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後日談 偽りの英雄、その末路

窓の外を叩く冷たい雨音が、安宿の薄い壁を通して響いてくる。

湿気を含んだ風が隙間風となって部屋に忍び込み、部屋の中に充満する異臭を撹拌していた。

それは、膿と消毒液、そして古びた畳のようなカビの臭いが混ざり合った、敗北の臭いだった。


「……うぅ、ぐっ……!」


粗末なベッドの上で、かつて勇者と呼ばれた男、レオンは脂汗を流して呻いた。

右腕があった場所には、今はどす黒く変色した肉塊がぶら下がっているだけだ。聖女ニーナの必死の治療も虚しく、聖剣の呪いによる壊死は止まることなく、じわじわと肩口へと侵食を進めていた。


「レオン様、お薬です……。これで少しは痛みが和らぐはずですから」


枕元に座るニーナの声には、かつてのような慈愛の響きはなかった。あるのは、終わりの見えない介護への疲労と、諦めが混じった乾いた響きだけだ。

差し出された泥水のような鎮痛薬を一気に煽る。苦い。吐き気がするほど不味い。

だが、これを飲まなければ、骨をヤスリで削られるような激痛で発狂してしまう。


「……他の連中は、どうした」


薬が効いてくるのを待ちながら、レオンは掠れた声で尋ねた。

視線の先、狭い部屋の隅にあるテーブルには、魔導師のエリラと戦士のガルツが座っていた。

だが、二人の間に会話はない。ただ重苦しい沈黙と、互いを責め合うような険悪な空気が流れているだけだ。


「どうしたもこうしたもねぇよ」


ガルツが安酒の瓶を乱暴にテーブルに叩きつけた。


「金がねぇんだよ、金が。この宿代も、明日の飯代も、お前の薬代も底をついた。Sランクパーティ『暁の獅子』の貯蓄は、ここ一週間の治療費と、装備の修理費でスッカラカンだ」

「装備の……修理だと……?」

「ああ、そうだ。お前が寝込んでる間に、俺たちだけで近場の依頼クエストをこなそうとしたんだよ。薬草採取と、ゴブリン退治とかな。日銭を稼がなきゃ野垂れ死ぬからな」


ガルツは自嘲気味に笑い、自分の愛用していた大斧を指差した。

その刃は無残に欠け、柄には亀裂が入っている。


「信じられるか? たかがゴブリンの頭蓋骨を叩き割っただけで、ミスリルの斧が欠けたんだぜ。今までドラゴンを相手にしても傷一つつかなかったのにだ」

「あたしの杖もよ」


エリラが不機嫌そうに口を挟んだ。彼女の赤髪は手入れがされておらず、パサついて艶を失っている。


「魔法の通りが悪すぎて、ファイアボール一つ撃つのに通常の三倍の魔力を食うの。三発も撃てば魔力切れ。これじゃFランクの新人以下よ。おかげでゴブリン数匹に囲まれて死にかけたわ」


二人はレオンを睨みつけた。

その視線が語っていた。「お前のせいだ」と。

そして、「アレンがいればこんなことにはならなかった」と。


「……街の鍛冶屋には見せたのか」

「見せたさ。王都で一番腕が良いって評判のドワーフの親父にな」


ガルツは鼻を鳴らした。


「そしたら何て言われたと思う? 『こんなもんゴミだ』だとさ。俺たちの装備は、元々の素材こそ一級品だが、魔力伝導率の設計が滅茶苦茶で、本来なら使い物にならない欠陥品だったらしい」

「け、欠陥品……? 馬鹿な、俺たちはそれで魔王軍の幹部とも戦って……」

「そうだよ。だから親父も驚いてたよ。『誰だか知らねぇが、神のごとき腕を持つ職人が無理やり調整して使えるようにしてたんだな。その職人がいなくなった瞬間、本来のガラクタに戻っただけだ』ってな」


ガルツの言葉が、重い楔となってレオンの胸に突き刺さる。

神ごとき腕を持つ職人。

心当たりは一人しかいない。

あいつだ。アレンだ。

いつもキャンプの隅で、黙々と俺たちの武器を磨いていた、あの地味な背中。

俺たちが酒を飲んで騒いでいる間も、女と遊んでいる間も、あいつはずっと調整を続けていたのだ。この「ガラクタ」を、最強の武具として維持するために。


「……くそっ」


レオンは歯を食いしばった。

後悔? いや、そんな生易しいものではない。

これは絶望だ。

自分たちが立っていた場所が、頑丈な岩盤の上ではなく、アレンという一人の人間が支える薄氷の上だったという事実。

そして、その支えを自らの手で砕いてしまったという、取り返しのつかない愚行。


「で、どうすんのよレオン」


エリラが冷ややかな声で問い詰める。


「あんたの腕は治らない。装備はボロボロ。金もない。Sランクの地位も、依頼失敗続きで剥奪寸前。このままじゃ、あたしたち全員、路頭に迷うわよ」

「う、うるさい! 俺は勇者だぞ! 国が俺を見捨てるはずがない!」

「国? ああ、そういえば昨日、騎士団から通達が来てたわね」


エリラは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、レオンの顔に投げつけた。


「『勇者レオンの長期療養に伴い、聖剣の返還を命じる。また、パーティへの支援金は今月をもって打ち切る』……だってさ」


紙片が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。

レオンは震える左手でそれを拾い上げ、何度も読み返した。

嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。

俺は選ばれた男だ。この国の希望だ。

聖剣を返せ? 支援金を打ち切る?

それはつまり、俺にはもう価値がないと、国が判断したということか。


「そ、そんな……俺は、俺はまだ……」

「潮時だな」


ガルツが立ち上がった。

彼は背負っていたリュックを掴み、中身を確認し始める。


「大将、悪いが俺は抜けさせてもらうぜ。このままここにいても共倒れだ。田舎に帰って、一から傭兵でもやり直すさ」

「お、おい待てよガルツ! お前、俺との誓いはどうしたんだよ! 世界を救うんだろ!?」

「世界? 自分の明日の飯も救えない奴が何を言ってんだ。……じゃあな。楽しかったぜ、Sランクの夢を見させてもらってよ」


ガルツは一度も振り返ることなく、部屋を出て行った。

ドアが閉まる音が、弔鐘のように響く。


「……あたしも行くわ」


続いて、エリラが立ち上がった。

彼女はテーブルの上の小銭を全て掴み取り、自分のポーチに入れた。


「ちょ、ちょっとエリラさん!? それはレオン様の薬代……!」

「知らないわよ! あたしの手切れ金代わりよ。ああもう、最悪。勇者の女になって玉の輿に乗るはずだったのに、こんな片腕の廃人の介護なんて御免だわ」

「エリラ、お前……愛してるって言ったじゃないか……」

「バッカじゃないの? あんたの地位と金と顔が好きだっただけよ。今のあんたに何の魅力があるの? 鏡見てみなさいよ、ゾンビみたいよ」


エリラは軽蔑しきった視線をレオンに浴びせ、香水の匂いだけを残して去っていった。

残されたのは、動けないレオンと、泣きそうな顔をしたニーナだけ。


部屋に、沈黙が戻った。

雨音だけが、ザアザアと降り続いている。


「……ニーナ」


レオンは縋るような目で聖女を見た。


「お前だけは……お前だけは、俺を見捨てないよな?」

「…………」


ニーナは答えなかった。

ただ俯き、膝の上で拳を握りしめている。

彼女は優しい。パーティの中で一番、良識があり、慈悲深い女だ。だからこそ、彼女だけは残ってくれると、レオンは信じていた。


だが。


「……ごめんなさい、レオン様」


ニーナの口から紡がれたのは、謝罪の言葉だった。


「私、もう限界なんです。レオン様の呪いを抑えるために、毎日限界まで魔力を使って……髪も肌もボロボロで、夜も眠れなくて……」


彼女がフードを少し上げると、そこには円形脱毛症のように髪が抜け落ち、目の下にどす黒い隈を作った、やつれ果てた顔があった。

聖女としての清廉さは消え失せ、まるで老婆のように老け込んでしまっている。


「アレンさんがいた時は、私の魔力管理も手伝ってくれていました。でも今は、誰も助けてくれない。このままじゃ、私まで呪いに蝕まれて死んでしまいます」

「ま、待ってくれ! お前がいなくなったら、俺の腕はどうなるんだ! 痛いんだ! 頼む、行かないでくれ!」


レオンはベッドから転げ落ち、這いつくばってニーナの足にすがりついた。

プライドも何もない。ただの痛みに怯える子供の姿だった。


「離してください!」


ニーナは悲鳴を上げ、レオンの手を振り払った。

その拍子に、レオンの腐った右腕が床に打ち付けられ、激痛が走る。


「ぎゃあああああああああっ!!」

「ひっ……! ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」


ニーナは恐怖に顔を歪め、逃げるように部屋を飛び出していった。

パタン、とドアが閉まる。

今度こそ、本当に一人になった。


「あ……あぁ……」


レオンは汚れた床に転がったまま、天井を見上げた。

天井のシミが、人の顔に見える。

アレンの顔だ。

あいつはいつも、こんな風に俺を見守っていたのだろうか。

俺が華々しく敵を倒し、称賛を浴びている時、その影で血を流しながら、俺が壊れないように支えてくれていたのだろうか。


「戻ってこいよ……アレン……」


涙が溢れて止まらなかった。

痛い。体も痛いが、心が寒い。

どうして気づかなかったのか。

「地味だ」「華がない」と馬鹿にしていたあの作業こそが、俺たちの命綱だったのだ。

土台がなければ、どんな立派な城も建たない。

俺は、自分の城の土台を、自分で掘り返して捨ててしまったのだ。


ふと、廊下から話し声が聞こえてきた。

宿の従業員たちが噂話をしているようだ。


「おい聞いたか? 隣国の王都ですごい騒ぎになってるらしいぞ」

「ああ、『聖域の鍛冶師』の話だろ? なんでも、あの亡国の姫騎士セシリア様の呪いを一瞬で解いて、伝説の武器を復活させたとか」

「すげぇなぁ。しかもその鍛冶師、とんでもないイケメンで、姫騎士様と相思相愛らしいぜ。どこかの馬鹿な勇者が追放したって話だけど、逃した魚は大きすぎたな」

「違げぇねぇ。その勇者、今頃泣いてるんじゃないか? ギャハハ!」


笑い声が遠ざかっていく。

レオンは呆然と口を開けたまま、その話を聞いていた。


アレンだ。

間違いなく、アレンのことだ。

あいつはもう、俺の手の届かない場所に行ってしまった。

俺が泥水を啜り、腐った腕を抱えてのた打ち回っている間に、あいつは伝説の英雄となり、美しい姫騎士と幸せになっている。


「あは、あはははは……」


乾いた笑いが漏れた。

完璧な敗北だった。

ざまぁみろ、という幻聴が聞こえる。

それはアレンの声ではない。アレンはそんなことを言う奴じゃない。

それは、俺自身の良心が、俺に向けて発している言葉だ。


お前は、幸せになる資格を持っていた。

最高の幼馴染がいて、最高の仲間がいて、輝かしい未来があった。

それを全て、お前の傲慢さがぶち壊したのだ。


「うぅ……うぅぅぅぅぅ……!!」


レオンは床に顔を押し付け、獣のように慟哭した。

右腕の壊死が進行し、ドロリとした体液が床に広がる。

そのシミは、まるで彼が流した涙のように、暗く、冷たく広がっていくだけだった。


窓の外では、雨がいつまでも降り続いていた。

かつて勇者と呼ばれた男の末路を洗い流すように、無慈悲に、冷淡に。


そして数日後。

安宿の一室で、身元不明の遺体が発見されたという小さな記事が、新聞の片隅に載った。

だが、世界中が新たな英雄「アレン」の話題で持ちきりの中、その記事に目を留める者は、誰一人としていなかった。

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