section1『違和感の土曜日』
訓練を終えた週末。
それぞれの場所に戻り、ささやかな日常を過ごす仲間たち。
けれど、どこか落ち着かない心と、説明のつかない違和感が彼らを包みはじめていた。
“視える目”に浮かぶ数字。消えた気配。揺らぐ風景。
そのすべてが──明日を告げていた。
蝉の声が、どこか遠くで鳴いている。
白鐘鳴は、駅前の喫茶店の窓際で、溶けかけのアイスココアを指で回していた。カラン、と氷が揺れる。空調の効いた店内ではジャズが静かに流れており、周囲の客たちは思い思いの時間を過ごしている。
休日らしい午後。けれど、鳴の心はどこか落ち着かなかった。
「……さっきの人、どこかで……?」
喫茶店の窓の向こう、横断歩道を渡る青年の姿に、何か引っかかるものを感じた。初めて見るはずの後ろ姿が、どうしてか既視感を伴って脳裏に残る。
鳴は考え込むように眉を寄せる。ここ最近――いや、先日の訓練以降、街の風景すら、少しずつ“何か”がずれてきている気がしてならない。
目の奥が、うずいた。
(やめよう、考えすぎだ。今日はただの土曜日、なにも――)
思考を振り払うように、ストローを口にくわえ、一気にココアを飲み干した。
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一方、自室の机に向かっていた三國見 真は、ノートのページをめくりながらペンを走らせていた。
手帳のように綴られたそこには、自らのノアに関する実験記録や思考メモ、直感の断片が乱雑に並んでいる。
「……前よりも長く、“視えてる”気がするな」
窓の外では風鈴が涼しげに鳴っていた。けれど真はそれに気づくことなく、ただ黙々とページを埋めていく。
「訓練の成果」とは少し違う。あの世界での経験が、現実の自分を変え始めている実感。
彼の視線は、ふと手帳の余白に書かれたひとことに留まる。
《次は、いつ来る?》
無意識に書いたのか、それとも――
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白倉 凪は、自宅近くの川沿いの公園で黙々と走っていた。
汗ばむ気温のなか、首元に巻いた冷感タオルをきつく締めながら、ゆるやかな坂を上る。
「……どれだけ準備しても、不安は拭えないな」
つぶやきに応えるのは蝉の声だけ。
川辺に咲いた小さな花に視線を落とし、少しだけ呼吸を整える。
ふと、周囲の空気が冷えたように感じた。ほんの一瞬だけ。
凪は手のひらをかざす。目に見えない“気配”のようなものを、肌が探していた。
何もなかった。
けれど、訓練で鍛えた感覚は、警鐘を鳴らし続けている。
「明日、なにかが起きる気がする」
そんな予感が、胸の奥で小さく鳴っていた。
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獅堂 隼人は、都心のジムでサンドバッグを打っていた。
トレーニングウェアから滴る汗が、床に音を立てて落ちる。周囲の視線を気にする様子もなく、黙々と拳を打ち込む。
「間合い……もう少し早く反応しろ」
鏡月レイラに打ち負けたイメージが頭をよぎる。
あのスピードと変則的な動きに対応するには、理屈より感覚。――そう、身体そのものに染み込ませなければならない。
音楽の流れるジムの中、ただ一人、空気の違う男。
打撃の音が止むことはなかった。
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同じ頃、鏡月 レイラは町の小さな雑貨屋で、鏡のついたアクセサリーをひとつひとつ吟味していた。
買うつもりはなかった。ただ、鏡を見ることで今の自分を確認する癖が抜けなかったのだ。
(もう、鏡がなくても戦えるようにはなったけど……)
彼女は棚に並ぶ小さな手鏡に手を伸ばしかけて、ふと動きを止めた。
鏡の中――自分の隣に、誰かが立っている気がした。
驚いて振り返る。けれど、そこには誰もいない。
「……気のせい、だよね?」
呟いて、レイラは棚に背を向けた。
もう一度振り返る気には、なれなかった。
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そして、鳴。
商店街を抜け、帰り道の横断歩道を渡ろうとしたそのとき――
ふと、視界の端に何かが浮かび上がった。
まるで空中に数字が浮いていたかのように見えたその一瞬。
鳴は目をこすり、もう一度そこを見る。けれど何もない。アスファルトの道路が広がるだけ。
「……また、“見えた”のか……?」
自分だけに映るもの。誰にも言えない違和感。
その“視えた”ものの意味は、鳴にもまだわからなかった。
けれど、明日も何かが起こる気がしてならなかった。
ほんの小さな異変だった。
けれど、それは確かに“現実”の中に入り込んできていた。
静けさの裏で目を覚ましはじめた何かが、
仲間たちの背中を、確かに押そうとしている。
それは警告か、それとも、呼び声か。
──そして、明日がやってくる。




