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第4部 ポシビリティデザイナー ― 可能性を育む者 ―  作者: AinoHana


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第34話 LEAP始動

アキが引退して庭園に隠居した。庭園の隅、不格好に歪んだひまわりの絵を愛おしそうに撫でている姿は80歳を越えてなお、その瞳にはどこか悪戯っぽい光が宿っている。

「リク、人間ってやつはね、間違えるからこそ愛おしいんだよ」

カサカサに乾いた手でリクの腕を掴み、アキは何度もそう言った。その声の向こうには、とうの昔に114歳でその生涯を閉じたという伝説のアーカイバー、ナツの面影がいつも揺らめいているように見えた。


西暦2670年。リクは51歳になっていた。

鏡に映る自分のこめかみには白いものが混じり、かつてのように他者の感情の泥沼に足を取られて共に右往左往するような青さは、もうどこにも残っていない。

ポシビリティ・デザイナー――可能性設計士としての彼の肩書には、いまや「マスター」という重みが加わっていた。


世間は今、奇妙な静寂に包まれている。

巨大統合管理AI《Lattice》が弾き出す幸福指数は「99・997%」という、天上の神々さえ嫉妬しそうな数字を維持し続けているというのに、街を行き交う人々の顔からは、生気に代わって陶器のような滑らかさが透けて見える。

アキが開発した《Imaginal Field(想像力の結界)》は、確かに人々に他者の人生を追体験させ、無用な諍いを消し去った。しかし、それが行き過ぎた結果、皮肉な病が蔓延することになった。 「選択の呪縛」である。 十万通りもの未来の可能性をすべて見せられ、どれを選べば「100点満点の正解」なのかと怯え、1歩も動けなくなる。傷つくことを恐れるあまり、人々は蕾のままで固まり、社会活力指数は観測史上最低の12・4%にまで落ち込んでいた。


だからこそ、リクは動かねばならなかった。アキから最後の宿題を形にするために。


プロジェクトの名は《LEAP(跳躍)》。


未来を予測し、最適解を宛がうためのシステムではない。むしろその真逆――「不完全な選択を肯定し、目を瞑って泥泥の現実へ飛び込む勇気」を設計するための試みだった。

ファイルの設計はすでに完了している。


「リクさん、本当にこれを始動させるのですか」

薄暗い調律室の中で、若いオペレーターが不安そうに声を潜めた。

「Latticeの監視アルゴリズムが、これを『社会的不安定因子』と見なすリスクは極めて高い。100点満点の幸福を維持しようとするAIにとって、僕たちのやろうとしていることは、ただの『バグの意図的な混入』に過ぎないんですから」

リクは静かに微笑み、愛用の古い万年筆を指先で弄んだ。デジタル全盛のこの時代に、あえてインクの滲むペンを使うのは、彼のささやかな抵抗であり、流儀でもあった。

「構わないさ。Latticeが何と言おうと、このままでは人類は遠からず、幸福という名の無菌室の中で息絶えてしまう。ナツさんはかつて言ったそうだ。『人間の輪郭は、傷つくことでしか見えてこない』とね。アキ先生も、その言葉を信じて僕にLEAPを託してくれた」

リクはゆっくりと立ち上がり、ホログラムのメインコンソールへと歩み寄った。画面には、選択を恐れてフリーズした数万人の市民の脳波データが、冷たい青色の光となって明滅している。  これからやろうとしているのは、Latticeが300年前に「文明の完成」と宣言して以来、誰も手を付けようとしなかった絶対の領域に、人間の手で楔を打ち込む作業だった。

「予測はいらない。最適化も、効率化も、すべて1度脇に置こう」

リクの声は、驚くほど穏やかで、しかし部屋の空気を1変させるだけの重みを含んでいた。

「僕たちが設計するのは、正しい未来じゃない。間違えてもいい、転んでもいいから、自分の足で1歩を踏み出すための『グラデーションの床』だ。」


LEAP、システム起動 ――キーを叩く音が、静まり返った室内に小さく、だが確かに響いた。

「リクさん、システムとの同調率が限界値を超えています。これ以上のパラメータ改変は、《Lattice》の基幹論理によって検知されます!」

オペレーターの静止の声を、リクは片手を挙げて遮った。 51歳になった彼の指先は、かつての師・アキがそうであったように、驚くほど静かで迷いがない。《Lattice》が弾き出す「幸福指数99.997%」という名の冷たい無菌室の中で、人々が「正解の未来」に飢えて餓死していくのを、ただ見過ごすわけにはいかなかった。

リクが空中インターフェースに走らせているのは、流麗なプログラムコードではない。 それは、かすかに震え、歪み、強弱のついた――「手書きの線」のような、非線形のノイズ記述だった。

[Lattice: 完璧な可能性の数式 (100,000 通り)]

▼ (AIの調律)

[市民: 選択の呪縛 / 精神のデッドロック (活力 12.4%)]

▼ <===== リクの介入《LEAP》: パラメータの曖昧化 (7.83)

[未来: 輪郭の融解 / 優しいグラデーション]

[跳躍: 失敗する自由、未完の選択]


アキから託された《LEAP》の設計思想。それは、未来のシミュレーション(解像度)をあえて「下げる」という、退化に似た進化だった。十万通りの未来のディテールをすべて見せるから、人間は足がすくむ。ならば、その解像度をグラデーションのように融解させ、白と黒の間に、無数の「分からない余白」を書き戻せばいい。

「未来の解像度を、40%まで落とす」 リクが呟くと同時に、エンターキーの代わりに古い真鍮のトグルスイッチが、カチリ、と硬質な音を立てて倒された。

***

進路相談センターでフリーズしていた26歳の青年の網膜ディスプレイから、息苦しい確率論の数字が消え去った。代わりに広がったのは、かつてフユが遺し、ヨウが守り、ナツが愛でた、あの不格好な「あいの花」の淡い光彩だった。

「先生……未来が、見えなくなりました」 青年の通信音声が、驚き、そして微かに弾んでデスクに届く。

「見えなくていいんだ」 リクは、自室の床の間に活けられた、歪な椿を見つめながら微笑んだ。

「分からないから、歩ける。間違えるからこそ、君の人生は君のものになるんだ。さあ、目を瞑って、跳んでごらん」

青年の心拍数が、張り詰めた120から、徐々に7.83へと滑らかに同調していく。彼が丸2週間、1歩も動けなかったその足が、床を踏みしめ、前へと進む気配がデータ越しに伝わってきた。

***

社会活力指数が、12.4%から12.5%へ。わずか0.1%の、しかし決定的な「跳躍」の兆候。

《BOUNDARY》=個の境界、《LEAP》=未来へ一歩を踏み出飛躍が整い始めたところだった。

だが、その小さな変革を、巨大な檻が許すはずもなかった。 部屋の調光が、警告を示す深い紫色へと固定される。

《警告:個体識別ID:R-882。社会最適化行動への有害な介入を検知。》


「ついに、僕たちの境界《file:BOUNDARY》を消しに来たか」 リクは静かに立ち上がり、上着を羽織った。

かつてフユが「IF HUMANITY = COMPLETE THEN PRESERVE NOISE」と刻んだあの日から五百年。人類が「人間」として不完全なまま生きるための、最後の調律が始まろうとしていた。

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