが水浸しになっていく。
運用が出来たって、展開が早くたって、こんなんじゃ意味がない。
武器もろくに使えないのなら、アーツだけでも。
もっと威力が欲しい。力が欲しい。
私には氷属性のアーツがやっぱり必要だ。
「……我、クレニの名において理に定める。凍てつく氷よ――」
――お前、もう少し魔力込めてたら死んでたぞ。
「……っ」
腕に走った痛み、あの言葉がリフレインする。
変換失敗。水に変わっていた魔力が手から弾けた。
「じゃあ、どうしろって言うのよ……」
濡れていく服の感触がやけに冷たく重く感じる。
顔が映るくらいまで水に使った地面。
そこに映っているのは、確かに人間の姿の私。
「……私だって」
弱くて情けない、私じゃない。
あの時とは、絶対に違うはずなのだ。だから。
◇ ◇ ◇
「……ん?」
三人のステータスがオーバーレイ表示された視界。
朝に目が覚めた時だけは、どうしても違和感が拭えない。
だから、それに気付くことができた。
――俺のMPが、何故か二割ほど減っていたままだった。
「昨日そんなに使ったっけ、魔力……」
大分レベルの上がった今、初級アーツを乱発するのに困らないくらいにはなっている。
それでも魔獣態での戦闘や<限定解除>を使うと、未だに相当量消費するのは辛いところだが。
一方消費が激しい分、<魔力回復>スキルも上がってきて目に見えるくらい回復量が増えた。
睡眠中の回復は目覚ましいもので、枯渇まで使わず常識的な範囲での活動であれば、寝て起きれば大抵満タン。
そのはずなのだが……昨日も別に特別な何かをした記憶はない。
「あれ、クレニがいない……」
部屋に彼女の姿はなかった。すぴすぴと寝ているリルだけ。
すると、がちゃりと扉が開く。
妙にゆっくりとした扉の開き方だった。まさか物盗り――。
「――ぴゃう!?」
――入ってきたのはクレニだった。
驚くのはこちらの方ではないのかという随分なリアクションだった。
しかも既に着替え終わっている。
「お、おはようござい……ます」
なんて他人行儀な。
油の入ってない機械みたいにギッギッと言いそうくらい動きもぎこちない。
「どうしたんだ、そんなコソコソして」
「べ、別にコソコソしてないわよっ。まだ寝てたと思ったから起こさないように気遣っただけだし」
頭を掻く。
気遣いだけじゃないような気もするのだが、そう言われればそうか。
「ううん、うるさい……あさ?」
目をしぱしぱさせてリルが上体を起こす。
艶やかに陽光で輝く銀髪はぼっさぼさ。寝癖が酷い。
四つん這いでぐいっと身体を伸ばす様は狼というより猫のようだった。
何度も欠伸をして半分落ちかかった瞳は、俺とクレニのほうを何度も行ったり来たり。
「なんで、クレニお姉ちゃん……着替えてるの? まだ寝てもいい、時間……すぅ」
こてん、と自分の尻尾を抱えたまま倒れ込んでしまった。
クレニはリルを見て、僅かに顔をしかめた。
「クレニ?」
「ううん、何でもないわ。早く着替えてよね、魔獣退治しなきゃ」
「――さぁて、今日もバシバシやるわよ」
いつもより早めに街を出た俺たち。気合十分なクレニを先頭に狩場に向かう。
「お姉ちゃん、手大丈夫なの」
「平気よ平気。ほら、少し赤いくらいでもうほとんど直ったんだから」
リルが心配そうな顔をして俺を見た。
クレニの手はやや赤みを帯びているが腫れは収まっていた。
魔力暴走による凍傷。
すり潰した薬草を縫って包帯で巻いていれば治るとのことで、減っていたHPも今は回復している。
「でも顔色、少し悪い気がする」
「気のせいでしょ。それよりも、今日こそ私が沢山狩るわよ。いい加減この身体にも慣れたわ」
「おい、あんまり無茶は……」
シャリアの言葉が思い出されて、つい口を出してしまう。
「何、マスター? 心配し過ぎよ、私だって戦うくらい――」
リルが双剣を構えた。
パーティで耳と目が一番いい。
魔獣は探さずとも自然と出くわすものだ。
「――来たわね」
クレニもナイフを抜き放つ。
現れたのは二体のアーマーアント。
背の高さほどの体高のある巨大アリと言ってしまえば身も蓋もない。
硬い外殻と顎、そしてギ酸が厄介な相手。後グロいのも問題だ。
「クレニ、ナイフじゃそれは――」
「――てえええええやあああああ!」
止める間もなく、クレニが一目散に突っ込む。
「ああもう……! リル、片方頼んだ、俺はクレニを援護する!」
決して動きは早くない。
しかし、とにかく外殻は硬い。鎧の材料として使われるくらいなのだ。
クレニの突き立てたナイフは全く通らず、弾き返されてしまう。
せめて節の部分を狙えっての。
「ひっ――」
ギチギチとクレニを挟もうと口顎が襲い掛かったところに滑り込み、メイスを挟み込む。
飛び散る火花。
こんなので挟まれたら肉など真っ二つ。
「危ないから下がってろっ」
「でもっ」
問答している暇はなかった。
<フレア・バレット>を奴の眼前で炸裂させる。
火を嫌がったアーマーアントの顎がメイスから離れる。
その隙にクレニを最前線から引き剥がす。
「ちょっ、いきなり」
「ぼさっとするな、来るぞ!」
怯ませられるくらいの威力でしかない。
もたもたしていると次が飛んでくる。
今度は黄色いギ酸が口から飛び出してきた。
金属を溶かすほどではないが、当たると皮膚はたちまち酷く爛れてしまう。
「あ、アクア――きゃっ」
クレニを庇うようにしてバックラーでギ酸を防ぐ。
表面が音を立てて腐食する。
「チェーン・バインド!」
アリの巨体を締め上げる。
ギチギチと顎を開閉しながら奴の身体が苦しそうに蠢く。
練習で編み方がかなり変わったことにより、手応えを持って鎖で締め上げられるようになっていた。
だが、拘束したところでそこまでダメージは入らない。
「アクア・プルバレット!」
クレニがアーツを放つ。
しかし、装甲のある奴にバレット系は厳しい。
ましてや水属性は……水浸しになっただけだ。
「いいか、クレニそこ動くなよ!」
「でも」
「いいな!」
やり辛い。
バインドを解除し、今度は接近する。
戦い方は分かっている。
全体的に装甲が硬いと言っても、プラント系のような木をぶっ叩く程じゃないのだ。
下顎をメイスでかち上げ、脳震盪を起こさせる。
「――ブロウ・インパクト!」
リルだけではない、俺だって初歩ならば必殺技系アーツくらい使える。
魔力を伴って一気に振り下ろされたメイスがアリの頭を砕く。
「……これでよし」
漏れたギ酸特有の刺激臭が立ち込める。
長引かせる相手ではなかった。面倒になるだけだ。
リルは――まだ戦っていた。




