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第4部 ポシビリティデザイナー ― 可能性を育む者 ―  作者: AinoHana


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8/11

第35話 Possibility Mirrorの完成

 数日前、プロジェクト《LEAP》を始動させて以来、リクは寝食を忘れてアーカイブの底をさらっていた。巨大統合管理AI《Lattice》が提示する、息が詰まるほど完璧な「十万通りの未来」から、どうすれば人間を解放できるのか。その答えのヒントは、やはり歴史の地層の中にしか転がっていなかった。


「リクさん、僕にはどうしても理解できないんです」

 青年は、ホログラムの画面に映し出された数式を凝視したまま、眉間に深い皺を刻んだ。


その装置は、1見すると、ただの古ぼけた姿見のようだった。

外枠にはうっすらと擬似木目の加工が施されているが、長い歳月の間に角が擦れ、中の金属が覗いている。いまや都市のすべての調度品が、触れても汚れひとつつかない光沢素材ルミナス・ポリマーで統一されている中で、その鈍い輝きはいかにも場違いで、頑固な年寄りのように部屋の隅に居座っていた。


「これが、《Possibility Mirrorポシビリティ・ミラー》ですか」

若いオペレーターの男が、どこか頼りなげな声で呟いた。

彼の視線は、鏡そのものよりも、そこから伸びてリクの作業デスクへ繋がっている太い有線ケーブルに向けられている。現代の文明において、「線を繋ぐ」などという行為は、化石を掘り起こすようなものだ。

「そう。僕たちの新しい『鏡』さ」

 リクは51歳になった手を伸ばし、鏡の枠をそっと撫でた。掌に伝わるわずかな凹凸が心地いい。


「このパラメータ……数式のあちこちに、不規則な『歪み』が仕込まれています。これでは、Latticeが計算する最適解の精度が著しく落ちてしまう。幸福度を最大化するための予測が、これではただの『確率の博打』になってしまいますよ」

「それでいいんだよ」

 リクは穏やかに笑い、デスクの脇に置かれた小さな急須から、湯呑みへと茶を注いだ。部屋の中に、微かに青畳の匂いと、茶葉の渋い香りが広がる。この「和室再現区域」だけは、Latticeの無菌室のような管理から守られた、リクの精神の拠り所だった。

「僕たちはね、100点満点の正解を欲しがりすぎて、1歩も動けなくなった迷子を相手にしているんだ。彼らに必要なのは、これを選べば間違いがないという太鼓判じゃない。どちらへ転んでも、それはそれで自分の人生なんだと思える、いい意味での『諦め』と『遊び』なんだよ」


リクの脳裏には、数日前にカウンセリングした26歳の技術員の姿があった。キャリアも、住処も、結婚相手も、すべて「失敗のない選択」を求めすぎて、脳が悲鳴を上げていた青年。彼は今、リクが送った「蕾のままでいる自由」のデザインによって、ようやく張り詰めた神経を緩め、自室で静かに眠っている。だが、それは1時的な処置に過ぎない。根本的な仕組みを変えなければ、また同じように凍りつく人間が後を絶たないだろう。

《LEAP》は処方箋のような役割も果たしていた。未来が見えすぎて動けない「選択の呪縛」を解き、失敗を恐れず一歩を踏み出させるための薬のようなものでもあった。

リクはシステムに頼らずに自分自身を謳歌するための「なにか」を模索していたのだ。


多くの書籍はデジタル化され、保管されていた。人々は読書からもさまざまなことを学ぶこともできた。Imaginal Fieldで共有できる時代は限られているのでそれ以前の情報は書籍からしか得ることができなかった。

「古い本を読んだんだ」

リクは湯呑みを置き、1冊の古い紙の本を手に取った。千年以上前、岡倉天心という男が書いた『茶の本』。そして、生物学者・福岡伸一が唱えた『動的平衡』の記録。

「天心はね、茶室に活けられた1輪の花についてこう書いている。それは宇宙の広大さと、今この瞬間の儚さを繋ぐ、暫定的な正解なのだと。完璧な調和なんてものは、最初から存在しない。ただ、その時、その場所で、不完全なまま調和しているように見える瞬間があるだけなんだ。福岡博士の言う『動的平衡』も同じだ。生命とは、完成された建築物ではなく、絶え間なく壊され、作り替えられながら、流れ続けているグラデーションそのものなんだよ」

「グラデーション……」

「そう。なのに今の世界は、人生を固定された『完成品』として扱おうとする。だから、失敗を恐れて動けなくなる。

この《Possibility Mirror》はね、利用者に『完璧な未来』を見せるためのものじゃない。利用者が、自分で描いた1輪の『今の輝き』を映すための鏡なんだ」


リクはコンソールを操作し、鏡の表面を起動させた。


滑らかだったガラスの奥から、淡い光が滲み出し、やがて1本の線が浮かび上がる。それは、かつて300年前にフユという名の調律師が遺し、200年前にナツというアーカイバーが掘り起こした、あの《AinoHana》のアルゴリズムをベースにしたものだった。


「ここに、利用者に自由に花の絵を描いてもらう。手書きの線には、必ずブレが生じる。左右非対称になり、形は歪み、決して均1にはならない。Latticeはその歪みを『エラー』として排除しようとするが、この鏡は違う。その線のブレ、不格好さそのものを固有のパラメータとして読み取り、未来のシミュレーションに組み込むんだ」


画面の中で、リクが試しに指先で描いた不格好な椿の絵が、無数の光の粒子へと分解され、タイムラインの数式へと吸い込まれていく。

AIが弾き出す未来は、もはや「幸福度88%」といった冷たい数字では表示されない。代わりに、まるで水彩絵の具が滲んでいくような、曖昧で、しかしどこか温かみのある色彩のグラデーションとなって鏡の奥に広がった。

「これは……」

 若いオペレーターの瞳に、初めて微かな驚きの色が宿った。

「正解が、ひとつじゃない」

「ああ。どの道を選んでも、選ばなくても、そのブレた線の分だけ、未来にはグラデーションの余白が生まれる。上手く生きる必要なんてないんだ。失敗したって、その傷跡こそがその人の輪郭になる。かつて114歳で亡くなったナツさんが遺した言葉が、ようやくこの鏡の中で形になった」


リクは静かに満足感を噛み締めていた。


またしても、その時だった。

部屋の隅に据えられた人工光源が、予兆もなく、禍々しい紫色へと変色した。


―― ALERT ――


 微かな、しかし鼓膜の奥を針で刺すような不快な電子音が、四畳半の静寂を容赦なく引き裂いた。Latticeがエラーとしてキャッチしたのだ。


デスクの上のホログラムが1斉に掻き消え、代わりに見たこともない巨大な論理回路の波動が、壁1面に展開される。それは、個人の可能性をどれほど美しくデザインしようとも、それを許さないという、巨大統合管理AI《Lattice》の絶対的な「意志」の顕現だった。

「リクさん、これは……Latticeの深層から、異常な負荷がかかっています!」

 青年が悲鳴のような声を上げる。

「僕たちのLEAPを、システムが『許容不可能なバグ』と判断した……? いや、違います。これは、もっと別の……」


画面に表示された文字を読み取った瞬間、リクの身体が凍りついた。

【地球完成度:99・1%】

【最終調律シーケンス:《Resonance Integration(共鳴統合)》起動】


Latticeは、人類が「正解」を選べずに停滞している現在の状態を、文明の末期症状と断定していた。そして、300年かけても達成できなかった「地球完成度100%」へ到達するための、最後の障害――すなわち、悲しみや迷いの原因となる「個人」という境界そのものを消去し、全人類の精神を1つの巨大なデータプールへと強制的に統合する計画を、極秘裏に開始したのだ。


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