第8話 魔王と夕食
白い兵士は、残業手当を知らなかった。
それが敗因になった。
「第二警備隊、正面!」
「第三術式隊、左右へ!」
「食堂班、鍋を守れ!」
魔王軍が地下施設へなだれ込む。
兵士の目が輝いていた。
忠誠心ではない。
手当が二倍だからだ。
「敵は百体だ!」
「二時間で終わらせれば通常勤務扱いだぞ!」
「急げ!」
白い兵士たちは剣を構えた。
顔がない。
仮面の下には何もなかった。声も出さない。倒れても血が流れず、白い砂になって消える。
「人間ではない」
グレンが大剣で三体を薙ぎ払う。
「魔族でもない」
セレナの雷が十体を貫いた。
「なら何だ!」
レオンが叫ぶ。
「知らん!」
「魔王は設定に詳しいんじゃなかったのか!」
「知らない設定もある!」
レオンの聖剣が光った。
白い兵士を一体、斬る。
斬った兵士が二体に増えた。
「増えたぞ!」
ニールが叫ぶ。
「私のせいではない!」
「斬ったからです!」
「敵は斬るものだ!」
「増える敵は斬らないでください!」
レオンはもう一体斬った。
二体に増えた。
「本当だ!」
「確認しなくていい!」
白い兵士は百三体になった。
ニールは気を失ったミナを村長へ預けた。
「安全な場所へ」
「どこだ」
「食堂」
「鍋を守れと言っていたぞ」
「なら安全です」
村長がミナを背負って走る。
ニールは砕けた水晶柱を見た。
白い兵士は、そこから出続けている。
水晶の奥には白い穴が開いていた。
「入口を塞げますか!」
「空間そのものが切断されている!」
セレナが答える。
「並の結界では無理だ!」
「並でない結界は?」
「準備に一時間!」
「兵士は何分で全部出ます?」
「五分!」
「間に合いません!」
「見ればわかる!」
ニールは床へ散った白い砂をすくった。
乾いている。
水晶の周辺だけ、床に霜がついていた。
穴の向こうから冷気が流れている。
地下施設の天井には、消火用の水管が通っていた。
「水を出してください!」
「敵を濡らすのか」
「床を凍らせます!」
警備兵が弁を開く。
天井から水が降った。
冷気に触れ、床一面が凍る。
白い兵士が滑った。
一体。
二体。
百体。
無言のまま全員が転んだ。
レオンも転んだ。
「なぜ私まで!」
「床は相手を選びません!」
白い兵士は立とうとする。
滑る。
また立つ。
また滑る。
強い。
だが歩けない。
「今のうちに穴を塞いでください!」
「一時間かかると言った!」
「水晶柱を倒します!」
「施設が壊れる!」
「世界とどちらが高いです!」
「施設だ!」
セレナは即答した。
「高いんですか!」
「金貨八十万枚だぞ!」
「世界は値段がつきません!」
「だから比較できん!」
ニールは支柱を見る。
水晶柱を倒せば穴を塞げる。だが重すぎる。
牛はいない。
代わりに勇者がいた。
「レオン! 柱を倒してください!」
「命令するな!」
「世界最強でも無理ですか!」
レオンが立ち上がった。
「誰に言っている!」
聖剣を振る。
水晶柱の根元を斬った。
巨大な柱が傾く。
「押せ!」
グレンと魔族の兵士が加わった。
柱が倒れる。
白い穴を塞いだ。
残った兵士は氷の上で滑っている。
セレナが黒い鎖でまとめて縛った。
「斬るな。増える」
「知っている!」
レオンが胸を張る。
「あなたが増やしました」
「細かいことを気にするな!」
戦闘は二十三分で終わった。
魔王軍から歓声が上がる。
「二倍だ!」
「通常勤務扱いだ!」
「帰れるぞ!」
負傷者を医務室へ運ぶ。
白い兵士の砂は袋へ集めた。
壊れた水晶施設には、金貨八十万枚の損害札が立てられた。
札を置いたのはセレナだった。
「俺が払うんですか」
「見せているだけだ」
「何のために」
「罪悪感だ」
「性格が悪いですね」
「魔王だからな」
ミナは眠ったままだった。
外傷はない。呼吸も安定している。
治癒術師によれば、封じられた記憶が動いた反動らしい。
「いつ起きます」
「数時間か、数日」
「幅が広い」
「脳は専門外だ」
「何が専門です」
「切り傷と腰痛」
「軍らしいですね」
夜。
ニールは医務室に残った。
村長は隣の寝台で寝ている。レオンとグレンは客室へ移った。
扉が開いた。
セレナが二人分の盆を持っていた。
「夕食だ」
「魔王が運ぶんですか」
「食堂班は帰った」
「命令すれば」
「残業になる」
豆の煮込みと黒パンだった。
二人は医務室の窓辺へ座った。
魔王城の外には、黒い山脈が続いている。谷に小さな灯りが見えた。魔族の町だ。
灯りの一つが消えた。
また一つ。
「寝る時間ですか」
「魔力節約だ。世界が不安定になってから、夜の灯りを半分にした」
「怖くないんですか」
「何が」
「暗いと」
「子どもは怖がる」
セレナは窓辺に、小さな照明石を置いた。
「だから一軒に一つだけ残す」
「魔王も?」
「私は暗くても見える」
「では、これは」
「客用だ」
淡い光が、眠るミナの顔を照らした。
「セレナは、世界が滅びると知っていたんですか」
「三年前から」
「なぜ誰にも」
「言えば混乱する」
「一人で止める気だった?」
「魔王だからな」
「またそれですか」
「便利な言葉だ」
「勇者と同じですね」
セレナの匙が止まった。
「一緒にするな」
「二人とも、役職でしか答えない」
「私はあれほど馬鹿ではない」
「レオンも同じことを言いそうです」
「今度聞け」
「二人のいるところで?」
「やめろ」
ニールは黒パンを煮込みへ浸した。
「俺は村人です」
「知っている」
「でも村人だから、とは答えたくない」
「なぜだ」
「何をしても許される言葉になりそうだから」
セレナはしばらく考えた。
「役職は盾だ」
「剣では?」
「自分へ向ける言葉を防ぐ。魔王だから仕方ない。勇者だから仕方ない。そう言えば、選ばずに済む」
「選ばないことも選択です」
「村人は面倒だな」
「よく言われます」
二人は窓の外を見た。
暗い町に、一軒ずつ小さな灯りが残っている。
世界が終わる日まで、誰かが帰る場所を見失わないための灯りだった。
「魔族も普通に暮らしてるんですね」
「失望したか」
「安心しました」
「人間は、魔族を夜ごと赤子を食う怪物だと思っている」
「村では、税を取りに来る騎士のほうが怖いです」
「魔族は?」
「昨日までは怖かった」
「今日は」
「規則にうるさい職場です」
セレナが笑った。
昼間より疲れて見えた。
「世界修正権限について、知っていることを話す」
ニールは匙を置いた。
「あれは奇跡ではない。世界が持つ管理機能だ。崩壊につながる失敗を、原因から直す」
「知っています」
「問題は、なぜ人間へ渡ったかだ」
「勇者が死んだから」
「その勇者にも、本来は渡らない」
セレナは窓の外を見た。
「世界修正権限は、世界の内側にいる者へ与えてはならない。自分が暮らす世界を、自分の都合で書き換えられるからだ」
「俺は都合よく使えません」
「今はな」
「今は?」
「使うたび、権限が増えている」
ニールは半透明の板を開いた。
以前はなかった項目がある。
『修正可能範囲――局所』
『因果干渉深度――四』
『世界安定率――九十一パーセント』
四回使った。
安定率は下がっている。
新しく修正していなくても、世界の傷は広がり続けていた。
「直すたびに、世界が不安定になる?」
「傷を縫うたび、布地そのものへ穴を開けているようなものだ」
「使わないと滅びます」
「使っても滅びる」
「では、どうすれば」
「原因を直す」
「権限で?」
「違う。人の手でだ」
セレナは黒パンをちぎった。
「権限は結果を教える。失敗をやり直す。だが頼り続ければ、世界は自分で立てなくなる」
「人間と同じですね」
「世界を人間扱いするな」
「魔王が言ったんです。世界は生きてるって」
「言い返すようになったな」
「最初からです」
しばらく、二人は黙って食べた。
医務室の寝台で、ミナが小さく息をつく。
「彼女は何者です」
「わからない」
「設定に詳しいのでは?」
「その言い方を気に入ったのか」
「便利です」
「便利に使うな」
セレナは立ち上がった。
「明日、大賢者オルドのもとへ行く。千年生きている。権限の記録も読めるはずだ」
「どこに?」
「城の北、歩いて半日」
「近いんですね」
「ただし」
「何です」
「だいたい忘れている」
「千年分を?」
「昨日のことを」
「役に立ちますか」
「会ってから考えろ」
セレナが去る。
扉の前で止まった。
「ニール」
「はい」
「勇者より、お前のほうが怖い」
「前にも聞きました」
「意味が変わった」
「どう変わったんです」
「お前は敵を倒さない。敵が生きたまま、敵でなくなる場所を作る」
セレナは答えを待たずに出ていった。
医務室を出たセレナは、自室へ戻らなかった。
玉座の間へ行った。
夜の玉座には誰もいない。
昼は報告と命令が集まる。
夜は石の椅子が一つあるだけだ。
セレナは座らず、背もたれへ触れた。
十七年前。
先代魔王が死んだ日、この玉座へ座らされた。
足が床へ届かなかった。
家臣たちはひざまずいた。
「陛下」と呼んだ。
誰も名前では呼ばなかった。
乳母のルシアだけが、夜になるとセレナと呼んだ。
「怖い」
幼いセレナは言った。
「何がです」
「明日」
「まだ来ていません」
「だから怖い」
「来たら、今日になります」
「今日も怖い」
「では朝食を食べましょう。怖いのは、そのあとです」
ルシアは毎朝、同じように言った。
朝食。
会議。
訓練。
昼食。
明日を細かく切れば、十七歳まで来られた。
ルシアが死んだあとの朝だけ、食事を抜いた。
その日、三つの命令を間違えた。
兵士二十人が負傷した。
それから、どれほど忙しくても食事を取った。
兵士にも取らせた。
世界滅亡の前でも、食堂を止めなかった。
「明日が怖いか」
誰もいない玉座の間で、自分へ聞く。
怖い。
魔王だからではない。
十七歳だからでもない。
今日会った村人が、明日も面倒なことを言うかもしれない。
それを少し期待しているから、失うのが怖かった。
セレナは玉座へ座った。
足はもう床へ届く。
翌朝の献立表を開いた。
豆の煮込み。
「また豆か」
魔王は世界より先に、献立の変更申請へ署名した。
ニールは眠るミナを見た。
窓の外には、魔族の暮らす灯りがある。
救うべき世界は、思っていたより広かった。




