↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『冬の青、夜の底』  作者: 長月有希


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/10

第五話:悲しい嘘

 三月に入ると、季節は一度だけ、まるで人間たちの甘い期待を嘲笑うかのような残酷な揺り戻しを見せた。

 あの海辺の街で、二人が確かに感じた柔らかな春の気配は、悪質な幻であったかのように遠ざかり、光を余すところなく遮断する鉛色の分厚い雲が、東京の空を低く重く覆い尽くしていた。身を切るような氷雨が、昨日の夜明け前から一瞬の途切れも見せることなく、執拗に降り続いていた。

 高層ビルの分厚いガラス窓を容赦なく打ち据える雨粒は、真冬に舞う粉雪よりもずっと鋭く、明確な悪意と意志を持ったように重い。情け容赦なく体温を奪い去っていくその冷たさに、ほころびかけていた街路樹の固い蕾も、痛みを堪えるように固く身を縮めていた。アスファルトを叩きつける灰色の雨音だけが、巨大な都市の喧騒を底冷えのする水底へと冷ややかに飲み込んでいる。


 窓の外の氷雨と同じくらい冷え切った、ひどく淀んだ空気が、大手広告代理店の広大なオフィスフロア全体を重苦しく満たしていた。

 佐倉真奈は、自分のデスクの前に立ち尽くしたまま、黒い受話器を指の関節が白く浮き出るほど強く握りしめていた。頭蓋の奥で、不快な血流の拍動が鈍く、そして執拗に響き続けていた。体の節々に微かな熱っぽさと痛みが走り始めていたが、真奈はそれをただの蓄積された疲労なのだと自らに言い聞かせ、強引に意識の底へと押し込んでいた。この戦場のような職場で、己の体調不良などという甘えで歩みを止めることなど、到底許される状況ではなかったからだ。パソコンのモニターから放たれる青白い光が、充血した眼球を容赦なく突き刺した。


「ですから、その特殊ガラスの仕様変更は事前にそちらの責任者にも確認を取って、書面で合意したはずです。開幕まであと一週間しかないこのタイミングで、手配できないと言われても困ります。代わりの業者は、今日中に確保できるのですか」


 這い上がってくる、どうしようもない苛立ちと、足元が崩れ落ちるような絶望を必死に喉の奥で押し殺し、真奈は極めて冷静な、感情が抜け落ちた平坦な声で電話口の相手に告げた。

 しかし、受話器から返ってくるのは、施工業者の担当者からの無責任な言い訳と、責任転嫁の言葉ばかりだった。海外の工場との連携ミスだ、間に合わないものはどうやっても間に合わない、そもそもそちらのスケジューリングに無理があったのだと、向こうは一方的に通話を終わらせようとしていた。

 真奈が全体統括を任されている春季大型エキシビションは、彼女のこれまでのチーフとしてのキャリアの集大成とも言える、社運を賭けた大規模なプロジェクトだった。訪れた人が日常の重圧を忘れ、心から安らぎ、自然と笑顔になれるような、温かく美しい光の空間であり、自らの手で人々の心を震わせる場所を創り出したいという、真奈の空間デザインへの純粋な情熱の結晶でもある。それは睡眠時間をすべて注ぎ込み、何度も図面を引き直して作り上げた、絶対に失敗の許されない仕事であった。


 しかし、事態は真奈の統制を完全に離れ、最悪の方向へと転がり落ちていた。

 下請け業者の致命的な発注ミスにより、メインステージを飾るはずの特殊なガラス資材がどうしても確保できないことが、昨夜になって唐突に判明したのだ。それに伴うスケジュールの破綻、一から代替案を組み直すための膨れ上がる追加予算の承認。最大クライアントである父の関連企業からの連日の激しいクレームに、社内の上層部は手のひらを返したように、すべての責任の所在を現場のチーフである真奈一人に押し付けようとしていた。


 夕方に行われた緊急の対策会議では、役員たちから氷のような冷酷な言葉が次々と突きつけられた。


『すべて君の現場管理不足だ。このままでは会社に多大な損害が出る。どうやってこの事態の責任を取るつもりだ』


 暖房の過剰に効いた広い会議室の中で、何十人もの冷ややかな視線が、円卓の端に座る真奈を無慈悲に串刺しにした。誰一人として、彼女を庇う言葉を発する者はいなかった。

 毎日、終電の時間が過ぎるまで怒号とため息が飛び交う殺伐とした現場で、真奈は各所の調整と謝罪の電話に追われ続けていた。睡眠時間は連日三時間を切り、コンビニで買った冷たいサンドイッチもろくに喉を通らず、ただ苦いブラックコーヒーだけで無理やり神経を覚醒させている。限界を超える重圧で胃液が逆流し、夜中に何度かオフィスのトイレの個室に駆け込んで吐いた。


 これまで彼女を縛り付け、同時に守ってもきた有能なチーフという装甲は、今や崩壊寸前のプロジェクトの責任をすべて負わされるための、ただの生贄の烙印へと成り下がっていた。

 受話器を置くと、真奈は肺の底に溜まった重いため息を深く吐き出した。

 周囲の同僚たちが火の粉を恐れて目を逸らす中、右腕として真奈を慕っていた後輩の結衣だけは、見かねて真奈のデスクに近づいてきた。


「先輩。顔色、すごく悪いです。あとの各所への連絡は私が引き継ぎますから、少し休んでください」


 結衣の震える声色には、切実な心配が滲んでいた。しかし、真奈はパソコンのモニターに向けられていた視線をゆっくりと結衣へ移すと、計算し尽くされた自然な角度で口角を引き上げた。


「ありがとう。でも、大丈夫。私が確認しないと進まない案件ばかりだから、気にしないで自分の仕事を進めて」


 それは、言葉としてはこの上なく正しく、後輩を思いやる盤石な返答だった。しかし、結衣は息を呑んで言葉を失った。真奈の瞳の奥には、自らの姿が微塵も映っていなかったからだ。虚無を宿した瞳は、一切の温度を持たない眼差しになっていた。真奈はすでに、他人の感情を受け取る回路を自ら焼き切り、ただ淡々とタスクを処理するだけの空虚な機械になり果てていた。

 その人を寄せ付けない冷気を前にして、結衣はそれ以上踏み込む言葉を見つけられず、戸惑いとともに小さく会釈をして後ずさるしかなかった。


 視界の端がかすかに白く明滅し、平衡感覚が失われそうになる。目眩を堪えるようにデスクの角を強く握りしめると、冷え切った指先が細かく震えた。

 限界だった。

 身体も心も、とうの昔にその境界線を越え、悲鳴すら上げられなくなっていた。

 今すぐ誰かにすがりついて、もう無理だと、助けてほしいと声の限りに泣き叫ぶことができたら、どれほど楽だろうか。


 あの日見た夕暮れの美しいグラデーションと、自分を包み込んでくれた蓮の確かな体温が、熱病のような鮮烈さで真奈の脳裏に蘇った。

 彼の大きく、骨ばった手。深く焙煎されたコーヒーの、苦く香ばしい匂い。無音に近く、どこまでも優しく、時間の流れが外の過酷な世界とは全く違う、あの温かい空間。

 あそこに行きたい。

 今すぐ彼の元へ逃げ込み、あの温かな胸に顔を埋めて、何もかも忘れてただ眠りたい。彼の低く穏やかな声を聞くだけで、きっとこの張り詰めて切れそうな糸は、柔らかくほどけてしまうだろう。


 しかし、真奈はその強烈な希求を、自らの強固で冷酷な意志によって強引に断ち切った。

 壁の時計の針は、午後九時を回っている。これから少しだけ彼に会いに行く約束をしているが、この底なしの汚濁のような現実を、決して彼の純粋な領域に持ち込んではならない。

 彼は、アンティークを愛し、平穏の中で生きている人だ。過去に深く愛した妻を壊してしまったという凄惨な記憶を持ち、他人の人生に深く踏み込むことを極端に恐れていた彼が、あの夜、ようやく自分に向けて開いてくれた大切な扉。

 そこに、仕事の愚痴や、限界まで心身をすり減らして周囲から孤立した醜い自分の姿を持ち込めば、彼はどう思うだろうか。きっと、彼女の抱える重圧の黒い闇が、彼の美しい世界まで汚してしまう。

 面倒で、重い女だと思われたくない。彼にとっての自分は、常に凛として前を向き、自らの足で歩く女性でありたかった。彼が自分を愛してくれたのは、一人で孤独に耐え抜く芯の強さがあったからだと、真奈は固く、呪いのように信じていたからだ。


 彼を愛しているからこそ、彼にはただ、綺麗な私だけを見ていてほしい。

 真奈は乾いた両手で自分の熱を持った頬を強く叩き、無理やり仕事の絶望からスイッチを切り替えると、薄手のトレンチコートを羽織って、逃げるようにオフィスを飛び出した。


 大通りから一本外れた、薄暗い路地裏。

 冷たい氷雨に打たれながら、木枠で縁取られたガラス窓の前に立った。ブラインドの隙間からは、今日も温かい琥珀色のランプの光が、雨の夜の闇に向かって漏れていた。

 その光を視界に捉えた瞬間、限界まで張り詰めていた心の糸が緩みそうになり、鼻の奥が鋭く痛むのを、真奈は奥歯を噛み締めて必死に堪えた。深呼吸をして、氷のように冷たく湿った空気を肺いっぱいに吸い込む。

 虚飾の笑顔を顔の筋肉に縫い付け、真奈は重い木の扉の真鍮のドアノブをゆっくりと回した。


 古い真鍮のベルが、控えめで乾いた金属音を店内に落とした。

 ストーブの青い火が燃える室内には、古い紙と木材の匂い、そして彼がちょうど淹れていたコーヒーの深く香ばしい匂いが満ちていた。外の凍えるような氷雨の寒さが嘘のように、ここは安全に守られた別の星のようだった。

 壁に掛けられたいくつものアンティーク時計が、外の過酷な世界とは違う、穏やかで優しいリズムで時を刻んでいる。

 カウンターの奥で古い時計の部品を磨いていた蓮が、真奈の姿を認めてそっと顔を上げる。黒いタートルネックに身を包んだ彼と、視線が交差した。


「おかえり。外、ひどい雨だったろう」


 低く、耳の奥の神経を甘く震わせるような声。

 その響きを直接聞いただけで、真奈は強固に築き上げたはずの防波堤が決壊して、その場にうずくまって泣き出してしまいそうになった。しかし、彼女はコートのポケットの中で自らの爪が手のひらに深く食い込むほど拳を強く握りしめ、花が咲くような、一切の翳りのない明るい笑顔を作った。


「うん、すごく冷えた。でも、蓮の顔を見たらすっかり温かくなっちゃった」


 努めて弾んだ声で言いながら、真奈は濡れたコートを脱ぎ、入り口のハンガーに掛けた。

 蓮は何も言わず、ストーブの前の小さな丸テーブルに、真奈のためのアンティークのカップを置いた。繊細な金彩が施された古いマイセンのカップから、湯気を立てる深煎りのコーヒーの香りが立ち上る。

 真奈はスツールに腰掛け、両手でそのカップを包み込むようにして冷え切った指先を温めた。


「仕事は、どうだ。少し疲れているように見えるが」


 蓮が、向かいの席に座りながらゆっくりと尋ねる。

 彼の眼差しは、いつも通り穏やかで、まるで真奈の抱えている凄絶な嘘をすべて見透かしているかのように真っ直ぐだった。真奈は一瞬だけ心臓が嫌な音を立てて跳ねるのを感じたが、すぐにいつもの微笑みでそれを覆い隠した。


「ううん、全然。仕事、順調だよ。春の大きなエキシビションの責任者を任されてて、少し忙しいけど、すごく充実してる。私のデザインした空間が、少しずつ形になっていくのが本当に楽しくて」

「そうか」

「うん。周りのスタッフも優秀な人ばかりだし、大変だけど、やりがいがあるの。昨日もね、アシスタントの子と一緒にランチに行って、すごく美味しいパスタのお店を見つけたんだよ。今度、蓮も一緒に行こうよ」


 まるで何度も練習して用意していた台本を読み上げるように、澱みなく紡がれる言葉。

 真奈は、自分のついた嘘が彼に悟られないよう、さらに明るいトーンで現場での他愛のない出来事を話し続けた。トラブルなど一切起きていない、周囲に恵まれた環境で生き生きと働く空間デザイナーの姿。

 それは、孤立無援で現実からはかけ離れた、見せかけの充実した日常だった。自分を大きく見せたいわけではない。ただ、彼を安心させ、彼の美しい世界を汚したくないだけなのだ。


 しかし、彼女の身体は、その残酷なまでの無理を隠し通すことはできなかった。

 話し続けながら、真奈がコーヒーを飲もうとカップを持ち上げた瞬間だった。

 彼女の指先の神経が、自分自身の意志に反して細かく震えていた。持ち上げたマイセンのカップとソーサーが不規則に触れ合い、硬質な陶器同士がぶつかり合う、微かな、しかし無音の工房の中ではひときわ耳障りな摩擦音を立てる。

 真奈は息を呑み、慌てて両手でカップを強く握り込み、その震えを力技でねじ伏せた。


「あ、ごめん。外が寒かったから、まだ手が少し冷えてるみたい」


 真奈は誤魔化すように笑い、コーヒーを一口飲んだ。丁寧に淹れられたはずの深い苦味が舌に広がるが、熱を帯び始めた彼女の麻痺した味覚では何も感じ取れなかった。ただ、彼に怪しまれないように、必死に平静を装い続けることしか頭になかった。

 少し多めに振ったフローラルの香水が、ストーブの熱で温められ、部屋の中に甘く立ち込めている。しかし、その華やかな香りの奥底から、どうしようもない疲労の匂いと、冷や汗を伴うような切羽詰まった焦燥の気配が漏れ出していることに、真奈自身は気づいていなかった。


 真奈の取り繕った笑顔を見つめながら、蓮の相槌がふいに途切れた。

 窓を絶え間なく打ち据える夜の雨音を聞きながら、蓮は真奈が口をつけたマイセンのコーヒーカップをじっと見つめ、やがて思わず目を伏せた。


 数分後、真奈が少しだけ身だしなみを整えるために洗面所へ立ち、戻ってきた時のことだった。

 薄暗い廊下から工房のスペースへと足を踏み入れようとした真奈の足が、入り口でぴたりと止まった。


 流し台の前に立つ蓮の背中が、異様なまでの緊張を孕んで硬直していたのだ。

 彼は、冷たい水で真奈の使ったマイセンのカップをゆっくりとすすいでいた。しかし、その手つきはいつものような慈愛に満ちたものではなく、どこかひどく強張っている。薄い縁にこびりついたコーラルピンクのルージュの跡を親指の腹で拭い落としながら、彼の広い背中は、まるで過去の亡霊に首を絞められているかのように微かに震えていた。

 シンクのステンレスの縁を握りしめる彼のもう片方の手は、関節が白く透けるほどの強い力が込められている。


 真奈の心臓が、冷たい手で掴まれたように縮み上がった。

 彼の横顔に落ちる、底知れぬ喪失感と無力感の影。

 真奈には、その背中が何を物語っているのか、痛いほどに察せられた。

 彼は、気づいているのだ。真奈の嘘に。そして、真奈が無理をして笑顔を作り、指を震わせてまで見栄を張っているその姿が、かつて彼が救えずに壊してしまったという、元妻の姿と残酷なまでに重なっていることに。

 愛する人間が目の前で悲鳴を押し殺しているのに、自分はまた何もできずにただ見ていることしかできない。その途方もない絶望とトラウマが、今、彼の魂を内側から食い破ろうとしている。


 私が、彼を苦しめている。

 私の醜い強がりが、彼の封印したはずの古傷を無理やりこじ開け、血を流させているのだ。


 真奈は、息を殺したまま一歩後ずさりした。

 声をかけることはできなかった。ここで「どうしたの」と無邪気に踏み込むことは、彼の痛みをさらにえぐることになる。

 真奈は足音を忍ばせて一度洗面所の方へ戻り、大きく深呼吸をしてから、わざと明るい足音を立てて再び工房へと戻った。


「蓮、ごちそうさま。私、明日も朝早いから、今日はもう帰るね」


 振り向いた蓮の顔には、すでにいつもの凪いだ平坦な表情が貼り付けられていた。しかし、その透明な瞳の奥底に渦巻く黒い痛みの残滓を、真奈は見逃さなかった。

 互いに、相手を深く思いやっているからこそ、本当のことが言えない。相手を壊したくないという純粋な愛情が、鋭い刃となって互いの内臓を切り裂き合っている。


「送っていく。雨が強くなっている」


 蓮がコートを手に取ろうとするのを、真奈は首を横に振って強く制止した。


「ううん、大丈夫。駅まで歩いてすぐだし、蓮は仕事の続きがあるでしょ。傘もあるから平気だよ」


 それは、彼をこれ以上自分の現実に巻き込まないための、最後の防衛線だった。

 蓮は少しの間だけ真奈の瞳を見つめ返したが、やがて短く肯定の吐息を漏らし、それ以上無理に追従することはしなかった。


 重い木の扉を開け、冷たい氷雨の中へ飛び出す。

 背後で扉が閉まる音が響いた瞬間、真奈は差していた傘の柄を握りしめ、濡れたアスファルトの上で泣き崩れそうになるのを必死に堪えた。

 全身の関節が熱を持ち、鉛のように重い。彼を愛せば愛するほど、自分という存在が彼の負担になっていく。その事実が、ウイルスよりもずっと深く、真奈の身体と心を確実に蝕み始めていた。


 それから、さらに三日が過ぎた。

 三月の東京を覆い尽くした氷雨は、一向に降り止む気配を見せない。


 真奈の置かれた状況は、救いようのない絶望の底へと向かって一直線に転がり落ちていた。

 施工業者とのトラブルは最悪な形で暗礁に乗り上げ、開幕に合わせた追加資材の確保は物理的に不可能であることが確定した。それに伴う上層部からの圧力と責任追及は、日を追うごとに苛烈さを増し、重役会議の場では連日、真奈の管理能力を問う冷酷な叱責が飛び交っていた。最大クライアントである父の関連企業に対して、すべての汚濁を背負って頭を下げ続けるのは、結局のところ現場の責任者である真奈ただ一人だった。

 三日間の徹夜。胃の腑は固形物を一切受け付けず、酸っぱい胃液だけを吐き戻す日々が続いていた。


 オフィスの化粧室でこっそりと測った体温計の液晶画面は、三十八度五分という危険な数値を無機質に点滅させていた。

 大人の肉体にとって、それはもはや自力で立っていることすら困難な熱量である。関節の節々が鈍器で砕かれたように激しく痛み、呼吸をするたびに肺の奥で熱い空気がヤスリのような摩擦音を立てる。それでも、真奈は解熱剤を大量の栄養ドリンクで無理やり胃の腑に流し込み、気力というただ一本の細い糸だけで意識を繋ぎ止めていた。


 自分が何のために図面を引き、誰のために謝罪を繰り返しているのかすら、彼女の思考からは抜け落ちはじめていた。

 空間デザインへの情熱も、自立への決意も、すべてがオフィスの中ですり潰され、消え失せた。ただ、迫り来る開幕の日に向けて、這いつくばってでも形を整えなければならないという強迫観念だけが、熱に浮かされた彼女を動かす唯一の原動力だった。


 金曜日の夜。壁の時計の針は、午後十一時を回っていた。

 オフィスのパソコンの電源を落とし、真奈はふらつく足取りでエレベーターへと向かった。

 まっすぐアパートに帰って何も考えずに眠らなければ、今度こそ本当に肉体の機能が停止してしまうと、脳の片隅で理性が冷ややかに警鐘を鳴らしている。しかし、真奈の足は無意識のうちに、まったく別の方向へと向かっていた。


 あの琥珀色の光が見たかった。

 ただ一目だけでいい。無音に包まれた工房の窓から漏れる温かいランプの光を見て、彼の存在を遠くからでも感じ取り、自分がまだ人間の形を保っていることだけを確認したかったのだ。

 彼に会わなければ、このまま本当に冷たい暗闇に溶けて、誰の記憶にも残らずに消え去ってしまいそうな、得体の知れない恐怖が彼女の背中を執拗に追い立てていた。


 地下鉄の駅の化粧室。

 白く、一切の影を許さないような蛍光灯の下で鏡を覗き込んだ真奈は、そこに映る自分自身の姿に息を呑み、思わず目を逸らした。

 血の気が失せ、透き通るほどに青白い肌。目の下には、洗顔しても落ちないような濃く深い隈がべったりと張り付き、唇は乾燥で痛ましいほどひび割れ、微かに血が滲んでいる。艶を失った髪は乱れ、瞳の奥の光は残酷にも消え失せている。それは、生命力を吸い取られ、ただ惰性で動いているだけの幽霊のような顔だった。


 このままでは、彼に会うことはできない。

 こんな醜く崩れ落ちそうな顔を見せれば、彼に心配をかけてしまう。彼のあの美しいアンティークの世界に、自身の抱える黒い塊を持ち込むことになってしまう。

 真奈は痙攣するように震える手でポーチを開け、コンシーラーを取り出した。目の下の暗い影を執拗に塗り潰し、パウダーを普段の倍の厚さに重ねて、陶器のような肌を人工的に作り上げようと試みる。しかし、三十八度五分の熱を持った肌は化粧の粉を弾き、不自然で滑稽な、まるで作り物のような仕上がりになってしまう。

 それでも、ひび割れた唇にコーラルピンクのルージュをたっぷりと引き、病的な青白さを無理やり血色の良い艶へと塗り替える。チークを少し濃いめに入れ、健康的な赤みを偽装する。

 仕上げに、バッグの底から小さな香水瓶を取り出し、手首と耳の裏、そして首元に、甘く華やかなフローラルの香りを幾重にも吹きかけた。徹夜のオフィスに染み付いた冷たく酸っぱい疲労の匂いと、生気を失った自身の気配を、一滴残らず消し去るために。


 鏡の中の、厚い装甲で武装した自分の姿に向かって、真奈は口角を上げる練習を繰り返した。

 少しだけひきつるその偽りの笑顔を脳の奥に焼き付け、真奈は重い足を引きずるようにして、化粧室を後にした。


 駅の階段を上り、地上への出口へ向かう途中、真奈の意識はすでに深い水底を漂うように混濁し始めていた。

 周囲の景色が白く靄がかり、行き交う人々の声が遠くのノイズのようにしか聞こえない。出口の手前にある傘立ての存在も、自分が朝に持ってきたはずのビニール傘の記憶も、三十八度五分の熱に浮かされた脳細胞からは余すところなく抜け落ちてしまっていた。

 雨が降っているという事実すら、今の彼女の思考回路では正しく処理することができなかった。ただ、あの路地裏の奥にある琥珀色の光を目指して歩かなければならないという、刷り込みのような本能だけが、彼女の身体を前へ前へと突き動かしている。


 外に出た瞬間、凍てつくような氷雨が、真奈の熱を持った頬を情け容赦なく叩きつけた。

 氷のような雨粒が、薄いトレンチコートを瞬時に濡らし、布地を透過して体温を急激に奪い去っていく。それでも真奈は、傘を差すという発想すら湧かないまま、雨を避けることもせずにただ力なく歩き出した。

 街灯の光が、濡れたアスファルトに反射して白く長く引き伸ばされている。視界が平衡感覚を失って激しく歪み、足元がおぼつかない。一歩踏み出すたびに、地面が波打つように不規則に揺れた。


 大通りを曲がり、あの薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。

 あと少し。あと数十メートル歩けば、あのアンティーク調の深い焦げ茶色の木枠で縁取られたガラス窓が見えてくるはずだった。

 彼の淹れるコーヒーの匂いが待っている。

 そう必死に思い描きながら歩みを進めたが、限界をとうに超えていた真奈の肉体は、ついに主の意志を裏切った。


 重力が消失したかのように視界が歪み、真奈の脳髄は乱暴に揺さぶられた。

 右足がもつれ、膝の力が抜ける。立て直そうと咄嗟に伸ばした手は空を切り、真奈は濡れたアスファルトの上へ、糸の切れた操り人形のように無防備に崩れ落ちた。


 冷たい濁水が跳ね、キャメル色のショートブーツとストッキングを無惨に汚していく。

 鋭い雨粒が、容赦なく背中を打ち据える。起き上がらなければならないと頭では理解しているのに、指一本まともに動かすことができない。アスファルトの刺すような冷たさが、高熱に浮かされた頬に心地よく感じられた。


 ここでこのまま目を閉じれば、怒号からも、終わらない仕事の重圧からも、すべて解放されるのだろうか。

 親の求める盤石な娘を演じ続ける必要も、愛する人に嫌われる恐怖に怯える必要もなくなる。薄れゆく意識の中で、真奈は安らかに目を閉じた。無慈悲な雨音だけが、彼女の鼓膜を悲しいほど優しく撫でていた。


 その時だった。

 顔を打ち据えていた氷雨の冷たい感触が、ふいに途切れた。


 規則正しくアスファルトを叩く雨音の中に、別の、重い布を打つような低い音が混じる。

 真奈が微かに重い瞼を持ち上げると、視界を遮るように、巨大な黒い傘が差し掛けられていた。

 そして、その傘の柄を握る男の黒い革靴と、濡れたスラックスの裾が暗がりの中に浮かび上がった。


 工房の中で真奈を待ち続けていた蓮だった。

 彼女が来るはずの時間をとうに過ぎても現れないことに強烈な胸騒ぎを覚え、居ても立っても居られずに店を飛び出してきたのだ。彼は雨から守るように真っ直ぐに傘を差していたが、その背中や肩は、容赦なく降り注ぐ氷雨に晒され、すでにずぶ濡れになっていた。


 蓮は、道端に倒れ伏す真奈を見下ろしたまま、呼吸を止めて硬直した。

 分厚い化粧の下からでもはっきりと分かる、死人のような青白さと異常な熱気。雨と汚濁で無惨に汚れた薄いコート。しかも、彼女はこの氷雨の中で、傘すら持たずに歩き、そして力尽きたのだ。

 その事実が、蓮の胸の奥底にどれほどの絶望と恐怖を突きつけたか。真奈には、彼が傘を握る手の関節が白く透け、小さく震えていることだけが、ぼんやりとした視界の中で確認できた。


 次の瞬間、蓮は無言のまま、手にしていた黒い傘を路地裏の片隅へと乱暴に投げ捨てた。

 他者の領域に踏み込まず、自らも決して濡れることのないように雨傘を差し続けてきた彼が、自らの神聖な掟をかなぐり捨てた瞬間だった。

 彼は濡れた道に躊躇いなく両膝をつき、上質なスラックスが黒く汚れることなど一切気にも留めず、凍りついた真奈の身体を自らの両腕で力強く抱き起こした。


 熱い。尋常ではない熱が、濡れた衣服越しに伝わってくる。


「真奈」


 低く、掠れた声で名前を呼ばれたが、真奈の虚ろな瞳は焦点が合っていなかった。

 蓮は歯を食いしばり、ずぶ濡れになった彼女の身体を横抱きに抱え上げた。彼女の体重はあまりにも軽く、まるで魂の抜け殻のようになっていた。


「ごめん。私、大丈夫だから」


 高熱に浮かされ、うわ言のように謝罪と虚飾の言葉だけを繰り返す真奈を、蓮は壊れ物を扱うように、けれど絶対に逃がさないという強い力で抱きしめ返した。

 冷たい雨の匂いが充満する工房の中へ駆け込み、重い木の扉を足で強く蹴るようにして閉ざす。

 外の凶暴な雨音が遮断された室内には、これまでになかった張り詰めた空気が満ちていた。


 蓮は、真奈をいつものストーブの前を通過した。

 彼女の今の状態は、ただ少し休ませれば済むような次元をとうに超えている。蓮は彼女を抱え上げたまま、工房の奥にある、真奈が一度も入ったことのない彼のプライベートな空間、私室へと真っ直ぐに足を踏み入れた。


 そこは、アンティークの家具が並ぶ表の工房とは違い、生活の匂いがする清潔で無駄のない空間だった。

 蓮は、部屋の隅に置かれた広く清潔なベッドの上に、真奈の身体をひどくゆっくりと、衝撃を与えないように横たえた。

 白いシーツの柔らかい感触が、背中を包み込む。真奈の霞む視界の中で、彼がすぐさま自らの濡れたコートを脱ぎ捨て、真奈の身体から水を吸って重くなったトレンチコートのボタンを、震える指先で一つひとつ外していくのが見えた。


「蓮、コート、濡れてるから、シーツが」


 迷惑をかけてしまう。彼の清潔なベッドを、自分の汚れた服で台無しにしてしまう。

 熱でひび割れた唇を動かして抗議しようとする真奈を、蓮は極めて低い、けれど有無を言わせない声で制した。


「喋らなくていい。息を整えることだけを考えるんだ」


 それは、怒りではなかった。真奈の命の灯が今にも消えてしまいそうなことに対する、計り知れない恐怖と祈りが入り混じった、哀しい響きだった。

 蓮は真奈のトレンチコートを脱がせると、部屋の奥から厚手で清潔なタオルケットと毛布を何枚も持ち出し、悪寒によって小刻みに震え続ける真奈の身体を幾重にも包み込んだ。

 その手つきは、アンティークの極小の歯車を扱う時よりもずっと慎重で、そして痛ましいほどに優しかった。


 真奈は、熱でひどく重い瞼の隙間から、ベッドの傍らに膝をつき、自分の顔を覗き込んでいる彼の姿をぼんやりと見つめた。

 いつもは一切の感情を削ぎ落としたように平坦な彼の顔が、今は信じられないほどに苦痛に歪んでいる。彼の透明な瞳が、激しい感情の波に揺れ、傷ついた獣のように真奈を見つめていた。


 なぜ、彼はこんなにも悲しそうな顔をするのだろう。

 私はただ、彼に会いたかっただけなのに。


 少しの間、蓮は部屋から姿を消した。

 戻ってきた彼の手には、氷水で冷やされたタオルと、水の入ったグラス、そして解熱剤が握られていた。

 彼は真奈の枕元に座ると、折りたたんだ冷たいタオルを、熱を持った真奈の額へそっと乗せた。火照りきった脳髄に、その鋭い冷たさが心地よく染み渡る。


「薬を飲めるか。少しだけ、頭を上げるぞ」


 蓮の大きな手が、真奈の首の後ろへと優しく差し込まれ、ゆっくりと彼女の上体を起こした。

 彼の胸板の確かな熱と、深く焙煎されたコーヒーの匂いが、至近距離から真奈を包み込む。蓮は、真奈の口元へ水の入ったグラスをそっと運び、彼女がむせないように細心の注意を払いながら、解熱剤を飲み下すのを手伝った。

 冷たい水が、焼け焦げそうに熱かった喉の奥を潤していく。

 薬を飲み終えると、蓮は再び真奈をベッドへとゆっくり横たわらせ、首元までしっかりと毛布を引き上げた。


 その一連の動作の間、蓮は真奈を問い詰めるような言葉を、ただの一言も発しなかった。

 なぜこんな高熱が出るまで無理をしたのか。なぜ嘘をついてまで平気なふりをしたのか。どうして傘も差さずに雨の中を歩いていたのか。

 聞きたいことは山ほどあるはずなのに、彼は一切の追及を封印し、ただひたすらに、真奈の身体から熱が引き、彼女が再び無事に呼吸を整えられることだけを優先していた。


 真奈の胸の奥で、激しい防衛本能と罪悪感が警鐘を鳴らした。

 見られたくない。こんな無様で、醜くて、情けない自分の姿を、彼にだけは絶対に見られたくなかった。有能な自分でいられなくなった自分は、この純粋な世界にいる資格などないのだと、熱に浮かされた頭が強迫観念のように告げていた。


「ごめんなさい、蓮」


 真奈は、毛布の下から熱を持った手をわずかに這わせ、掠れた声で謝罪の言葉を零した。


「私、ただ、少しだけ疲れてたみたいで。寝ればすぐに良くなるから。だから、そんな怖い顔、しないで」


 それは、彼を自分の汚濁から遠ざけるための、悲しすぎる強がりだった。

 自分が限界であることを認めてしまえば、彼に寄りかかってしまう。過去に愛した人間を壊してしまったという凄惨な傷を抱える彼に、自分の重圧を背負わせてしまう。

 それだけは、何があっても避けたかったのだ。


 蓮は、真奈のうわ言のような虚勢を聞きながら、ベッドの傍らでただ深く、重たい息を吐き出した。

 彼には、真奈のその歪んだ心理が痛切なまでに分かっていた。

 彼女は今、何かに押し潰されそうになりながら、たった一人で暗闇の中で血を流している。それなのに、自分の前でまで重い装甲を着たまま、一人で壊れようとしている。

 かつて、心を病んでいく人間を救えなかった己の無力感とトラウマが、蓮の胸の奥で鋭利な刃となって暴れ回っている。今すぐ彼女を問い詰め、その抱えている闇をすべて吐き出させたいという衝動が、蓮の喉元まで込み上げていた。


 しかし蓮は、その衝動を血が滲むほどの力で奥歯を噛み締めてねじ伏せた。

 今、熱で意識が混濁している彼女を問い詰めることは、ただの己の不安を解消するための暴力に他ならない。彼女が自ら話す気力すら奪われている状態の時に、強引に心の中に踏み入ることは、相手を大切にすることとは真逆の行為だ。

 かつての自分は、無言の圧力で相手を追い詰めた。だからこそ、今はただ、彼女が安心できる安全基地として、傍に寄り添い続けることしか正解はないのだと、蓮は自らを厳しく律していた。


 蓮は、真奈がシーツの上に投げ出していた熱い右手を、自らの両手でそっと、壊れ物を包み込むようにして握りしめた。

 その手は、冷たい雨に打たれてひどく冷え切っているはずの彼の手よりも、ずっと熱く、そして小刻みに痙攣していた。


「今は、何も話さなくていい」


 蓮の声は、極限まで抑え込まれた感情のせいで、かすかに震えを帯びていた。


「ただ、眠れ。俺はずっとここにいる。君が目を覚ますまで、絶対にどこにも行かないから」


 その言葉は、世界のどんな魔法の呪文よりも確かな力を持って、真奈の脳髄に深く染み渡っていった。

 彼は、私が嘘をついていることも、本当は限界であることもすべて分かっている。その上で、私の情けない姿を責めることもなく、ただ丸ごと受け入れて、ここにいてくれるのだ。

 彼の大きな手から伝わってくる、無骨で、けれど途方もなく優しい体温。

 真奈の張り詰めていた意識の糸が、その温度に触れた瞬間、ついに完全に解け落ちた。


 解熱剤が効き始め、真奈の身体は抗いがたい深い眠りの底へと沈んでいく。

 意識が遠のく直前、真奈の視界の端に映ったのは、ベッドの傍らに膝をつき、握りしめた真奈の手に自らの額を押し当てて、祈るようにじっと目を閉じている彼の姿だった。


 雨音だけが、依然として外の世界を冷たく満たしている。

 しかし、この小さな寝室の中だけは、互いを守りたいと願い、不器用にすれ違いながらも決して手を離そうとはしない、二人の強靭な愛情の熱で満たされていた。



 どれほどの時間、意識の混濁という暗い水底を漂っていただろうか。

 真奈が鉛のように重い瞼を緩やかに押し上げた時、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の殺風景な白い天井ではなく、太く立派な梁が剥き出しになった、古い木造建築特有の温かみのある天井だった。

 無音だった。

 昨夜、高層ビルの窓ガラスを執拗に打ち据えていたあの狂暴な氷雨の音は、すでにどこか遠い世界へと過ぎ去ったらしい。今はただ、軒先から重い雨だれが等間隔に落ちる、密やかな水音だけが空間を満たしていた。


 深い呼吸を一つ、肺の奥まで吸い込む。

 あんなにも関節を砕くように痛んだ身体の熱が、余すところなく引き払われているのが分かった。視界を覆っていた白濁した靄も晴れ、極度の悪寒も、喉を焼くような痛みも嘘のように消え失せている。

 ただ、身体の芯には、高熱と長時間の緊張状態を強いられたことによる、重い疲労の残滓だけがべったりと張り付いていた。


 真奈は、幾重にも掛けられた分厚い毛布の下で、自らの額にそっと指先を触れた。

 そこには、体温を吸収して生温かくなったタオルが乗せられていた。微かに首を動かした瞬間、ベッドのすぐ傍らに、一つの大きな影がうずくまっているのが視界の端に捉えられた。


 蓮だった。

 彼は、ベッドの脇に置かれた木製の椅子の横で、直接床に膝をつき、シーツの上に投げ出されていた真奈の左手を自らの両手で包み込むように握りしめたまま、うつむいていた。

 彼の大きな身体は、無理な姿勢で小さく折り畳まれている。長く美しい睫毛が、透き通るような青白い頬に濃い影を落としていた。

 真奈は、息を呑んで彼の傍らの小さなサイドテーブルへ視線を移した。そこには、水を張った洗面器と、何度か絞られた跡のある数枚の白いタオル、そして解熱剤の空き箱が置かれている。


 彼は、一晩中、真奈の熱が下がるのを、冷たいタオルを何度も交換し、手を握りしめながら、一睡もせずにこの場所で見守り続けてくれていたのだ。

 握られた左手から伝わってくる、彼の無骨で確かな体温。

 アンティークの修復で酷使され、硬く変色したその指先の感触が、真奈の胸の奥底を鋭利な刃物で抉り取るような痛みを伴って締め付けた。


 申し訳なさで、息が詰まる。

 彼は他者の領域に踏み込まず、自らの無音の聖域で平穏に生きることを何よりも大切にしていたはずだ。それなのに、自分の醜い依存心と、一人で立ち続けることに耐えきれなくなった弱さのせいで、彼のその尊い空間を汚濁にまみれた土足で踏み荒らしてしまった。

 自分は、親の期待に応えられず、会社でも責任を負いきれずに逃げ出した、ただの空っぽな女だ。そんな自分のために、どうして彼がこれほどまでに身を削らなければならないのか。


 これ以上、彼の負担になってはいけない。

 嫌われる前に、自分からこの場所を去らなければ。


 真奈は、彼を起こさないように、握られている左手をシーツの上からそっと引き抜こうと力を込めた。

 しかし、彼女の指先がわずかに動いた瞬間だった。

 蓮の身体が弾かれたように跳ね、伏せられていた長い睫毛が瞬時に持ち上がった。彼は目を覚ました直後特有の曖昧さなど微塵も見せず、硝子のように透明な瞳で、真っ直ぐに真奈の顔を射抜いた。


 真奈の心臓が、肋骨の裏側で痛ましいほど大きく脈打つ。

 蓮は無言のまま、真奈の手を握っていた自らの右手を離し、その大きな掌を、真奈の額へとそっと押し当てた。

 彼の指先は、徹夜の看病のせいで冷え切っていた。そのひんやりとした感触が、熱の引いた真奈の皮膚に心地よく伝わってくる。蓮は数秒間、真奈の体温を自らの肌で正確に読み取ると、張り詰めていた肩の力を抜き、肺の底に溜まっていた重たい空気を長く吐き出した。


「熱は、下がったみたいだな」


 低く、掠れた声だった。

 その響きの奥には、徹夜の疲労と、ようやく最悪の事態を脱したことへの微かな安堵が滲んでいた。

 しかし、その安堵の色は一瞬で消え去り、蓮の瞳の奥に、昨夜からずっと押し殺し続けていた濃く深い悲哀と、胸の奥で燻る怒りのような感情が明確に浮かび上がってきた。


「どうして」


 蓮の口から絞り出された声は、ひび割れていた。平穏で、いつも凪いだ海のように穏やかだった彼の口から突いて出たとは思えない、血を吐くような響きだった。


「どうして、嘘をつく」


 真奈を責めているのではない。それは、何も気づけなかった己の無力さに対する、痛切な懺悔と哀願だった。蓮はベッドの傍らで膝をついたまま、低く言葉を紡いだ。


「仕事は順調だと言った。充実していると、君は笑った。その笑顔の裏で、一人でこんなになるまで抱え込んで、限界まですり減って。俺は、君にとってその程度の存在なのか」


 真奈は、重い瞼を微かに見開いた。

 視界が揺れる中、目の前にいる蓮の顔が、これまで見たこともないほど苦痛に歪んでいるのが見えた。彼のビー玉のように透き通った瞳が、激しい感情の波に揺れ、傷ついた獣のように真奈を見つめている。

 真奈の胸の奥で、激しい防衛本能が警鐘を鳴らした。


「嘘なんて、ついてないよ」


 真奈は乾ききった唇を微かに動かし、掠れた声で虚勢を張った。彼に包み込まれそうになった自分の手を、シーツの下へと引き隠した。


「ちょっと、疲れが溜まってただけ。もう大丈夫。だから、そんな顔、しないで」

「ごまかすな」


 蓮が、真奈の言葉を鋭く遮った。

 工房の時計の秒針の音が、一瞬だけ消し飛ぶほどの強い声だった。蓮は、シーツ越しに真奈の手首のあたりを、逃げ場を奪うような強い力で掴んだ。


「俺の目を真っ直ぐに見ろ。君のその身体は、ただの疲労じゃない。心が限界を超えているのに、なぜ俺に寄りかかってくれない。俺の前でまで、なぜそんな重い装甲を着たまま、一人で壊れようとする」


 蓮の言葉は、彼自身の過去の凄惨な記憶に対する、贖罪の念とまさに結びついていた。

 かつて、心を病んでいく元妻の確かな悲鳴に気づけず、見せかけの笑顔を信じて彼女を壊してしまったあの耐え難い無力感。一番愛する人が、自分の手の届かない暗闇の中で崩れ落ちようとしているのに、自分はただ外側から見守ることしかできないという恐怖が、彼を苛んだ。

 踏み込ませてほしい。君の抱える闇を、俺に背負わせてほしい。

 それは、他人の人生に関わることをとにかく恐れ、孤独な平穏を愛してきた男が、自らの魂の殻を打ち破って叫んだ、切実すぎる愛の形だった。


 蓮は、真奈の手首を掴んだまま、自らの過去の過ちを二度と繰り返すまいと、痛ましいほどの必死さで言葉を継いだ。


「そんな仕事、今すぐ辞めたほうがいい」


 その一言が、夜明け前の部屋の空気を鋭く切り裂いた。

 蓮の瞳には、愛する者を守りたいという強烈な庇護欲だけが満ちていた。


「氷雨の中で倒れるまで君を追い詰めるような場所に、もう戻る必要はない。君を壊してまで守る価値のある仕事なんて、この世のどこにもない。だから、もう全部投げ出していいんだ」


 それは、彼女の置かれた状況や背景を何も知らない彼だからこそ言える、純粋で、そしてあまりにも残酷な正論だった。

 真奈の呼吸が、刃物を突きつけられたように停止した。

 シーツの下で、彼女の指先が氷のように冷たく硬直していく。


 仕事を、辞める。

 その言葉の意味する途方もない絶望を、目の前にいる彼は何も知らないのだ。

 真奈にとって、あの空間デザインの仕事は、どれほど理不尽な汚濁にまみれていようとも、親が敷いた佐倉家という盤石なレールから逃れ、自立するための唯一の命綱だった。

 あの仕事を投げ出すということは、自分一人で生きていく力を手放し、再び実家のあの息の詰まる檻の中へ帰ることを意味する。そしてそれは、佐倉家の所有物として親の命じるままに生き、一生感情を殺して作り笑いを浮かべるだけの自動人形に成り下がるという、逃れようのない破滅への回帰に他ならなかった。


 親の血筋の恩恵を捨ててまで、なぜ自分が汚濁をすすってあの過酷な現場に立ち続けているのか。

 どれほどの屈辱に耐え、血を吐くような思いで今のポジションにしがみついているのか。

 その切実な背景を、過去の傷から逃げてこの琥珀色の箱庭に引きこもっている彼が、理解できるはずもなかったのだ。


 けれど、それを彼にどうやって説明すればいい。

 自分が国内有数の巨大企業の令嬢であること。現場で不当な圧力をかけてきているのが、他ならぬ親の関連企業であること。

 その事実を打ち明ければ、どうなるか。

 自らの妻の心を壊してしまったという過去の罪に苛まれる彼が、自分という巨大な厄介事を抱え込み、佐倉家という強大な権力の渦に巻き込まれることになる。そんなことになれば、彼の命よりも大切なこの無音の平穏な聖域が、無惨に踏みにじられ、跡形もなく破壊されてしまう。


 彼を守らなければ。

 自分がこれ以上彼に寄りかかれば、彼の大切なものをすべて奪うことになる。

 愛ゆえの防衛本能が、真奈の心に鋭い氷の刃を突き立てた。自らの心臓を素手で握り潰すような激痛とともに、真奈は自らの口から、取り返しのつかない最も残酷な言葉を放つ決意を固めた。


「蓮には、関係ないよ」


 真奈は残されたすべての力を振り絞り、シーツ越しに掴まれていた蓮の大きな手を乱暴に振り払った。

 空気を弾くような乾いた音が、二人の間に落ちた。蓮の手が宙を彷徨い、その瞳が信じられないものを見るように見開かれた。


「簡単に言わないで。ここで外界から逃げて、古い時計のネジを巻いているだけの蓮には、私のいる外の世界のことなんて、どうせ分からないじゃない」


 言ってしまってから、真奈自身の魂が悲鳴を上げて引き裂かれた。

 違う、そんなことを言いたいのではない。あなたを傷つけたいわけじゃない。ただ、あなたを巻き込みたくないだけなのだと、心の奥底では血の涙を流して叫んでいた。しかし、彼を決定的に失望させ、突き放すためには、彼自身の生き方を否定するという、最も卑劣な言葉の刃を振り下ろすしかなかった。


「辞めればいいなんて、そんなの、何も知らない人間の無責任な言葉だよ。私がどれだけあの仕事にしがみついているか。どれだけ責任を押し付けられても、自分の足で立つために耐えなきゃいけない理由があるのに。蓮に言ったところで、何が変わるの。蓮が私の代わりにクライアントに頭を下げてくれるの。崩れそうな私の人生を、立て直してくれるの」


 真奈は、ベッドの上に無理やり身を起こし、分厚い毛布を胸の前に掻き抱きながら、荒い息を吐いて蓮を睨みつけた。微熱で潤んだ瞳の奥には、彼を拒絶するための鋭い敵意の光が宿っていた。


「できないでしょ。だったら、同情なんてしないでよ。私を可哀想な女みたいに扱って、自分の過去の罪滅ぼしをしようとしないで。私は一人でやれる。自分の人生の責任は自分で取るから。だから、私の領域に、これ以上無遠慮に踏み込まないでよ」


 それは、自らの孤独を決定づけ、彼を自分の闇から遠ざけるための、悲しすぎる虚勢だった。

 自分が最低の女になればいい。彼に嫌われ、愛想を尽かされれば、彼はこの美しい世界で、これからも傷つかずに生きていける。自分の重圧で彼を押し潰してしまうくらいなら、ここですっかり断ち切ってしまった方がいいとさえ考えた。


 無音が、私室の中を重く、冷たく満たしていった。

 外で降り止んだ雨の雫が、軒先から等間隔に落ちる水音だけが、異様なほど鮮明に響いている。

 蓮は、振り払われた自らの手をゆっくりと下ろし、ベッドの上で肩で息をする真奈を見つめた。

 彼女の口から放たれた拒絶の言葉の数々が、蓮の胸の奥に深く突き刺さり、かつて負った古い傷口を無惨に引き裂いていた。


 ここで時計を直しているだけの蓮には、どうせ分からない。

 自分の過去の罪滅ぼしをしようとしないで。私の領域に踏み込まないで。


 その言葉は、蓮が心の底でずっと恐れていた真実そのものだった。

 自分は、壊れたモノを直すことはできても、壊れゆく人間を救うことはできない。彼女が命を削って戦っている過酷な現実社会に対して、自分はあまりにも無力で、何の解決策も提示してやることができないのだ。

 彼女の抱える背景も知らず、共に戦う力を持たない自分が、ただ心配だから仕事を辞めろと言うのは、自らの不安を解消するための自己満足の押し付けに過ぎないのではないか。現実の重圧から彼女を無理やり引き剥がし、この温かい箱庭に囲い込もうとすることは、かつて元妻の痛みを理解できずに破滅させてしまったあの過ちと、何ら変わらない。


 真奈は、蓮の瞳から、それまで宿っていた熱情が、潮が引くようにゆっくりと消え失せていくのを肌で感じ取った。

 激しい怒りでも、悲しみでもない。それは、自らの存在意義そのものを一切否定し、すべてを諦めた人間だけが持つ、絶対零度の平坦さだった。

 真奈は、彼の眼差しの温度が急激に下がっていくのを見て、咄嗟に言い知れぬ恐怖を覚えた。突き放そうとしたのは自分なのに、彼が本当に遠くへ行ってしまうことが、耐え難いほど恐ろしかった。


「君の、言う通りだ」


 蓮の口から紡がれた声は、とても平坦で、一切の感情が削ぎ落とされていた。

 彼はゆっくりと立ち上がり、ベッドから一歩だけ距離を置いた。たったそれだけの距離が、二人の間を隔てる底なしの断崖絶壁のように感じられた。


「俺には、君の直面している現実を救う力はない。不条理な社会から君を庇う盾にも、君の代わりに戦う剣にもなれない。ただ、止まった時計の針を直すことしかできない俺と一緒にいても、君の足枷になるだけだ」


 蓮の言葉は、自らに対する絶望と諦観に満ちていた。

 彼もまた、真奈を深く愛していた。だからこそ、彼女の領域に無自覚に踏み込み、彼女の人生を壊す存在になることだけは絶対に避けたかったのだ。彼女の背負う現実を共に戦えない自分は、彼女の傍にいる資格がない。

 互いが相手を深く思いやり、相手を守りたいと願うその純粋な愛情が、この絶望的なすれ違いを生み出し、最悪の形で裏目に出てしまった瞬間であった。


「蓮」


 真奈は、震える唇で彼の名前を呼んだ。

 本当は今すぐ彼にすがりつき、ごめんなさいと泣きながらその胸に顔を埋めたかった。しかし、自分の口から放ってしまった残酷な言葉の数々が、鋭い茨となって彼女自身の身体を縛り付け、動くことを許さなかった。


 真奈は、自らの心臓を素手で握り潰すような覚悟で、ベッドから立ち上がった。

 蓮が掛けてくれた分厚い毛布が、足元に重い音を立てて滑り落ちる。熱が引いたばかりの身体で足元が定まらず、視界がわずかに歪んだが、真奈は奥歯を噛み締めて必死に踏みとどまった。

 傍らのハンガーに掛けられていた、昨夜の雨で濡れ、今は生乾きになっているトレンチコートを羽織り直す。蓮は、立ち上がった真奈を止めることも、手を差し伸べることもなかった。ただ、深い絶望の色を宿した瞳で、彼女の姿を見つめているだけだった。


「ごめん、私、帰るね」


 真奈は、それだけを短く告げた。声は限界までかすれ、今にも泣き出しそうな震えを帯びていた。

 彼を振り返ることはできなかった。視線を合わせれば、決意が揺らぎ、無様な姿で彼にすがりついてしまうと分かっていたからだ。

 真奈は足を引きずるようにして、私室を出て、表の工房を抜け、重い木の扉へと向かった。

 真鍮の冷たいドアノブを回す。金属音が工房に響き、扉が開くと同時に、雨上がりの冷たい朝の空気が室内に吹き込んできた。


 真奈は、一度だけ立ち止まった。

 背中越しに、彼が引き留めてくれることを、ほんの一瞬だけ期待してしまっている。

 しかし、背後からは何も聞こえない。壁に掛けられた時計の秒針の音が、冷酷なまでに規則正しく空間を満たしているだけだった。

 真奈は目を閉じ、自らの未練を断ち切るように、雨上がりの薄暗い路地裏へと足を踏み出した。


 重い木の扉が閉まる直前。

 真奈は、無意識のうちにほんのわずかだけ、背後へと視線を巡らせていた。

 閉まりゆく扉の細い隙間から、彼がベッドの傍らで、真奈が残していった毛布を両手で拾い上げ、それに顔を深くうずめるようにして崩れ落ちる姿が、幻のように一瞬だけ視界に映った。


 真奈の胸が、鋭い刃物で抉られたように激しく痛んだ。

 私が、彼を傷つけた。彼を、泣かせたのだ。

 しかし、真奈は戻ることはできなかった。重い木の扉が閉まる鈍い音が、二人の世界を永遠に分断する宣告のように路地裏に響き渡った。


 外の世界は、夜明け前の青白い光に包まれていた。

 雨はすでに上がっていたが、冷たい風が真奈の身体を吹き抜けていく。

 突き放したのは、自分だ。

 一番大切な人を、自らの身勝手な意地で傷つけて、永遠に失ってしまった。

 彼を愛していた。彼の穏やかな瞳も、優しさも、すべてが唯一の救いだった。なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。


 真奈の喉の奥から、声にならない乾いた嗚咽が漏れた。

 誰もいない早朝の路地裏で、真奈は立ち止まり、両手で自らの顔を覆って声を上げて泣いた。

 身をよじるほどの激しい後悔と、取り返しのつかない喪失感が、彼女の魂を八つ裂きにしていた。彼女が取り繕ってきた虚飾の顔は完全に崩れ落ち、後にはただ、愛する人を自ら手放して泣きじゃくる、無力で孤独な一人の女だけが残されていた。


 アンティーク時計が、持ち主の深い絶望などお構いなしに、無機質な音を立てて時を刻み続けていた。

 世界で一番お互いを想い合っている二人が、互いを守るために背を向け合い、結果として互いの魂を最も深く傷つけ合うことになってしまった。

 雨上がりの冷たい朝の風だけが、致命傷を負い、孤独の底に突き落とされた二人の魂を、平等に、そして残酷に冷やし続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。