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第3話 勇者の崩壊

じめじめとした湿気が肌にまとわりつく地下迷宮。

壁面に埋め込まれた発光苔がぼんやりと緑色の光を放ち、奥から吹き抜ける風が獣の臭いを運んでくる。

Sランクダンジョン『深淵の古城』。

ここは熟練の冒険者ですら足を踏み入れるのを躊躇う危険地帯だが、今日の俺たち『暁の獅子』にとっては、ただの散歩コースに過ぎなかった。


「あー、せいせいするぜ! ほんと、空気がうめぇな!」


俺、勇者レオンは、先頭を歩きながら大げさに両手を広げた。

背後から、クスクスという品のない笑い声が聞こえる。


「やっぱりレオン様もそう思いますぅ? あの根暗な研ぎ師がいなくなって、パーティ全体の空気が明るくなりましたよねぇ」


甘ったるい声で同意したのは、新しく加入した魔導師のエリラだ。

豊満な胸元を強調した扇情的なローブを揺らし、俺の腕に絡みついてくる。彼女の体温と甘い香水の匂いが、俺の男としての本能をくすぐる。


「違げぇねえ。アレンの奴、いつも『慎重に』だの『その宝箱は罠だ』だの、うるさくて敵わなかったからな。冒険ってのは、もっとこう、豪快に楽しむもんだろ?」

「その通りだぜ、大将! あいつがいると、いちいち行軍が止まってイライラしてたんだ」


巨斧を担いだ戦士のガルツも、ニタニタと笑いながら同意する。

最後尾を歩く聖女のニーナだけは少し不安げな表情を浮かべていたが、俺が視線を向けると慌てて作り笑いを浮かべた。


「そ、そうですね。アレンさんは少し……心配性すぎるところがありましたから」

「だろ? あいつは臆病なんだよ。自分の実力がないから、俺たちの足まで引っ張ろうとしてたんだ」


俺は腰に差した聖剣の柄を撫でた。

アレンがいなくなって初めてのダンジョン攻略。

正直、少し不安がなかったわけではない。あいつは荷物持ちとしては優秀だったし、雑用も完璧だった。

だが、それだけだ。

戦闘になれば隅で震えているだけの無能。俺たちが命がけで戦っている間、安全圏でただ見ているだけの寄生虫。

そんな奴に、俺たちが稼いだ報酬を等分に分ける義理などない。


「見てろよ、今日は俺の調子がいいんだ。この聖剣が、いつもより疼いてるのが分かる」


鞘の中で、聖剣が微かに振動している。

ブゥン、ブゥン、と低い唸りのような音が掌に伝わってくる。

これはきっと、アレンという「不純物」がいなくなったことで、聖剣が俺の魔力に100%呼応している証拠だ。

俺の才能に、剣が歓喜しているのだ。


「きゃあ! すごぉい、剣が鳴いてる! さすが選ばれし勇者様ね!」

「へへっ、惚れ直したか? 今日の俺は一味違うぜ」


俺は調子に乗って、さらに大股で歩き出した。

だが、その時。

ズキリ、と右手首に走った微かな違和感に、俺は眉をひそめた。


(ん……? なんだ、今の?)


ほんの一瞬、針で刺されたような痛みが走った。

だが、すぐに消えた。

俺は手首を振ってみる。特に異常はない。


「……昨日の酒が残ってるのか?」


昨晩はアレンを追い出した祝勝会と称して、深夜まで飲み明かしたからな。寝不足と二日酔いのせいだろう。

俺は自分にそう言い聞かせ、気にするのをやめた。

俺は勇者だ。肉体の強度は常人の比ではない。少々の体調不良など、気合でどうにでもなる。


「敵影確認! 前方にオークの群れ、数は五体!」


ガルツの声が響く。

通路の向こうから、豚の顔をした巨漢の魔物たちが、棍棒を振り上げて突進してくるのが見えた。

下級のオークだ。今の俺たちの敵ではない。


「雑魚が! 俺の聖剣の錆にしてやる!」


俺は抜刀した。

シャランッ! と美しい金属音が響き、黄金の刀身が薄暗いダンジョンを照らす。

眩い光。神聖なる輝き。これぞ伝説の聖剣エクスカリバーだ。


「はぁっ!」


俺は先頭のオークに向かって、袈裟懸けに剣を振るった。

いつもの感覚。いつもの軌道。

だが。


ガギンッ!!


「ぐっ……!?」


剣がオークの肉に食い込んだ瞬間、予想外の衝撃が腕に返ってきた。

まるで岩盤を殴りつけたような反動。

いつもなら豆腐のようにスッパリと切れるはずなのに、今日は妙に手応えが「硬い」。


(な、なんだ? 切れ味が落ちてるのか?)


一瞬の焦り。

だが、聖剣の威力は絶対だ。

俺は腕力に任せて無理やり剣を振り抜いた。


ズバンッ!


オークの巨体が両断され、血飛沫を上げて倒れる。

倒した。だが、残心を取る俺の右腕は、微かに痺れていた。

指先が冷たい。血の巡りが悪くなったような感覚。


「ナイス一撃! さすが大将!」

「レオン様、素敵ぃ!」


仲間たちの歓声が聞こえる。

俺は痺れを誤魔化すように剣を回し、わざとらしく笑って見せた。


「はんっ、手応えのない連中だ」


残りの四体も、ガルツとエリラの魔法であっという間に片付いた。

戦闘終了。

だが、俺は違和感を拭いきれずにいた。

剣を鞘に納める時、カチリという音がやけに耳障りに響いたのだ。


(おかしいな……。アレンがいないだけで、こんなに感覚が違うのか?)


いや、違う。

あいつはただ「研いで」いただけだ。剣のメンテナンスなんて、誰がやっても同じはずだ。

これは俺の体調の問題だ。あるいは、このダンジョンの空気が合わないだけだ。

そう自分に言い聞かせる。

認めるわけにはいかないのだ。あいつがいなくなった途端にパフォーマンスが落ちたなんて、口が裂けても言えない。


「さあ、先へ進むぞ! 今日は最深部のボスまで一気に行く!」


俺は虚勢を張り、痛む手首をさすりながら歩き出した。

その背後で、聖剣が「ギチチ……」と、何かが軋むような音を立てていたことに、俺は気づかなかった。



階層が進むにつれ、違和感は明確な「苦痛」へと変わっていった。

一戦ごとの疲労が異常に重い。

剣を振るうたびに、手首から肘、そして肩へと、鉛を流し込まれたような重さが蓄積していく。


「はぁ……はぁ……くそっ……」


十戦目を終えた頃には、俺は肩で息をしていた。

額から脂汗が流れる。心臓が早鐘を打っている。


「レオン様? 大丈夫ですか? 顔色が少し悪いですけど……」


ニーナが心配そうに声をかけてくる。彼女の手には回復魔法の光が灯っている。


「……うるさい。なんでもない」

「でも、ヒールをかけましょうか? どこか怪我を?」

「怪我なんかしてねぇよ! ただちょっと、準備運動が足りなかっただけだ!」


俺はつい声を荒らげてしまった。

ニーナがビクリと肩を震わせて下がる。

いら立ちが募る。

なんでだ。なんでこんなに体が重いんだ。

まるで、今まで意識したこともなかった「重力」が、数倍になってのしかかっているようだ。


「……おい、アレン。水筒よこせ」


無意識に、俺は後ろに手を伸ばした。

いつもなら、戦闘が終わるたびにアレンが絶妙なタイミングで水とタオルを渡してくれた。

だが、そこには誰もいない。

空っぽの空間を掴んだ手が、虚しく空を切る。


「……チッ」


舌打ちをして、自分で腰のポーチから水筒を取り出し、煽る。

ぬるい。

アレンが管理していた時は、氷魔法石で冷やされた冷たい水だったのに。


「……役に立たねぇな、あいつも、お前らも」


小さな声で毒づく。

仲間たちは気まずそうに顔を見合わせている。

雰囲気が悪い。最悪だ。

だが、ここで引き返すわけにはいかない。そんなことをすれば、「アレンがいなきゃダメだった」と認めることになる。

それだけは死んでも御免だ。


「次だ! 次の階層に、中ボスのオーガロードがいるはずだ。そいつを倒せば、今日は終わりにしてやる」


俺は無理やり体を動かし、階段を降りた。

右腕の感覚が、もう半分ほど麻痺している気がした。

だが、俺はSランク冒険者。勇者レオンだ。

この程度、根性で乗り切ってみせる。


地下十階層。広大なドーム状の空間。

そこには、全身赤銅色の筋肉に覆われた巨人が待ち構えていた。

身長三メートルを超える巨躯。手には丸太のような棍棒。

中ボス、オーガロード。

過去に何度も戦い、その度に俺の一撃で沈めてきた相手だ。


「グオオオオオオオオオッ!!」


オーガロードが俺たちを見つけ、咆哮を上げる。

その威圧感に、エリラとニーナが怯える。


「ひっ……なんか、いつもより大きくない?」

「気のせいだ! ガルツ、前衛を張れ! エリラは援護だ!」


俺は指示を飛ばし、聖剣を抜いた。

重い。

まるで鉄塊を持っているようだ。

聖剣の輝きも、どこか鈍い気がする。いや、赤黒く濁っているようにも見える。


「グガァッ!!」


オーガロードが突っ込んでくる。

ガルツが斧で受け止めるが、その衝撃で数メートルも吹き飛ばされた。


「ぐわっ! 重ぇ! 大将、早く頼む!」


ガルツの悲鳴。

俺は歯を食いしばり、スキルを発動させる体勢に入った。

俺の必殺技【聖剣閃セイクリッド・スラッシュ】。

魔力を刀身に集中させ、光の刃で敵を断ち切る最強の技だ。


「……見せてやるよ、俺の真の力を!」


体内の魔力を練り上げる。

右腕に魔力が集まる。

その瞬間。


ズキキキキキッ!!!!


「がっ……!?」


右腕の血管が、かつてない激痛と共に膨張した。

まるで血管の中に熱湯が流れているようだ。筋肉が悲鳴を上げ、骨がミシミシと軋む音が、自分の耳の奥で響く。


(痛い、痛い痛い痛い!! なんだこれ!?)


剣を放り出したくなるほどの激痛。

だが、もう遅い。

オーガロードの棍棒が、目前まで迫っている。

ここで退けば死ぬ。

振るしかない。


「う、うおおおおおおおおっ!!」


俺は絶叫と共に、全力で聖剣を振り抜いた。

痛みなど知るか。俺は勇者だ。この剣は最強だ。

アレンなんかがいなくても、俺は勝てるんだ!!


聖剣と棍棒が激突した。

その瞬間、世界がスローモーションになった。


本来なら、聖剣の光の刃が棍棒ごとオーガロードを切り裂くはずだった。

だが、起きた現象は違った。

衝突の衝撃が、剣先から逃げず、行き場を失って逆流したのだ。

刀身を伝い、柄を通り、俺の手のひらへと。


ドォォォォォォォンッ!!!!!


爆音が響いた。

オーガロードが吹き飛んだのではない。

俺の右腕の「内側」で、爆発が起きたのだ。


「――――――――っ!!??」


声が出なかった。

視界が真っ赤に染まる。

何が起きたのか理解するよりも先に、強烈な浮遊感と、全身を焼き尽くすような熱が襲ってきた。

俺の体は後方へと吹き飛ばされ、石壁に激突して止まった。


「が、はっ……ご、ぼ……」


口から大量の血が溢れ出す。

痛い。熱い。

右手が、ない。

いや、ある。あるが、それはもう腕の形をしていなかった。

肘から先が、ぐしゃぐしゃに砕け散り、肉と骨が混ざり合ったミンチのようになっていた。

白い骨が皮膚を突き破り、あちこちから血が噴水のように噴き出している。


そして、その惨状の中心に、あの聖剣が食い込んでいた。

柄が、俺の手の肉と同化するように癒着し、脈動している。

ドクン、ドクン、と。

俺の血を、生命力を、貪るように啜っている。


「ぎ……ぎゃあああああああああああああっ!!!」


遅れてやってきた激痛が、俺の理性を消し飛ばした。

喉が裂けんばかりの絶叫が、ダンジョンに木霊する。


「うでっ、俺の腕がぁぁぁぁっ!!」

「レ、レオン様!?」

「大将!?」


仲間たちが駆け寄ってくる。

だが、俺の腕を見た瞬間、全員が顔を引きつらせて足を止めた。

あまりにもグロテスク。あまりにも凄惨。

勇者の輝かしい姿はどこにもない。そこにあるのは、自らの武器に食い荒らされた敗北者の姿だけだ。


「い、痛い! 助けてくれ! ニーナ、ヒールだ! 早くヒールをかけろ!!」


俺は泣き叫びながら、左手でニーナに掴みかかろうとした。

ニーナは恐怖で顔を青ざめさせながらも、震える手で杖をかざした。


「ヒ、ヒール! ハイ・ヒール! エクストラ・ヒール!」


癒やしの光が俺の右腕を包む。

だが、傷は塞がらない。

それどころか、聖剣がその回復魔法すらも吸収し、さらに黒い輝きを増していく。

回復したそばから、また肉が崩壊していく。

再生と破壊の無限ループ。それは、ただ苦痛を長引かせるだけの拷問だった。


「ぎゃあああっ! やめろ! 痛い! 魔法をやめろぉぉっ!!」

「ひっ! ご、ごめんなさい!」


ニーナが杖を取り落として尻餅をつく。

俺は激痛にのたうち回り、地面を転げ回った。

なんでだ。なんでこんなことになった。

俺は勇者だぞ。選ばれた人間だぞ。

今までこんなことは一度もなかった。どんな激しい戦いでも、俺は無傷だった。聖剣を使えば、どんな敵も倒せた。

それが、なんで一振りしただけで、俺の体が壊れるんだ!?


その時、脳裏に一つの記憶がフラッシュバックした。

いつかの夜。アレンが、真っ青な顔で俺に言った言葉。


『レオン、この剣は危険だ。呪われてる。俺が毎日調整してるから大丈夫だけど、もし俺がいなくなったら……』


あいつは、言っていた。

俺はそれを、「才能のない雑魚の言い訳」だと鼻で笑った。

だが、もし。

もし、あいつの言っていたことが全て真実だったとしたら?

俺が今まで無敵でいられたのは、俺の才能ではなく、あいつが……アレンが、この激痛と反動を全て、一人で肩代わりしていたからだとしたら?


「あ……あぁ……」


絶望が、痛み以上の冷たさで心を浸食していく。

俺は、とんでもないことをしてしまったのではないか。

俺たちの命綱を、自らの手で切り捨ててしまったのではないか。


「グオオッ……」


前方から、オーガロードが立ち上がる音がした。

奴は軽傷だ。俺の自滅を見て、ニタリと醜悪な笑みを浮かべている。

棍棒を振り上げ、こちらへ歩いてくる。

死ぬ。

このままでは全滅する。


「ひぃっ! いやぁぁっ!」

「くそっ、逃げるぞ! 大将を担げ!」


ガルツが俺の襟首を掴み、引きずり起こす。

俺は抵抗する力もない。ただ、右腕にぶら下がったまま離れない聖剣の重みが、俺の魂まで引きずり落とそうとしているのを感じていた。

エリラがパニックになりながら炎魔法を乱射し、目くらましを作る。

俺たちは、Sランクパーティとは思えない無様な姿で、這うようにして逃げ出した。


廊下に点々と続く、俺の血の跡。

それは、俺の栄光が終わりを告げる道標のように見えた。


「アレン……」


薄れゆく意識の中で、俺は無意識にその名を呼んでいた。

罵倒するためではない。

助けを求めるために。

今すぐここに来て、この痛みを消してくれと、情けなく懇願するために。


だが、その声が彼に届くことはない。

俺は自分で彼を捨てたのだ。

二度と戻ってくるなと、そう言い放って。


「うぅ……うぅぅ……」


涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、俺は仲間に引きずられていった。

聖剣は未だ、ドクンドクンと、俺の命を啜り続けている。

その黒い脈動は、まるで俺の愚かさを嘲笑っているかのようだった。

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