第六話:彩のない世界
三月の終わりに東京を濡らした、あの残酷で冷たい氷雨が最初から存在しなかった幻であるかのように、四月の街は穏やかで、色彩と光に満ち溢れていた。
アスファルトを吹き抜ける風はぬるく、街路樹の桜は申し合わせたように一斉に花を開き、薄紅色の花びらが春の陽光を反射して宙を舞っている。行き交う人々の足取りは不快なほどに軽く、誰もが柔らかな色の春服を纏い、新しい季節の訪れを無邪気に祝福していた。世界中が冬の長い眠りから覚め、喜びに満ちた生命の産声を上げている中で、佐倉真奈の心だけが、あの雨上がりの冷たい早朝、暗い路地裏に取り残されたまま、永遠の絶対零度に凍りついていた。
世界でただ一人深く愛した男を自らの言葉の刃で傷つけ、自分自身の魂をもずたずたに切り刻むようにしてアンティーク工房の重い扉を閉めた後──真奈がどうやって自らのアパートに帰り着いたのか、その道のりの記憶はすっぽりと抜け落ちていた。
熱が引いたばかりの鉛のように重い身体から、昨夜の雨で生乾きになったキャメル色のトレンチコートを脱ぎ捨てる気力すら残されておらず、真奈は暖房の切れた暗い玄関の冷たいタイルの上にうずくまったまま、声も出さずに泣き続けた。
過労で軋む関節が小刻みに震えるたび、肺の奥まで入り込んだような後悔が、呼吸をするごとに彼女の魂を暗く侵食していく。
自らの手で、彼を突き放したのだ。
一番大切な人を、自分自身の身勝手な意地と、他人に深く踏み込まれることへの醜い恐怖で傷つけて、永遠に失ってしまった。
拒絶の言葉をぶつけた時の、彼の悲痛に歪んだ透明な瞳。冷え切った指先を包み込んでくれた、骨ばった大きな手の温度。そのすべてを、己の愚かさと弱さで破壊してしまったという事実が、真奈の心臓を素手で握り潰し、どす黒い血を流させ続けていた。
あの温かい琥珀色の世界には、もう二度と戻ることはできない。その途方もない喪失感は、彼女から生きる意味そのものを根こそぎ奪い去るのに十分すぎるほどの威力を持っていた。
しかし、帰り着いてからわずか一時間後。
土曜日の休日であるにもかかわらず、いつもの出勤時間を告げるスマートフォンのアラーム音が、冷たい部屋の無音を切り裂いて鳴り響いた瞬間、真奈はアラームと共に、自らの痛覚のスイッチを強制的に切断した。
玄関の床で泣いてうずくまっている暇など、今の彼女には一秒たりとも与えられていなかった。目の前には、依然として崩壊寸前のプロジェクトが巨大な怪物のように立ちはだかり、理不尽に責任を押し付けてくる上層部や、開幕を待ちわびるスポンサーが控えている。
ここで立ち止まり、仕事を投げ出せば、彼を失ってまで守ろうとした自分自身の誇りすらも、やがて消滅してしまう。彼を傷つけてまで死守したこの命綱を手放せば、彼の哀しい決断すらも無意味になってしまうのだ。
真奈は、強張った関節を無理やり動かし、よろめく足取りで洗面所へ向かい、巨大な鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、高熱が引いたばかりの青ざめた死人のような顔で、目の周りが腫れ上がった、一人の哀れな女だった。真奈は蛇口を捻り、氷のように冷たい水で何度も顔を叩いた。跳ね返る水滴が、冷え切った皮膚からさらに容赦なく体温を奪っていく。
タオルで水気を乱暴に拭き取り、化粧下地を厚く塗り込む。血の気を失った肌をファンデーションで執拗に塗り潰し、腫れた瞼の赤みをコンシーラーで跡形もなく消し去る。艶を失い、生乾きの雨水で絡まった長い髪をブラシで無理やり梳かし、一切の遊びを持たせないように後頭部できつく一つに束ねた。頭皮が強く引っ張られる微かな痛みが、かろうじて彼女をこの過酷な現実の側に繋ぎ止める楔となっていた。
最後に、正確な角度で赤いルージュを引く。
鏡の中にいるのは、愛する男を失って泣きじゃくる無力で惨めな女ではなかった。感情の一切を削ぎ落とし、ただ与えられたタスクを機械のように正確に処理する有能なイベントチーフという、精巧で美しい、冷徹な作り物の装甲だった。
開幕までの残された一週間、真奈の記憶は極めて断片的なものだった。
睡眠時間は一日に二時間を切り、食事は栄養補助のゼリー飲料を機械的に胃に流し込むだけで済ませた。味覚はとうに麻痺し、何を口に入れても乾いた砂を噛んでいるようだったが、生命活動を維持するための最低限の燃料補給として割り切っていた。
現場での理不尽な怒号にも、施工業者のあからさまな怠慢や言い訳にも、真奈は一切の感情を交えることなく、ただ感情を消し去った笑顔を顔の筋肉に貼り付けて応え続けた。
「申し訳ありません、すぐに対処いたします」
声のトーンは常に一定で、高くも低くもない。それは、相手を思いやる温かい笑顔では決してなかった。これ以上、他人に自分の内側の柔らかい部分に踏み込まれないための、冷たく強固な防壁としての精巧な虚飾の笑みだった。彼女の瞳は硝子玉のように虚ろで、どんな理不尽な侮辱をぶつけられても、そのハイライトが揺らぐことはなかった。
「ええ、その仕様で進めてください。責任は私がすべて持ちますから」
感情を殺し、ただ目の前のトラブルを一つずつ物理的に潰していく。
七センチのヒールの靴底を無惨にすり減らし、誰にも頼ることなく、関係各所に深く頭を下げ続ける。その血の滲むような、自らをすり潰す狂気的な執念によって、崩壊寸前だった春季大型エキシビションのプロジェクトは、奇跡的に軌道修正を完了しつつあった。
周囲のスタッフたちは、真奈のその常軌を逸した冷徹さと異常な冷静さに息を呑み、同時に得体の知れない恐怖を抱き始めていた。
かつてのように彼女に気安く声をかける者は誰もいなくなり、かつて右腕として彼女を慕っていた後輩の結衣でさえ、真奈と視線を合わせることを恐れ、遠巻きに避けるようになった。真奈の周囲だけが、温度を持たない真空地帯のように息を潜めていた。
そして迎えた、春季エキシビションの開幕初日。
都内の大型商業施設の巨大な吹き抜け空間に、真奈が数ヶ月前から夜を徹して練り上げ、幾度となく図面を引き直したデザインが、ついに実体として立ち上がった。
高いガラス張りの天井から降り注ぐ柔らかな自然光と、計算し尽くされた間接照明に照らされ、何千本もの生木の桜の枝葉をふんだんに使用した巨大なモニュメントが、訪れる人々を温かく出迎えている。足元には本物の深い緑の苔が敷き詰められ、小川のせせらぎを模した澄んだ音響が、空間全体に穏やかに流れている。
それは、都会の喧騒の中心にいながらにして、深い森の奥に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせる、幻想的な空間だった。
真奈がずっと作りたかった、訪れた人が日常の疲労や理不尽な社会の重圧を忘れ、自然と息を吸い込み、笑顔になれるような場所。
開場と同時に、雪崩れ込んできた何千人もの人々が歓声を上げ、その美しい景色に感嘆の息を漏らしながら、次々とスマートフォンのカメラを向けた。
「素晴らしい。これほど見事な空間になるとは、正直思っていませんでしたよ」
満開の桜を模したメインモニュメントの下で、一番の取引先であるメインスポンサーの社長が、満足げに何度も頷きながら真奈に直接声をかけた。
その後ろでは、つい数日前まで真奈にすべての責任を押し付け、彼女を会社のスケープゴートとして切り捨てようとしていた局長や部長たちが、まるで最初から自分たちの手柄であったかのように、卑屈な笑みを浮かべて社長の言葉に相槌を打っている。
「ええ、我が社の佐倉が、連日徹夜で指揮を執りましてね。彼女は我々の誇りですよ」
局長のその白々しく、俗物的な言葉を聞いても、真奈の心には軽蔑や怒りすら湧かなかった。
彼らの無責任な手のひら返しも、群衆の称賛の声も、真奈にとってはただの遠い環境音に過ぎなかった。
「ありがとうございます。皆様のお力添えのおかげです」
真奈は、美しい角度で深く頭を下げ、あらかじめ脳内に用意されていた模範解答を滑らかに口にした。口角を引き上げ、目元を優しく和ませる。それは、透明で愛らしい、しかしどこか感情が抜け落ちたような作り笑いだった。
周囲のスタッフたちからも、惜しみない賛辞と盛大な拍手が巻き起こる。誰もが、絶望的な状況からプロジェクトを大成功に導いた有能なチーフを称賛し、態度を一変させて彼女を取り囲み、次々と祝福の言葉を浴びせかけてきた。
しかし。
華やかな光と喧騒の真ん中に立っている真奈の心は、宇宙の底のような途方もない空虚に包まれていた。
頭上で咲き誇る美しいピンク色の桜の花びらを見上げても、耳をつんざくような拍手の音を聞いても、彼女の胸の奥底には何の感情の波も湧き起こらなかった。血を吐くような思いでプロジェクトをやり遂げた喜びも、達成感も、安堵すらもない。
無数の照明の熱気と人々の熱狂の渦の中で、真奈はただ一人、冷たい氷の彫刻の中に永遠に閉じ込められているような感覚に陥っていた。
一番見せたかった人は、もうここにはいない。
その事実だけが、決定的に真奈の魂の中心を貫いていた。
ふと、視界の端で、群衆の中に黒いウールのロングコートの裾が揺れたような気がした。
真奈の心臓が、麻酔が切れたように小さく、痛いほど跳ね上がった。
群衆の向こう側。もしも彼が、自分を見つけに来てくれたなら。もしもあの無骨で大きな手で、よく頑張ったなと頭を撫でてくれたなら。
真奈は息を呑み、狂おしいほどの飢餓感と渇望に突き動かされて、行き交う人々をかき分けるように群衆の中へ視線を走らせた。
しかし、目を凝らして周囲を見渡しても、そこに彼の姿はなかった。
あるはずがなかった。彼をあの琥珀色の温かい世界に置き去りにして、残酷な言葉で永遠に突き放したのは、他の誰でもない自分自身なのだから。
真奈が見間違えた黒いコートの男は、ただの通りすがりの見知らぬビジネスマンだった。彼と目が合いそうになり、真奈は慌てて視線を伏せ、震える指先を固く握りしめた。
真奈は、そっと深い息を吐き出し、胸の奥で暴れようとする鋭い痛みを、再び硬く冷たい氷の中に封じ込めた。
この美しい景色も、周囲の称賛も、今の真奈にとってはただの無意味な色彩の暴力でしかなかった。彼が淹れてくれる一杯の苦いコーヒーと、薪の爆ぜる匂い、そして彼が自分に向けてくれた、少年のように照れたあの穏やかな笑顔。
世界から、その琥珀色の確かな温かさが永遠に失われてしまったことを、真奈は桜のモニュメントの下で悟っていた。いくら仕事で成功を収めようとも、いくら他人から惜しみない称賛を浴びようとも、自分の世界にもう二度と、本当に美しい色は戻ってこないのだと。
エキシビションが大成功のまま幕を閉じた一週間後。
真奈は、局長のデスクの上に真っ白な封筒をそっと置いた。
「辞表、ですか」
局長は、信じられないものを見るように目を丸くし、封筒と真奈の顔を交互に見比べた。
「今回の君の功績は、上層部でも高く評価されているんだ。秋の大型イベントも、君にメインで仕切ってもらおうと話がまとまっているところで。今、辞める理由がどこにある。待遇面で不満があるなら、いくらでも交渉に乗るが」
「待遇への不満ではありません。個人的な理由です。これまで、大変お世話になりました」
真奈は、慌てて引き留めようとする局長の言葉を冷ややかに遮り、深く一礼した。
理由など、語るまでもなかった。自分がどれほど命と睡眠を削って美しい空間を作ろうとも、ここは結局、誰かが致命的なミスを犯せば責任を押し付け合い、弱いものを切り捨てるだけの場所だ。他人の顔色を窺い、虚飾の強さで自分を偽り続ける日々に、真奈は心底疲れ果ててしまっていた。
何より、これ以上ここで働き続けて、偶然彼の住む街へ行く仕事などが入ってしまったら、自分は理性を保てる自信がなかった。
会社を去る最終日、真奈は自分のデスクを綺麗に片付けた。
私物をまとめた段ボール箱は、驚くほど少なかった。何年もこの場所に通い、人生のほとんどの時間を費やし、心身をすり減らしてきたはずなのに、本当に自分に残ったものは何一つなかったのだと、改めて冷酷な事実を実感する。モニターの横に飾っていた、かつて自分がデザインした小さなイベントブースの模型だけを、真奈はそっとバッグの底にしまった。
エレベーターに向かう背中に、同僚たちのひそひそとしたさざ波のような声が届く。
優秀な人材を惜しむ声もあれば、近寄りがたい彼女の厄介払いができたと安堵する気配もある。かつて右腕として自分を慕い、共に夜遅くまで残業してくれていた後輩の結衣は、パソコンのモニターを見つめたまま、最後まで真奈と目を合わせようとはしなかった。
無理もないと、真奈は感じていた。あの限界を超えたプロジェクトの終盤、心配して声をかけてくれた結衣に対し、真奈は感情を遮断し、無機質な人形のように言葉を返した。あんな得体の知れない虚無の塊になってしまった人間に対して、最後にかける言葉など見つかるはずがなかった。
真奈は、一度も振り返ることなく、ビルの重いガラス扉を押し開けて外へと歩み出た。
初夏に近い日差しが、痛いほどに眩しくアスファルトを照らし出している。
これで、本当に一人になった。
巨大な組織の庇護もなく、有能なチーフという他人に誇れる肩書きもない。ただの佐倉真奈という一人の人間として、この広大で冷酷な東京の砂漠に放り出されたのだ。
交差点を渡る人々の波に逆らうように歩きながら、真奈はふと空を見上げた。青く澄み切った空に、飛行機雲が一筋、真っ白な直線を引いている。
自由になったはずなのに、少しも嬉しくはない。ただ、果てしなく広がる孤独だけが、真奈の足元に黒々とした影を落としていた。
それから一ヶ月後。季節が春の柔らかな日差しから、初夏の湿気を帯びた熱へと移り変わる頃。
真奈は、都内の中心部から少し外れた、古い雑居ビルの三階の一室を借り、小さな空間デザインの事務所をたった一人で立ち上げた。
スチールデスクとパソコン、それに小さな打ち合わせ用のテーブルが一つあるだけの、簡素で狭い部屋。資金も人脈もない、文字通りのゼロからのスタートだった。
そして、過酷な毎日が始まった。
飛び込みで営業をかけ、冷ややかな視線を向けられて受付で門前払いを食らうのは日常茶飯事だった。かつての代理店の肩書きを名乗っても、鼻で笑われることもあった。安いギャラで小さな店舗の内装を請け負い、業者に頼む予算がないため、真奈は自分自身で壁紙を貼り、ペンキを塗り、深夜の事務所で徹夜をして図面を引き直す日々を送った。
肉体的には、広告代理店時代よりもさらに過酷で、追い詰められていた。壁紙用の強力な糊や塗料の薬品で手のひらは荒れ果て、常にささくれ立っている。作業の邪魔になるからと爪は深爪ギリギリまで短く切り揃えられ、かつてのように寸分の狂いもないメイクをして高価なスーツで着飾る余裕などどこにもなかった。肩や腰には鉛のような疲労が蓄積し、息をするたびに背中の筋肉が鈍い痛みを訴えかけてくる。
しかし、真奈の心は不思議なほどに平穏だった。
自分の足で立ち、自分の責任ですべてを決断する。
誰も助けてはくれない。誰も理不尽な重圧から庇ってはくれない。
けれど、虚飾を顔に貼り付けて他人の顔色を窺い、親の関連企業に媚びる必要もない。自分が美しいと信じるものを、自らの手で作り上げる喜びだけが、その狭い部屋には確かにあった。
真奈は、少しずつ自立の道を歩み始めていた。
しかし、その強靭な足取りの根底に流れているのは、決して前向きな希望や、未来への明るい光などではなかった。
深夜の事務所で、図面に赤ペンを入れながら、真奈はふと手を止めた。
幼い頃から、親の過剰な期待という檻の中で感じていたあの冷たい諦念。それが今、彼女の魂の最も深い部分に、根を下ろしてしまっていた。
自分は、他人に弱さを見せることができない。見せれば、あの氷雨の夜明け前のように愛する人を深く傷つけ、結果としてすべてを失ってしまう。自分の本当の姿は、誰にも受け入れてはもらえないのだ。
だから、もう誰かに寄りかかろうと期待するのはやめよう。誰かを愛し、誰かに深く愛されたいと渇望するのは、もう終わりにしよう。
彼との日々は、人生にほんの少しだけ差し込んだ、奇跡のように美しく、そして哀しい、ひとひらの幻だった。あの名前のない穏やかな時間、海の街で交わした優しいキス。その思い出だけを、人生で一番美しい宝物として心の奥底に厳重に鍵をかけて閉じ込めておけば、それでいい。
この色を失った乾いた世界を、ただ淡々と歩いていくのだ。
真奈は、傍らに置かれたマグカップに手を伸ばし、冷めきったコーヒーを一口飲んだ。
スーパーで買った安いインスタントのコーヒーは、あの琥珀色の工房で飲んだ深く焙煎されたコーヒーとは比べ物にならないほど薄く、酸っぱかった。荒れた胃の粘膜が鋭く抗議の痛みを上げるが、それでも真奈は表情一つ変えずにその黒い液体を飲み下し、再び図面へと視線を落とした。
夜遅く、一人きりの小さな事務所。
パソコンのモニターから放たれる青白い光に照らされた真奈の横顔は、すっかり無駄な肉が落ち、大人びて、近寄りがたいほどの冷たい美しさを纏っていた。
かつての、有能なチーフの顔ではなく、すべてを諦め、自分の足だけで立つ覚悟を決めた、孤高な女の顔だった。
マウスを動かす微かな摩擦音が、静寂に満ちた部屋に単調に響いた。
ふと、換気のために少しだけ開けていた窓から、初夏の湿った夜風が吹き込んできた。ぬるい風が、彼女の白い頬を撫で、デスクの上に積まれた紙の束を微かに揺らす。
その沈黙を破るように、デスクの上に伏せて置かれていたスマートフォンが、低く、短く震えた。
真奈は、マウスから手を離し、ゆっくりと視線を向けた。
液晶画面が明るく発光し、そこに表示された『母』という二文字の着信表示を、真奈は瞬き一つせずに見つめた。
母親からの電話が意味するものは、火を見るよりも明らかだった。独立してからというもの、心配を装って何度も繰り返されてきた、見合いの打診。
画面を見つめる真奈の瞳には、何の感情の揺れも、反発の色も浮かんでいなかった。ただ、自らが生まれ落ちたその場所の、決して逃れられない強固な引力を確かめるように、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。
画面をスワイプし、耳元に当てる。予想通り、母の麗子の声は、娘の体調を気遣う言葉の裏で、着々と準備を進めていた良縁の話を淀みなく並べ立ててきた。
「うん、分かってる。今度の週末ね。お相手の方にも、よろしく伝えて」
抑揚のない声で通話を切り、真奈は暗い部屋の窓辺に寄りかかった。
見合いの承諾。それは、自らが親の期待という硝子の檻へ帰還することを意味していた。
スマートフォンをサイドテーブルに伏せて置き、微かに開けた窓の隙間から流れ込んでくる夜風を肺の奥へと吸い込む。湿気を帯びた夏の初めの風が、火照った肌をなぞっていく。
独立してからの数ヶ月、真奈は必死になって働き、ようやく小さな事務所の経営を軌道に乗せつつあった。仕事は充実していたし、自分の足で立っているという確かな手応えもあった。しかし、皮肉なことに、社会的・経済的な自立を果たせば果たすほど、真奈の心の内側に空いた巨大な空洞の存在は、より一層輪郭を鮮明にしていった。
何のために一人で戦っているのだろう。
ふとした瞬間に訪れるその虚無感は、どんなに仕事で埋めようとしても決して塞がることはなかった。
結局のところ、愛する人にすら本音をぶつけることができず、ただ自分の殻に閉じこもって逃げ出しただけの臆病な子供なのだ。自分の弱さを見せれば、相手を傷つけ、そして自分自身も取り返しのつかない傷を負う。それが恐ろしくて、自らあの温かい琥珀色の世界を壊してしまった。
もう二度と、あんなに誰かを求めて心が千切れるような思いはしたくない。ならばいっそ、初めから何も期待しなければいい。感情を殺し、定められたレールの上の景色だけを見て歩いていけば、少なくともこれ以上血を流すことはないのだから。
それから一ヶ月後、真奈は都内の一流ホテルのラウンジで、見合い相手の男と向かい合っていた。
足音が吸い込まれるほどの分厚く重厚な絨毯。適度な温度に保たれた平穏な空間で、高柳という名のその男は、父親の取引先の重役の息子であり、自身も大手商社の次期役員候補として将来を嘱望されているエリートだった。
真奈より五つ年上で、仕立ての良いネイビーのスーツを着こなし、身のこなしは洗練され、言葉選びにも教養と穏やかさが滲み出ている。
非の打ち所のない、誠実で立派な男性だった。
「佐倉さんは、ご自身でデザインの事務所を経営されていると伺いました。とても素晴らしいことですね。芯のある女性は魅力的です」
高柳は、ティーカップをソーサーに音もたてず置きながら、穏やかな微笑みを向けてきた。硬質な白磁の触れ合う音が、上品に響く。彼の瞳には、真奈に対する明らかな好意と、庇護欲のようなものが浮かんでいる。
彼となら、きっと何不自由ない、絵に描いたような穏やかな家庭を築くことができるだろう。両親も手放しで喜び、周囲の誰もが祝福してくれる、誰もが羨むような結婚。
「ありがとうございます。でも、まだ駆け出しの小さな事務所ですから」
真奈は、用意していた無難な言葉を返し、口角を上げて優しく微笑み返した。
テーブルの下で、自分の心臓にそっと意識を向けてみる。
微塵も、跳ねなかった。
高柳の整った顔を見ても、知的な会話を交わしても、褒め言葉を贈られても、真奈の胸の奥は凪いだ水面のように、しんと静まり返っていた。カップを持ち上げる高柳の指先は、ささくれ一つなく、滑らかで美しかった。それを見た瞬間、真奈の脳裏に、ヤスリや薬品で無骨に硬くなった、蓮の繊細な指先が鮮烈にフラッシュバックする。
あの冬の夜、彼の大きな手に触れただけで全身の血が沸き立つように熱くなった、あの狂おしいほどの温度が、ここには欠片もない。高柳の纏う高級なシトラスのコロンの香りは、真奈の嗅覚を通り抜けるだけで、心までは決して届かなかった。
古い紙の匂いと、深いコーヒーの苦味と、ストーブの温かい匂いしか、今の魂を満たすことはできないのだと、絶望的なまでに理解させられるだけだった。
それでも、真奈は作られた微笑みを崩さなかった。
心が動かないからこそ、いいのだ。感情が波立たない相手となら、傷つけ合うこともなく、ただ共同生活者としての手続きを淡々とこなしていくことができる。
愛されることを諦め、愛することを放棄した真奈にとって、この見合いはただの安全な避難所であり、二度と外へ出ることのない硝子の檻だった。
夏が過ぎ、季節が秋へと移り変わるにつれ、外堀は急速に、そして確実な足取りで埋められていった。
週末ごとの食事、美術館でのデート、そして両家を交えた会食。高柳は真奈を大切に扱い、真奈の両親もこれ以上ない良縁だと歓喜の涙を流して喜んだ。真奈が長年背負わされてきた親の期待という呪縛は、この結婚という儀式によって、ついに盤石な形で満たされようとしていた。
十月の半ば。冷たい秋雨が窓を叩く休日の午後。
真奈は、自分のアパートのベッドに腰掛け、分厚いウェディングドレスのカタログを膝の上に広げていた。
高柳からのプロポーズは、二週間前の夜、夜景の見える豪奢なフレンチレストランで、真摯な言葉とともに行われた。真奈は短い言葉で頷き、左手の薬指に冷たく重いダイヤモンドの指輪を受け取った。
そのダイヤモンドは、信じられないほど純粋で、鋭い光を放っていた。しかし、真奈にとってその指輪は、ただ指の血流を止めるための冷たい足かせのようにしか感じられなかった。アパートのデスクの一番奥の引き出しに、ハンカチに包んで隠してある、あのアンティークショップで買ってもらった真鍮のすずらんのブローチ。あの鈍い光沢の方が、何万倍も真奈の心を震わせた。
十二月の初旬には結納を交わし、翌年の春には結婚式を挙げるというスケジュールが、すでに両家の間で決定している。
真奈の指先が、光沢のある分厚いページを機械的にめくっていく。
純白のシルク、繊細なレースの刺繍、豪奢なティアラ。どれもため息が出るほど美しいはずなのに、真奈の目はただの印刷物のインクの集合体としてしかそれらを認識していなかった。
まるで他人の人生のあらすじを読んでいるかのような、かなり現実離れした感覚。心をあの琥珀色の工房に置き去りにしてきた彼女にとって、誰の隣でどんなドレスを着ようと、それはただの事務的な作業でしかなかった。
感情を喪失した指先が、また一枚、光沢のあるページをめくった。
その紙の擦れる音が、遠く離れた別の場所で響く、微かな金属の摩擦音と重なり合った。
それは小さな、けれど正確で冷酷な、古い時計の歯車が噛み合う音だった。
同じ時刻。冷たい秋の雨に打たれる、アンティーク調の深い焦げ茶色の木枠で縁取られたガラス窓。
真奈がいなくなってから半年が過ぎても、蓮のいる工房の時間は、あの氷雨の夜明け前から一秒も進んでいなかった。
ストーブの火は落とされ、室内は薄暗く、とても冷え切っている。
蓮は、作業台の前に座り、小さな黒いルーペを目にはめ込んだまま、古い懐中時計の精密な心臓部と向き合っていた。
真奈をあの夜に拒絶し、永遠に扉を閉ざした後、蓮は再び誰も寄せ付けない深い孤独の中に身を沈めた。彼女を救えない無力な自分が、これ以上彼女の重荷になるべきではない。自らの愛は女を壊す劇毒であり、彼女を突き放すことこそが、彼女が自立して生きていくための唯一の正解だったのだと、何度も、何度も自分に言い聞かせた。
しかし、その理屈の城壁は、季節が巡るごとに内側から音を立てて崩れ落ちていた。
ふと視線を上げれば、カウンター越しにある丸テーブルと、真奈がいつも座っていたアンティークのスツールが目に入る。
目を閉じれば、彼女の姿が網膜に生々しく焼き付いている。
凍える手でコーヒーカップを包み込みながら、必死に充実した女を演じていた彼女の痛ましい作り笑い。氷雨に濡れ、熱に浮かされながらも、蓮には関係ない、と強がって叫んだ彼女の震える唇。
そして、彼女が逃げるように去った後に残されていた、あの華やかなフローラルの香水の幻の香りが、今もこの空間の隅々を漂っている。
換気をしても、季節が変わっても、彼女の気配だけが幽霊のように蓮の周囲を彷徨い、そのたびに彼の首を真綿で締め上げていった。
蓮は、極小の歯車をピンセットで挟み上げようとした。
しかし、先端が微細に震え、小さな歯車が微かな金属音を立てて作業台の上に滑り落ちた。
蓮の動きが、そのまま止まった。
伏せられた長い睫毛が、青白い光の中で頬に濃い影を落としている。微かに開いた薄い唇から、震えるような浅い呼吸が漏れた。
彼は、自らの右手をじっと見つめた。アンティークのミクロン単位の傷を見極め、どんなに繊細な修復も寸分違わずこなしてきたはずのこの手が、たった一つの部品を拾い上げることもできず、情けなく痙攣している。
同情なんてしないで。私を可哀想な女みたいに扱わないでよ。私の領域に、これ以上踏み込まないで。
真奈の叫びが、再び脳内でこだました。
蓮はルーペを外し、冷たい作業台に両手をついて、深く項垂れた。
自分は、真奈のためを思って彼女を突き放したのではない。
かつての妻を壊してしまったというトラウマ。それは事実だ。だが、本当に彼女たちを思って接していたのだろうか。
そうではない。
ただ、自分のこの無音の無菌室のような世界が、他人の抱える生々しい現実で汚されるのが恐ろしかっただけだ。
他人の人生の重圧を共に背負い、汚濁にまみれて這いつくばるだけの覚悟がなかった。だから、相手が一人で立てなくなるからという尤もらしい理由を盾にして、安全な外側から綺麗な言葉だけを並べていたのだ。
彼女がもがき苦しんでいる時、その心の中に自ら足を踏み入れ、彼女の重さを半分引き受けることを、蓮は拒んだ。愛という名を借りて、ただ己の卑怯な自己保身を守り抜いただけなのだ。
その決定的な真実に辿り着いた瞬間、蓮の魂は自らが作り上げた自己欺瞞の檻とともに、音を立てて粉々に砕け散った。
声にならない、手負いの獣のような呻きが喉の奥から漏れる。
蓮は、作業台から滑り落ちるようにして床にへたり込み、両手で自らの顔を深く覆った。
自分が傷つくことから逃げた卑怯な男が、世界で一番愛する女性に、どれほど残酷な絶望を突きつけたのか。彼女はあの夜明け前、どれほどの孤独と悲しみを抱えて、雨上がりの冷たい道を一人で歩いて帰ったのだろう。
彼自身のこのエゴイスティックな弱さが、彼女を永遠に失わせたのだ。
もう二度と、彼女があの恥じらうような笑顔でこの扉を開けることはない。
あの細い背中を抱きしめることも、冷え切った指先を温めてやることも、一生叶わない。
永遠に喪われたものへの地獄のような後悔が、真っ黒な津波となって蓮の全身を呑み込んでいく。床にうずくまり、肩を激しく震わせる彼の周囲で、壁に掛けられた時計たちだけが、持ち主の絶望など意に介さず、残酷な時の刻みを続けていた。
十一月も終わりに近づき、東京の街にはすでに本格的な冬の足音が重く響き始めていた。
灰色の雲が低く垂れ込め、日差しを遮ったビル群の間を、刺すような北風が容赦なく吹き抜けていく。歩道の脇を彩る街路樹はすでに葉を落とし、裸になった枝先が寒々と空に伸びていた。
冷たい風が吹き抜けるたび、蓮の脳裏に、あの氷雨の夜明け前の真奈の震える肩がフラッシュバックする。
高熱に浮かされながらも、必死に自分の領域を守ろうと強がった彼女の悲痛な横顔。彼女を突き放し、冷たい雨上がりの路地裏へと追いやってしまった自分自身の言葉の残酷さ。それらを思い出すたび、蓮は無意識に呼吸が浅くなり、胸の奥を鋭い刃で抉られるような痛みに苛まれていた。
真奈を失ってからの八ヶ月間、蓮はまるで透明な水の中を息を止めて歩くような日々を過ごしていた。アンティークの時計を直し、無音の工房で一人、味のしないコーヒーを淹れる。表面的には何も変わっていないはずの日常が、これほどまでに色褪せ、強烈な痛みを伴うものになるとは思ってもみなかった。
その日の午後、蓮は作業台の前に座り、動かない懐中時計の部品を虚ろな目で見つめていた。
ふと、入り口の古い真鍮のベルが、控えめで乾いた金属音を店内に落とした。
客が来るような時間ではない。蓮がゆっくりと顔を上げると、すりガラスの扉を開けて入ってきたのは、キャメル色のコートを着た若い女性だった。
彼女は、アンティークの古い匂いが漂うこの空間には不釣り合いな、どこか怯えたような、けれど強い決意を宿した瞳で蓮を真っ直ぐに見つめていた。
「突然、申し訳ありません。雨宮さん、ですよね」
女性の声は微かに震えていた。蓮はすっと立ち上がり、警戒と戸惑いを交えた透明な瞳で彼女を見返した。見覚えのない顔だった。他人の領域と断絶しているこの工房に、蓮の名前を知る人間が訪ねてくること自体が異常だった。
「私は、広告代理店時代、佐倉真奈の後輩だった結衣と申します」
佐倉真奈。
その四文字の響きが鼓膜を震わせた瞬間、蓮の心臓の奥底で、ざわりと冷たい波が激しく粟立った。呼吸が止まり、作業台の縁に置かれた指先が微かに痙攣する。
真奈は、この工房のことを会社の人間には一切話していなかったはずだ。自らの現実を彼に持ち込まないため、彼女は公私の領域を切り分けていたのだから。
「なぜ、ここを」
蓮の口から漏れた声は、極度の緊張で掠れていた。結衣は両手で自らのコートのポケットを固く握りしめ、深く頭を下げた。
「三月の、あの氷雨が降った夜のことです。あの頃の先輩は、連日の過酷な労働と重圧で、とっくに限界を超えていました。感情が希薄になって、ただ淡々と、機械のように仕事をこなすだけの状態になっていて」
結衣の声が、沈黙の工房に痛切に響き渡った。
「あの日、深夜に会社を出た先輩の足取りが、あまりにも危うくて。私は心配で、声をかけることもできず、こっそり後をつけてしまったんです。そうしたら、先輩がこの路地裏で倒れ込んで」
蓮の目の前が真っ白になった。
あの日、真奈を抱き起こした瞬間、確かに路地の入り口に誰かの気配があったような気がした。しかし、目の前の真奈の命の危機に理性を失っていた蓮は、周囲の状況など一切目に入っていなかったのだ。
「私は、助けを呼ぼうとしました。でも、雨宮さんが、膝をついて先輩を抱き起こすのを見たんです。その時のあなたの顔から、心から先輩を大切に思っていることが痛いほど伝わってきて。先輩は会社では決して弱みを見せない人でした。でも、あなたに抱きかかえられた時、先輩は本当に安心したような、すべてを預けきった顔をしていました。だから私は、ここが先輩の本当の居場所なんだと悟って、黙って引き返したんです」
結衣の言葉が、蓮の胸の奥底に突き刺さり、治りかけていた傷口を無惨に引き裂いていく。
彼女にとっての本当の居場所。それなのに、自分は彼女のその信頼を裏切り、自己保身のために彼女を再び冷たい雨の中へと突き放してしまったのだ。
「私、ずっと後悔しているんです。先輩が突然会社を辞める最後の日、私はどう声をかければいいか分からなくて、立ち去る先輩から目を逸らして、無視するような形になってしまった。あんなに大好きだったのに、壊れていく先輩を救えなかった」
結衣の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。彼女もまた、真奈の孤独を深めてしまった己の無力さに苦しみ続けていたのだ。
「雨宮さん。先輩は、来月、結納をされます」
空間が分厚い水の底に沈んだように、あらゆる生活音が蓮の聴覚から消失した。
壁に掛けられた時計たちの秒針の音すらも、耳に届かない。
「結納」
蓮の口から漏れたのは、己の声とは思えないほど空洞のような音だった。
「はい。この間、給湯室で、噂好きの先輩の女性社員たちが話しているのを偶然聞いてしまったんです。真奈先輩はもう会社にいないのに、まだ陰口を叩いていて。その中の一人が、実はうちの上層部の役員と不倫関係にあって、そこから極秘の情報が漏れたみたいで」
結衣の唇が、怒りと悲しみに震えながら言葉を紡ぎ続けた。
「先輩が、うちの最大クライアントである大企業の令嬢だったこと。そして、その大口スポンサーの重役のご子息と、政略的な結婚の話が進められていること。局長宛てに、佐倉家から正式な結婚の挨拶状が届いたそうです。役員たちは、あんなに酷使していた先輩が、一番のスポンサーの娘だったと知って顔面蒼白になっているらしくて……」
結衣の吐き出した言葉の破片が、鋭利な氷の刃となって蓮の肺を切り刻んだ。
彼女は、ただの有能な会社員ではなかったのだ。最大クライアントの社長令嬢という巨大な重圧をひた隠しにし、親のコネを一切使わず、誰にも頼らずに一人で戦っていたのだ。
親の用意した、何不自由のない空間から逃れるために、出自を見事に隠して自分の力で立とうともがいていた。それなのに、自分が彼女を拒絶し、孤独の底へ突き落とした結果、彼女はすべてを諦め、一族の駒として、最も憎んでいた親の決めた檻に自ら閉じ込められようとしている。
彼の中で長年保たれてきた、あの無音で冷ややかな雨宮蓮という男の分厚い殻が、内側から粉々にひび割れていった。
「でも、おかしいんです。先輩、退職した後はご自身で小さな空間デザインの事務所を立ち上げて、たった一人で頑張っていたのに。あんなにデザインの仕事を愛して、自分の力で立つことを誇りにしていたのに。それを全部捨てて、親の敷いたレールという檻に閉じ込められようとしているなんて」
結衣が、両手を固く握りしめ、祈るような眼差しで蓮を真っ直ぐに見上げた。
「先輩の心が、本当に死んでしまう前に。どうか、先輩を助けてあげてください。先輩が心から安心して寄りかかれるのは、世界であなただけなんです」
いつもどこか遠くを見つめていた、蓮の諦念に満ちた透明な瞳。
その瞳孔が限界まで見開かれ、そこへ、かつて彼が一度も感じたことのない、絶望的な喪失感と、とても純粋で痛切な後悔の炎が点った。
「知らせてくれて、ありがとう」
結衣が深く頭を下げて工房を去った後、蓮は冷え切った暗い部屋の真ん中にただ一人立ち尽くしていた。
真奈が、結婚する。
自らの意志とは無関係の、親の決めた誰かのものになろうとしている。
その事実が、ゆっくりと、しかし致死量の劇毒のように蓮の全身の血管を駆け巡り始めていた。
自分が深く傷つけ、生きる気力すら奪ってしまった女性が、自分の手の届かない場所へ、永遠に去ろうとしている。二度と触れることも、名前を呼ぶことも許されない、別の男のものになろうとしているのだ。
蓮は、ふらつく足取りでカウンターに近づき、真奈がいつも座っていたアンティークのスツールに手を触れた。
冷たい木肌の感触。彼女の温もりは、もうここにはない。
蓮の胸の奥から、声にならない乾いた嗚咽が漏れた。彼はそのままスツールの前に崩れ落ち、両手で自らの顔を深く覆った。
無音の工房に、絞り出すような低い呼吸音が響いた。
真奈のためを思って彼女を突き放したなどと、どれほど美しい理屈を並べ立てようとも、現実は違った。ただ、自分が傷つくことから逃げただけの、卑怯で臆病な男だったのだ。
結衣でさえ、自らの弱さを恥じ、真奈を案じてこうして勇気を振り絞り、行動を起こしたというのに。
愛する人間を壊してしまうのが怖いと、自らを偽り遠ざけた結果がこれだ。
彼女は今、魂を殺され、親の用意した無機質な空間の部品として消費されようとしている。彼女が最も憎み、逃れたがっていたはずの冷たい檻の中に、この手で彼女を突き落としてしまったのは、他ならぬ蓮自身だった。
蓮の指の隙間から、温かい雫が零れ落ち、床の古いフローリングに弾けて消えた。
彼がどれほど時計の針を直し、時を刻ませようとも、彼の人生はあの夜明け前、彼女を失った瞬間からすでに死んでいたのだと悟った。
もう、見せかけの盾などどうでもよかった。
過去のトラウマも、他人の人生に踏み込む恐怖も、己の愚かさも。
彼女が他の男の隣で、あの痛ましい諦めの笑顔を浮かべて生きていくことの絶望に比べれば、自分が傷つくことなど塵ほどの躊躇いもなかった。
もし彼女が、その結婚という名の檻の中でゆっくりと息絶えていくことを選んだのだというのなら、その檻を物理的に破壊してでも、彼女を引きずり出す。
社会的な体面を汚し、彼女の両親から糾弾され、世界中のすべてから蔑まれようとも構わない。あらゆるすべての業を被り、彼女が背負わされている理不尽な現実ごと、力ずくにでも奪い返す。
蓮は、濡れた両手で顔を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
自分が長年守り続けてきた沈黙という名の殻は、もはや跡形もなく砕け散っていた。
親の期待を背負って結納の席につこうとしている彼女の前に現れれば、彼女を深く戸惑わせるだろう。周囲の人間から、身勝手で常軌を逸した男として非難されることは火を見るよりも明らかだった。
それでも、立ち止まるという選択肢はすでに蓮の中から消滅していた。
どれほど無様でも、どれほど情けなくても、必ず会いに行く。
彼女が一人で生きていけるとしても、自分には真奈が必要なのだ。彼女のいない世界など、一秒たりとも生きている意味がないのだと。
孤独を愛し、平穏の中で生きてきた男が、ついにその内側に隠し持っていた、狂おしいほどに純粋で生々しいエゴイズムを覚醒させたのだ。
蓮は、作業台の上に置かれていた時計の部品を無造作にケースへしまい込み、静かに前を見据えた。
もう、止まった時間を直している暇などない。彼の時間は、自らの足で動かさなければならないのだ。
ふと、ブラインドの隙間から窓の外を見る。
街灯の光に照らされた暗い夜空から、白いものが、音もなく舞い降り始めている。
今年初めての、雪だった。
あの日、彼女がずぶ濡れになってこの工房の軒先に転がり込んできた夜と同じ、冷たく、美しい雪。
凍てつくような冬の夜空を見上げ、蓮はその透明だった瞳に、決して退かないという強靭な決意の光を宿した。
あと数週間で、クリスマスイブがやってくる。
真奈の結納が執り行われるその日は、偶然にも、あの一年前に彼女と初めて地下鉄のホームで視線を交わし、互いの孤独を共鳴させた運命の日と同じだった。
あの零下のステージへと、二人の止まった時間は再び、劇的な速度で動き始めていた。




