第4話 もう遅い、俺は幸せだ
王都にある冒険者ギルド直営の治療院。
消毒用のアルコールと、膿んだ血の臭いが混ざり合った独特の空気が漂う個室に、男の悲痛な叫び声が響き渡った。
「嘘だろ!? 元に戻らないってどういうことだよ!」
ベッドの上で上半身を起こし、包帯でぐるぐる巻きにされた右腕を抱えて叫んだのは、勇者レオンだった。
その顔色は土気色で、かつての精悍な面影はない。頬はこけ、目は落ち窪み、脂汗が絶えず額を伝っている。
彼の視線の先には、困り果てた様子の老医師が立っていた。
「ですから、レオン様。これはただの骨折や欠損ではありません。『呪詛壊死』と呼ばれる、高位の魔力汚染による破壊です。聖女様の治癒魔法で表面上の傷は塞がりましたが、骨の髄まで染み込んだ『代償』を取り除かない限り、腕の機能は戻りません」
「だ、代償だと……? 俺は勇者だぞ! 聖剣に選ばれた男だぞ! なんで俺がそんな目に遭わなきゃならないんだ!」
「選ばれた、とおっしゃいますが……その聖剣が、あなたの生命力を糧にしているのは明白です。これ以上使い続ければ、腕どころか命に関わりますぞ」
医師は冷酷な事実を告げ、ため息をついて部屋を出て行った。
残されたのは、絶望の淵に立たされた『暁の獅子』のメンバーたちだ。
「……ねぇ、どうするのよレオン」
部屋の隅で爪を噛んでいた魔導師のエリラが、苛立った声で言った。
「あたし、Sランクパーティに入れるって聞いたから来たのよ? こんな、リーダーが片腕で剣も振れないパーティなんて、泥船じゃない」
「なっ、なんだとエリラ! お前、俺を見捨てる気か!」
「事実でしょ。魔力切れで魔法も撃てない、剣も振れない。今のあんた、ただの金食い虫よ」
エリラの冷徹な言葉に、レオンは言葉を詰まらせた。
戦士のガルツも、気まずそうに視線を逸らしている。
聖女のニーナだけが、青ざめた顔でポツリと呟いた。
「……やっぱり、アレンさんが必要なんです」
「あぁ?」
「思い出してください。アレンさんがいた時は、こんなこと一度もありませんでした。彼が毎晩、レオン様の剣を手入れした翌日は、レオン様はいつも『体が軽い』って……」
ニーナの言葉に、レオンはハッとした。
そうだ。
アレンだ。あいつがいれば、この痛みも、腕の呪いも、全て消せるはずだ。
あいつは「研ぎ師」だ。今までずっと、俺の代わりにこの地獄のような苦しみを引き受けていたのだから、あいつにとっては慣れた作業なのだろう。
「……そうだ。アレンを呼び戻せ」
レオンの目に、狂気じみた希望の光が宿った。
「あいつは俺の幼馴染だ。ちょっと喧嘩して追い出したくらいで、本気で俺を見捨てるはずがない。頭を下げて、報酬を倍にしてやれば、泣いて喜んで戻ってくるはずだ」
「でも、どこにいるか分からないわよ?」
「探せ! 王都中をひっくり返してでも見つけ出せ! 俺の腕を治せるのはあいつだけなんだ!」
レオンは包帯を巻いた手でシーツを握りしめた。
痛みと恐怖で思考が麻痺している彼は、まだ気づいていなかった。
自分たちがどれほど残酷なことをしたのか。そして、一度手放した信頼は、二度と戻らないということを。
†
一方その頃。
王都でも一、二を争う最高級ホテル『天上の揺り籠』のスイートルーム。
窓からは王都の美しい夜景が一望でき、テーブルの上には見たこともないような豪華な料理が並んでいた。
「アレン様、お口に合いますか?」
向かいの席に座った絶世の美女――セシリアが、とろけるような笑顔で尋ねてくる。
彼女は戦闘時の鎧姿から一転、今はシルクのドレスを身に纏っている。その美しさは、店内の照明よりも眩しく、周囲の客や給仕たちが思わず見とれてしまうほどだ。
「ああ、すごく美味いよ。こんな高級料理、食べたことないから緊張するけど」
「ふふ、慣れてくださいませ。これからは、これがアレン様の日常になるのですから」
セシリアは優雅にワイングラスを傾けた。
彼女の武具に宿っていた呪いを解いた後、俺たちは王都のギルドへ向かった。そこでセシリアが身分を明かし、彼女が持っていた古代の宝石を換金したところ、目が飛び出るような金額になったのだ。
俺は遠慮したが、セシリアは「私の全ては貴方のもの」と言って譲らず、結果としてこの豪遊に至っている。
「それにしても、不思議な気分だ」
俺は自分の手のひらを見つめた。
五年間、常に感じていた倦怠感も、指先の痛みもない。
体の中を巡る魔力は、かつてないほどスムーズで、力強い。
「昨日の今頃は、狭い宿屋の隅っこで、血を吐きながら剣を研いでたなんて信じられないよ」
「……あのような愚か者たちのために、貴方の尊い御力を浪費していたなど、思い出すだけで腹が立ちます」
セシリアの目が、一瞬だけ冷ややかな光を帯びた。
彼女にとって、俺を酷使していたレオンたちは、魔族以上の敵認定らしい。
「でも、感謝もしています。彼らが貴方を手放してくれたおかげで、私は貴方という光に出会えたのですから」
「光だなんて、大げさだよ」
「いいえ、事実です。この槍も、鎧も、そして私の心も。全て貴方に磨き上げられて、初めて本当の輝きを得たのです」
セシリアは立ち上がり、俺のそばに来ると、跪いて俺の手を取った。
「アレン様。どうか私に命令してください。誰を倒せばいいですか? どの国を落とせばいいですか? 貴方が望むなら、私は世界を敵に回しても構いません」
「いや、だから国は落とさなくていいって……」
苦笑しながらも、俺の胸は温かいもので満たされていた。
必要とされること。認められること。
それがこれほど心地よいものだとは知らなかった。レオンたちのパーティにいた頃は、どんなに尽くしても「当たり前」とされ、最後にはゴミのように捨てられた。
だが今は違う。
俺はもう、誰かの影ではない。
「アレン様、明日はどうされますか?」
「そうだな。せっかく自由になったんだ。まずは装備を整えて、それから……」
俺たちが未来の話をしようとした、その時だった。
ドタドタドタッ!
静かなレストランの雰囲気をぶち壊すような、慌ただしい足音が廊下から聞こえてきた。
「お客様! 困ります! ここは正装でないと……!」
「うるせぇ! 俺は勇者レオンだぞ! ここにアレンがいるのは分かってるんだ!」
聞き覚えのある、しかし以前よりずっと汚く濁った声。
俺は小さくため息をついた。
せっかくの料理が不味くなる。
「……来たか」
「虫が湧いたようですね。排除しますか?」
セシリアが瞬時に表情を消し、殺気を漂わせる。
俺は彼女を片手で制した。
「いや、いいよ。ここで騒ぎになったら店に迷惑がかかる。俺が話をつける」
「しかし……」
「大丈夫。もう俺は、昔の俺じゃないから」
俺はナプキンで口を拭い、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
ちょうどそのタイミングで、扉が乱暴に開け放たれた。
「アレン! ここにいたか!」
入ってきたのは、見るも無残な姿のレオンたちだった。
包帯だらけの体。泥と血に汚れた装備。焦げた髪。
かつて民衆が憧れたSランクパーティの輝きは微塵もなく、まるで路地裏のゴロツキのようだ。
その後ろには、気まずそうな顔をしたガルツ、エリラ、ニーナが続いている。
「……何の用だ、レオン。ここは食事をする場所だぞ。そんな汚い格好で入ってくるな」
俺は努めて冷静に、冷たく言い放った。
レオンは一瞬ひるんだが、すぐにいつもの傲慢な表情を取り戻した。いや、それは傲慢というより、余裕のなさを虚勢で隠しているだけの顔だった。
「はっ、随分と良い身分じゃねぇか。俺たちがダンジョンで命がけで戦ってる間に、こんな高い飯を食ってるとはな」
「追い出したのはお前だろ。俺が何を食おうが勝手だ」
「……まあいい。アレン、喜べ。お前をパーティに戻してやる」
レオンは恩着せがましく言った。
「今回の件は、まあ、俺も少し言いすぎた。お前の地味な仕事も、多少は役に立ってたみたいだからな。だから特別に許してやる。ほら、早く戻ってこい。そして今すぐこの腕を治せ」
彼は包帯で巻かれた右腕を突き出した。
そこから漂うのは、腐臭と呪いの気配。
俺には見える。包帯の下で、肉がドロドロに溶け、聖剣が食い込んでいる惨状が。
あまりにも愚かで、あまりにも哀れだった。
「断る」
俺は短く答えた。
「は……?」
「断ると言ったんだ。俺はもうお前らのパーティじゃない。赤の他人だ。お前の腕が腐り落ちようが、俺には関係ない」
「なっ、何言ってるんだよ! 友達だろ!? 俺がこんなに痛い思いをしてるんだぞ!?」
「友達? 友達を無一文で放り出す奴が何を言う」
俺は一歩踏み出した。
以前なら、レオンに睨まれただけで縮み上がっていた。だが今は、彼の威圧などそよ風にも感じない。むしろ、俺から溢れ出る魔力に圧され、レオンの方が後ずさりしている。
「レオン。お前は何も分かってない。その聖剣が何なのか。俺が五年間、何を犠牲にしてきたのか」
「だ、だから! それを説明すればよかっただろ!」
「したさ! 何度もな! だがお前は聞かなかった! 『雑魚の言い訳』だと笑い飛ばしたのはお前だ!」
俺の声が、レストランに響き渡る。
レオンの顔が引きつる。
「俺は毎日、自分の寿命を削って、お前の身代わりになっていた。血を吐き、骨が軋む痛みに耐えながら、お前が英雄でいられるように支えてきた。それを『銅貨数枚の価値』と言われた時、俺の中で何かが死んだんだよ」
俺はレオンの目を真っ直ぐに見据えた。
「もう、俺はお前の道具じゃない。俺は俺の人生を生きる。二度と関わるな」
「ふ、ふざけるな……!」
レオンの顔が怒りで赤黒く染まる。
彼は左手で腰の剣(予備の安物だ)に手をかけた。
「俺は勇者だぞ! 国の英雄だ! お前ごときが俺に逆らうなんて許されると……!」
「アレン様に剣を向けるか、下郎」
凛とした、氷点下の声が響いた。
次の瞬間、レオンの動きが凍りついた。
いや、レオンだけではない。その場にいた全員が、呼吸すら忘れて硬直した。
圧倒的な殺気。
そして、神々しいまでの魔力の波動。
セシリアが、俺の前に立っていた。
彼女の手には、虚空から召喚された『魔槍グラッジ』――今は浄化され『聖槍ヴァルキリア』となった槍が握られている。
その穂先が、レオンの喉元数ミリの場所でピタリと止まっていた。
「ひっ……!」
レオンが短い悲鳴を上げて腰を抜かした。
セシリアの全身から立ち昇る白銀のオーラは、Sランクのレオンですら見たことがないほどの高密度なものだった。
「その方は、貴様のようなゴミが口をきいていい御方ではない。次に暴言を吐けば、その舌を切り落とす」
「お、お前は……まさか、亡国の『銀翼の姫騎士』セシリア!?」
後ろにいたガルツが叫んだ。
その名を聞いて、エリラとニーナも息を呑む。
伝説の騎士。一騎当千の実力者。それがなぜ、こんなところに。しかも、アレンを庇うように立っているのか。
「アレン様は、私の呪いを解き、命を救ってくださった、我が主だ。この方の価値は、貴様ら全員の命を束ねても釣り合わない」
セシリアは冷蔑の視線で勇者パーティを見下ろした。
「勇者? 笑わせるな。自らの武器の反動すら制御できず、仲間を捨て、挙げ句の果てに泣きついてくる。貴様はただの、力に溺れた子供だ」
「ぐ、うぅ……」
「消えろ。アレン様の視界に入るだけで汚らわしい」
セシリアが槍を一閃させた。
直接攻撃はしていない。だが、発生した衝撃波だけで、レオンたちは廊下まで吹き飛ばされた。
「うわぁぁぁぁっ!」
無様に転がる勇者たち。
ホテルの警備兵たちが駆けつけてくるのが見えた。
もう、勝負はついた。
「……行こう、セシリア」
俺は彼女の肩に手を置いた。
これ以上、彼らを見る必要はない。
レオンは呆然とこちらを見上げていた。その目には、怒りではなく、深い後悔と絶望の色が浮かんでいた。
ようやく理解したのだろう。
自分が何を失ったのか。
アレンという存在が、どれほど大きかったのか。
そして、もう二度と、あの輝かしい日々は戻ってこないのだということを。
「待ってくれ……アレン……頼む……」
レオンが這いつくばりながら手を伸ばす。
だが、その声はもう俺には届かない。
俺は背を向け、セシリアと共に歩き出した。
窓の外には、満天の星空が広がっている。
かつては重くて辛かった夜が、今はこんなにも美しく、自由だ。
「どこへ行きますか、アレン様」
「そうだな……。世界は広い。まだ見たことのない場所へ行こう」
「はい。貴方が行くなら、地の果てまでお供します」
セシリアが俺の腕に身を寄せ、幸せそうに微笑む。
俺たちは光の中へと歩いていく。
背後で響く、かつての親友の慟哭を置き去りにして。
研ぎ師アレンの物語は、ここで終わりではない。
これは、彼が「最強の職人」として、そして「伝説の騎士の主」として、世界にその名を轟かせる、新たな伝説の始まりだった。




