第1話 あと三日で、この水は飲めなくなります
聖水は、祈りで清まるものだと思われています。
しかし、この話の令嬢は、そう思っていません。
聖水盤の水が、濁りはじめている。
わたしはそれを見ていた。壇の上で王太子殿下が何かを仰っている間、ずっと。
「リゼット・オルレンド。そなたの奇跡は偽りであった」
三日、と胸の内で数える。この濁り方なら、あと三日で飲めなくなる。
「そなたに、聖女の資格はない」
四日目には匂いが出る。五日目には、子どもが腹を下す。
「何か申し開きはあるか」
ございます、と言いかけて、やめた。
必要なのは申し開きではなく、引き継ぎだ。けれどこの広間に、桶を持っている人は一人もいない。
大聖堂の中央広間には、王都じゅうの貴族が集められていた。白い柱、白い床、白い聖衣。その中心に据えられた大理石の聖水盤だけが、わずかに灰色に沈んでいる。
誰も気づいていない。三日後に気づく。
「そなたは三年にわたり、王家の名において民に聖水を配ってきた」
殿下の声はよく通る。生まれつきなのか、そう訓練されたのか、わたしには分からない。
「王都の民は、そなたの奇跡を信じた。病が減った。夏に子が死ななくなった。誰もがそなたを讃えた」
病が減ったのではない。腹を下す者が減った。それは違うものだ。けれど誰も、その二つを分けて数えない。
「だが、その奇跡はどこから来た。神からか。それとも」
「姉さま」
妹が前へ出た。
アニエス・オルレンド。十七歳。母の違う妹で、顔だけがよく似ている。
「姉さまは、一度も祈っていらっしゃらなかったでしょう」
広間がざわめいた。
「わたくし、見ておりましたの。姉さまは毎朝、日の出よりも早く、地下の水場へ下りていかれます。そこで何をなさっているのか、誰も存じ上げません。祈祷の間には、一度もいらっしゃらない」
見ていたのか、と思った。
三年のあいだ、毎朝。わたしが地下でしていたことを、この子は見ていた。見ていて、なお、何をしていたのか分からなかったのだ。
地下は寒い。夏でも寒い。石段を下りると、まず匂いで分かる。今日の水がどこから来たか、雨のあとか、そうでないか。樽の蓋を開けて、上澄みに顔を近づける。指を入れて、舌先に一滴だけ載せる。
それから、袖をまくる。
三年、毎朝、日の出前。誰も見ていないと思っていた。見られていたのに、何も伝わっていなかったというのは、少しだけ、違う種類の寂しさだった。
「アニエス。それは真か」
「はい、殿下。ですから姉さまの『浄めの奇跡』は——」
「偽りであった」
セヴラン殿下は、そこで満足そうに息を吐かれた。二十二歳。四年前に婚約者となった方で、地下の水場へは一度も来たことがない。
「聖女とは、祈る者だ。祈らぬ者が聖女を名乗り、王家の名において民に水を配った。これは詐りだ」
詐り。
その言葉が、白い天井にぶつかって落ちてきた。
「よって、そなたとの婚約は、この場で解く」
四年かけて結ばれた話が、一息で解けた。解くほうは、たしかに一息で済む。
わたしは膝を折り、聖印を外して床に置いた。銀の輪が石にあたって、思ったより高い音を立てた。
爪の際に炭の黒が残った手を、どなたも見ていない。
「アニエス。そなたが浄めてみせよ」
妹が聖水盤へ歩み寄った。
両手を水面の上に広げ、目を閉じる。長い睫毛が震えて、白い頬に影を落とす。誰かが息を呑む音がした。それは確かに、絵に描いたような聖女の姿だった。
わたしは水を見ていた。
灰色は消えなかった。むしろ、妹の指先から落ちた光の粉——衣に縫い付けられた飾りの砕けたものが、ひとつ、水面に浮いた。
「……ああ」
誰かが感嘆の声をあげた。
「清まった」「清まったぞ」「なんと美しい」
広間の空気が、ふわりと変わった。
誰も水を見ていない。妹を見ている。
わたしはそれを、少しだけ不思議な気持ちで眺めていた。三年間、誰もわたしを見なかった。今も、誰も水を見ていない。見られていないのが水なのか、わたしなのか、そこのところが、いまだによく分からない。
浮いた飾りの粉が、ゆっくりと沈んでいく。
あれは沈むだけで、消えはしない。明日には底に溜まる。溜まったものは、汲むときに舞い上がる。
誰かに言っておいたほうがいい。
言ったところで、聞く人がいない。
「リゼット」
父の声がした。
オルレンド伯爵。わたしの父。地下の水場へは、やはり一度も来たことがない。
「お前は、家に恥をかかせた」
「……はい」
「北のドラン辺境領へ行け。あちらには修道院がある。二度と王都の敷居はまたぐな」
ドラン。
北の国境。八年、戦の続いた土地。
わたしは頭の中で、記憶の底から一枚の紙を引き出した。三年前、大聖堂の書庫で読んだ水利の記録。ドラン辺境領——井戸十九、うち涸れかけ七、鉄気を含むもの四。
飲める水が、少ない。
「承知いたしました」
顔を上げたとき、殿下がわずかに眉を寄せられた。
たぶん、泣くと思っておられたのだろう。あるいは、縋ると。
申し訳ないが、そういう時間はない。あと三日で、この水は飲めなくなる。
「殿下」
「なんだ」
「ひとつだけ、申し上げてよろしいでしょうか」
殿下は顎を引かれた。許可の代わりだ。
「地下の水場に、麻の袋が六つございます。中身は焼いた炭です。十日に一度、新しいものと取り替えてください。それから、砂の層は——」
「聞かぬ」
声が、白い壁に跳ね返った。
「そのような下賤な話を、聖堂で口にするな。聖水は祈りで清まる。昔からそうだ」
昔から。
わたしは口を閉じた。
昔からそうだった、という言葉に、返せるものを持っていない。持っているのは、砂と、炭と、目の細かい布だけだ。
衛兵が二人、両脇についた。
広間を出るとき、わたしは聖水盤の縁に指を触れた。誰も見ていなかった。石の縁に、ざらりと砂が残っている。指の腹でこすると、粒が細かい。上等な砂だ。三年前、わたしが自分の小遣いで買って、川で三度洗って、地下の樽に敷いたものだ。
この砂は、あと三日ぶんの仕事をする。
そのあとは、誰かが替えなければならない。
回廊へ出たところで、人とすれ違った。
ヨナス。大聖堂の下働きの老爺で、地下の樽の水を汲み上げる係だ。腰が曲がっていて、いつも同じ麻の前掛けをしている。三年間、朝いちばんに顔を合わせるのは、この人だった。
ヨナスは足を止めた。抱えた麻袋を持ち直して、わたしを見て、それから床を見た。
衛兵が「下がれ」と言った。
「ヨナス」
わたしは足を止めなかった。歩きながら、すれ違いざまに言った。
「十日に一度です」
老爺の目が、わずかに動いた。
「焼いた炭を六袋。砂は、川で三度洗ってから。急ぐときは二度でも構いませんが、三度のほうがいい」
「……お嬢さま」
「布は、目の細かいほうを上に。逆にすると、詰まります」
衛兵に腕を掴まれた。それ以上は言えなかった。
回廊の角を曲がるとき、一度だけ振り返った。ヨナスはまだ同じ場所に立って、麻袋を抱えたまま、こちらを見ていた。
あの人は、覚えられるだろうか。
覚えられたとして、誰が聞くだろうか。
白い扉が開いて、外の光が入ってきた。
背中で、妹の澄んだ声が響いている。「主よ、この水を清め給え」。広間がそれを繰り返す。声はよく揃っていて、とても美しかった。
わたしが出ていったあと、この水は、どなたが濾すのでしょう。
【今日の水】王都大聖堂・聖水盤。濁りはじめ。あと三日で、飲めなくなります。
お読みいただきありがとうございます。
聖女さまの奇跡は、たいてい誰にも見られない場所で起きています。地下とか、明け方とか、そういう時間に。
次話——リゼットは北のドラン辺境領へ着きます。井戸十九、うち涸れかけ七。そして、水の飲めない領主がひとり。




