6 世界一の家庭教師と学問の父
五年前、エキナセアは意識が戻った後も、なかなかベッドから起き上がれなかった。体調が戻らなかったせいもあるが、心の問題も大きかったのだろう。
彼女自身には何の落ち度もないのに、家のせいで勝手に婚約だの破談などをされた上、命の危機に陥ったというのに、親にも見捨てられた。
泣く訳でも、誰を恨むでも、誰を頼る事もなく、エキナセアは、ただ高い天井を見つめていた。
そんな彼女が唯一興味を示したのが、元々ベネフィット家の侍女長だったアリーチェの本の朗読だった。
この娘の瞳にはまだ知性の光が残っている。彼女に生きる希望を与える為には学びが必要だ、と叔父のユーゴは思った。
叔父夫婦は彼女の為に家庭教師を雇った。
しかしエキナセアが優秀過ぎて、直ぐに地元の教師ではお手上げ状態になってしまった。
そこで伯爵に頼まれたアリーチェが、当時都一の秀才で世界一の家庭教師と名高いレアム=レア=イーサリア厶に、誰か良い家庭教師を紹介して欲しいと相談に行った。実は、アリーチェはレアムの育ての親だったのだ。
最初、彼は大学卒業旅行のついでにフィリアへ行き、その時にエキナセアに会って、彼女に合う家庭教師を紹介するつもりだった。
ところが、実際に彼女と話してみると、その才能と優秀さに驚嘆し、興味を持った。
この娘がちゃんとした教育を受けたら、さぞかし一廉の人物になるに違いない。
それに、弟の方もなかなか見所がありそうだ。
大学でいきなり教える前に、腕慣らしでこの二人を教え育ててみよう。レアムは一年の期限付きなら自分が教えると、自ら申し出た。
思いがけない話に、フィリア伯爵夫妻とアリーチェは大変驚き、申し訳なく思った。
それでも、エキナセアの事を考えて、その申し出を有り難く受ける事にした。そして最大限の待遇で彼を向かい入れた。
フィリア家の者達は、この恩は絶対に忘れてはいけないと固く誓った。世界一の教師になるであろうこの若者をたとえ一年とは言え、この辺境の地に留めてしまうのだから。
エキナセアは最初のうちはベッドの中で、起き上がれるようになってからは、自分の部屋の中で学んだ。
レアム先生の知識量は大変なもので、先生の頭の中には百科事典全集が入っているのではないかと、エキナセアは本気で思った。
しかし先生の素晴らしい所は、ただ知識を与えるだけではなかった。生徒に興味を持たせた後は、ヒントをさり気なく示して、本人が自らの力で疑問を解決出来るように導いていく。
教え子達は学べば学ぶほど、色々な疑問や知りたい事が増え、知識や興味が広がっていく。
やがてエキナセアは段々と、弟のディルのように自分の目で見たり、触ったり、体験したくなってきた。
そしてある日、勇気を出してそれを先生に相談をした。するとレアム先生は、
「その為には、まず体力をつけなくてはいけませんね。明日から、少しずつ体育の授業も始めましょう。」
と、にっこりと笑って言った。
そしてその日のうちに、彼は伯爵夫妻、アリーチェ、主治医と相談をして綿密なプログラムを作り、翌日にはもう、体育の授業を始めていた。
レアム先生の領域は医学や運動、そして栄養学にも及んでいたのだ。
これにはもう、皆ただただ驚愕し、感服し、称賛したのだった。
その頃弟のディルの方は、初等学院に通いながら、放課後や休みの日にエキナセアとともにレアムの指導を受けていたが、都への留学資格も取れていたので、周りはその準備をしていた。
ところが、留学は辞める。フィリアの初等学院へも行かないで、姉ともにレアム先生の教えを受けたい、と言いだした。
先生がここに居るのは後半年しかない。先生に教われる貴重な機会を逃したくないと。
しかし父である伯爵は、留学はともかく、学校を休む事は許さなかった。
侍従達に命じて、嫌がるディルを毎日のように学校へ連行して行った。
ところがある日、ディルは学校を脱走して一人で屋敷に舞い戻り、授業を受けていた姉の部屋に飛び込んできた。
そしてレアム先生に直訴をした。学校へは行きたくない、姉と一緒に教えを請いたいと。
レアム先生は言った。
「お父上のお許しを頂いたら、私の方は構いませんよ。まずは御自分でお父上を説得して下さい。」
「僕には無理です。だから、先生にお願いしたいんです。」
「無理ですか? 貴方が正しい要求をしているのなら、お父上は許して下さると思うのですが。伯爵様は物事の理を良く分かっていらっしゃる方です。その方を納得させられないのならば、それは正しくない事なのでしょう。」
「エキナセア、エキナセアからもお父上に頼んで、お願いだよ。」
ディールの懇願に、エキナセアは酷く困惑し、握りしめた両手をブルブルと震わせ始めた。
それを見たレアム先生は眉を吊り上げた。
「そんな事を頼まれたら、エキナセアさんがどう思われるかも、貴方にはわからないんですか? 残念です。」
「えっ?」
二人は姉弟ではあるが、親類というだけで伯爵家のお世話になっているエキナセアと、息子であるディルとでは立場が違うのだ。
その時、侍従から連絡を受けた伯爵が部屋の中に入ってきた。
「何をしているのだ、ディル!」
「お父上、僕はもう学校へは行きたくありません。だって、学校の先生は僕が教えて欲しい事を教えてはくれません。あんな所、行っても無駄です。それより、ここでレアム先生に教わりたいです。」
ディールは必至に訴えた。
すると伯爵はカッと目を見開くと、息子を睨みつけた。
「教えてくれないだと? 知りたい事はまず自分自身で調べろと、レアム先生から言われているのではないのか?」
「授業中にそれをしたら怒られます。」
「そんな事は当たり前だろう。」
「だから、授業中何もする事がないのが辛いし、時間を無駄にするのも嫌なんです。」
「出来る事は沢山あるだろう。お前がそれを見つけようとしないだけだ。」
「?」
ディールには父の言っている意味が分からなかった。
すると、伯爵はエキナセアに向かって尋ねた。
「もしお前が通う事が可能だったら、学校へ行っていたかね?」
「はい。」
と、エキナセアは小さな声で答えた。
「それは何故かね?」
「お友達とお話をするのはとても楽しいからです。沢山のお友達が出来たら、その数だけ、色々な視点からのお話が聞けて、大変参考になります。」
「授業中、内容が簡単で飽きてしまったらどうするね?」
「先生のお手伝いをさせて頂くか、お勉強に困っているお友達がいたら、解き方を一緒に考えて差し上げたいと思います。私は自分一人では出来ない事が多いので、お友達に助けてもらう事が多くなると思います。だからせめて勉強でお返し出来たら、幸せだと思うのです。」
エキナセアの答えに伯爵は頷きながら、再びディールの方を見た。
「お前は学問の事ばかり言っているが、学校は知識だけを学ぶ所ではない。教養本だけでは得られない雑学や、生き抜く為の知恵、社交、友情。団体行動の仕方、我慢、忍耐、理不尽、不合理。エキナセアも言っていたように、どんなに優秀な人間でも、たった一人だけでは出来る事は限られている。お前はいずれ貴族として人の上に立つ事になるだろう。そんな時に必要なのは自分一人で全てをやる事ではなく、周りに居る人間の能力を見極めて、適材適所でどう人を使うかだ。それなのに、お前は、先生や友人の優れた点を見つけようともせず、見下して不要だと決めつけている。そんな愚か者に、レアム先生の教えを受ける資格などない!」
いつも穏やかで、思いやりに溢れて、慈悲深い父の怒る姿を、ディルは初めて見たのだった。
その後ディルは、休日は目一杯レアム先生の講義を受け、平日は大人しくきちんと学校へ通い、放課後は友人達とスポーツなどをして過ごすようになった。
そうこうしているうちに、頭でっかち気味だったのが、少しずつではあるが視野を広げ、人の意見や考えも受け入れられるようになっていった。
そして、いつしか多くの友人達に囲まれるようになっていった。
そしてエキナセアの方も、リハビリを兼ねた運動のお陰で少しずつ体力がついて、庭を散歩出来るくらいになってきた。
そんな夏の終わりのある日、レアム先生は突然、
「今日は微風もあり、とても爽やかな陽気なので、庭の四阿で授業をしましょう。但し、直射日光はレディの天敵ですから、日除け対策はきちんとしましょう。」
と言った。そしてエキナセアに透明に近い、白っぽい生地で作られたつばの大きいな帽子を手渡した。
エキナセアはおずおずとそれを受け取りながら、困った顔で、
「先生、実は私、お日さまが。あのう、ええと。」
と、はっきりと言えず口を濁すと、先生は頷いた。
「分かっていますよ。でも大丈夫です。この帽子は、お日さまの光の毒になるところは通さないようになっていますから。」
「えっ?」
「これは、伯爵夫人から、貴女が外へ出られるようになったら渡して欲しいと預かっていたものです。ご夫人の兄上様が考案された、ストリームライン製の特殊な帽子のようですよ。ようやく渡せて良かったです。夫人もさぞかし喜ばれる事でしょう。」
先生の言葉に、エキナセアは涙をこぼした。
彼女はフィリアに来て、初めて泣いたのだった。
それ以降、雨が降らない限り、屋外で授業が行われるようになった。
その際、彼女の世話をする為に、年が近い侍女や小間使いの少年などが交代で側に付いていた。
彼らは皆、初等学院を卒業したばかりだった。彼らは元々皆真面目で頭の良い子達だったが、進学を親に言い出せず、学ぶ事を諦めていた。
ところが、当初エキナセアの世話係のアメリアが、レアム先生の授業を何気なく聞いているうちに、いつしか先生の話の虜になってしまった。
そして仕事を終えると、彼女は毎日こっそりと、仲間二人にその日習った事を教えるようになった。
その事に気付いたエキナセアが、叔父夫妻に、彼らを側に置きたいと進言したのだ。
彼らはいつしか、先生に質問までするようになっていった。
そしてある日、とうとう彼らは叱責される覚悟で、主人であるフィリア辺境伯に懇願しに行った。
一日ニ食、わずかな食事でもかまわないので、それを与えて頂けるのなら、手当てなどは一切頂かない。だから、一日数時間でもいいので、お嬢様と一緒に先生の授業を受けさせて欲しいと。
そして、ご主人様に受けた恩は生涯忘れない、忠誠を誓うと。
それを聞きつけたエキナセアまで、一緒にお願いをしにやって来た。彼らが抜ける分は、自分もお屋敷のお手伝いを頑張りますからと。
彼女が伯爵に願い事をするのは、それが初めてだった。
主人は彼らのその熱い情熱に驚いた。
そして金銭よりも、食事よりも欲しいと渇望する学問の持つ力に、明るい未来の展望を予期したのだった。
フィリア辺境伯は彼らの望みを受け入れ、レアム=レア=イーサリアム氏も喜んでその役目を引き受けたのだった。
レアム先生の人生を縛りたくないと、伯爵は雇用契約を一年と定めていたが、その後も、レアム先生は契約を延長し続けた。
レアム先生の名声は、彼の教え子達によってあっという間に広がり、次第にフィリア地区には優秀な学生が、国の内外から集るようになっていく。そしていつしかフィリアは、学問の街と呼ばれるようになるのである。
因みに、フィリア辺境伯は、子供達の願いを全て叶えた訳ではなかった。
住み込みで働く子供達には、侍女長アリーチェの指導の元で作られた、栄養バランスのとれた美味しい食事を三度三度、きちんと与えられた。
「空腹で脳が働かなくては、勉強しても身にならないので時間の無駄だ。そんな事も分からないような愚かな子供には、やはり学習が必要だね。」
主人はそう言って笑ったのだった。
フィリア辺境伯は後にフィリアの慈悲王、学問の父、称されるようになるのだが、それは当然の事だろう。




