第3話:静かなる正義
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桃の執拗な嫌がらせにより、いよいよ追い詰められていく南。
誰もが目を背ける絶望のフロアに、ついに「あの人」が姿を現します。
息を詰めるような展開から、一筋の光が差し込む瞬間をお楽しみください!
水木銀行の本店ビルで働き始めてから、私の世界は完全に灰色に塗りつぶされていた。
水木桃が経営企画部に配属されて以来、フロアの空気が変わった。誰もが彼女の機嫌を損ねまいと神経を尖らせ、私に対する露骨な嫌がらせを見て見ぬふりをした。
「関われば、自分までトカゲの尻尾切りに遭う」
同僚たちのそんな怯えた視線や、そっと距離を置かれる感覚が、何よりも心をすり減らした。物理的な暴力はない。だが、信用を少しずつ奪われ、孤立していく恐怖は、高校時代のそれよりも遥かに陰湿で重苦しかった。
その日も、私は定時を過ぎてから、誰もいないフロアで一人、山のような融資データの再検証をさせられていた。
桃が「ここに不備があるわ。明日の一番会議までに完璧に修正しておいてよね」と、わざわざ退社間際に押し付けていったものだ。もちろん、データに不備など最初からない。彼女が私の自由時間を奪い、心を折るための単なる嫌がらせに過ぎなかった。
パソコンの画面を見つめる目がかすみ、キーボードを叩く指が小刻みに震える。
(どうして、私なんだろう……)
喉まで出かかった弱音を、奥歯を強く噛み締めて飲み込む。泣いたところで誰も助けてはくれない。分かっているのに、あまりの理不尽さに視界が熱くなり、ぽつりと冷たいデスクの上に涙の染みが広がった。
「――そこまでにしておけ」
突然、背後から降ってきた低い声に、私はびくりと肩を震わせた。
慌てて涙を拭い、振り返る。そこに立っていたのは、融資第二課の課長補佐――佐藤啓吾だった。
佐藤さんは、世間のイメージする「銀行のエリート像」とは少し違っていた。
背は決して高くなく、童顔で、どちらかといえば温和な学生のような雰囲気を残している。だが、その整った顔立ちの奥にある瞳は、驚くほど静かで、そして底知れない強さを湛えていた。彼は普段から無駄口を叩かず、自分の仕事に黙々と向き合う職人気質な人物として、一部の社員から密かに一目置かれている存在だった。
「佐藤さん……、あの、これは……」
「何も言わなくていい。そのデータの履歴、さっきから全部見ていたからね」
佐藤さんは静かに歩み寄ると、私のデスクの端に置かれた膨大な書類の束に目を落とした。その表情に怒号や焦りはない。ただ、静かな怒りのようなものが、彼の細い眉の間に滲んでいた。
「君がどれだけ正確に仕事をこなしているか、僕は知っている。それを理由もなく差し戻し、私的な感情で居場所を奪うような真似は、上司としても、社会人としても到底許されることじゃない」
「で、ですが……相手は、水木グループの……!」
声を詰まらせる私を、佐藤さんはまっすぐに見据えた。その瞳に恐れの色は微塵もなかった。
「相手が世界の四割を牛るだろうと、総帥の娘だろうと関係ない。ここは水木銀行だ。個人の私怨で部下の尊厳を踏みにじる人間を、僕は上司としても男としても軽蔑する」
その言葉は、凍りついていた私の胸の奥に、確かな熱を灯した。
誰もが目を背け、誰もが私の敵に回る中で、この小柄な上司だけは、真正面から「正義」を見据えていた。恐怖で歪んでいた私の世界に、初めて差し込んだ一筋の光だった。
「さあ、今日のところはもう終わりにしなさい。残りのデータは僕が預かる。……大丈夫、何か言われたら、すべて僕が上に説明するから」
そう言って柔らかく微笑んだ佐藤さんの手のひらは、驚くほど温かかった。
私はその場で崩れ落ちるように涙を流した。けれど、それは絶望の涙ではなかった。この暗闇のなかで、初めて誰かに守られたという、確かな安堵の涙だった。
――この人だけは、違う。
佐藤という光を知ったその日から、私のなかで、怯えるだけの毎日は少しずつ形を変え始めていたのだった。
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絶望の淵に沈む南の前に、静かなる正義を持つ上司・佐藤啓吾が初めて現れ、救いの手を差し伸べるシーンを描きました。
次回、第4話「歪む執着と、高まる憎悪」では、佐藤がどれだけ好条件を並べられても桃になびかない姿と、それによってさらに歪んでいく桃の狂気と憎悪の矛先を描いていきます。
次回もお楽しみに!ブックマークや評価、感想などもぜひよろしくお願いします!




