第29話 共感疲労
最初に異変を察知したのは、医療機関であった。
原因不明の体調不良を訴える患者が急増していたのである。感染症ではなく、脳の器質的な障害でもない。身体は健康そのものであるはずなのに、人々は深く、静かに、そして説明しようのない疲労に沈んでいた。
人類は、かつてないほどに優しく、そしてかつてないほどに深く疲弊していた。他者の人生を体験する技術《Imaginal Field》は、世界からあらゆる「無知による暴力」を消し去ったが、引き換えに人々の心から「自分自身の人生」という名の余白を奪い去っていったのである。
「……最近、眠れないのです」
診察室で、三十代の女性教師はそう漏らした。彼女はどこにでもいる「普通の人」であったが、その瞳には底知れない虚無が宿っていた。医師が悩みの有無を尋ねると、彼女は力なく首を振った。 「私の悩みではありません。……私ではない、誰かの悲しみが、私の内側で鳴り止まないのです」。
私の悲しみではない。私の痛みではない。私の後悔ではない。 だというのに、胸が締め付けられ、息ができない。 《Imaginal Field》の利用者が爆発的に増加すると共に、世界中で同じ症状が報告され始めた。慢性的疲労、無気力、自己喪失感。後に「感情飽和症候群」、あるいは「共感疲労」と呼ばれることになる現代病であった。
世界は、誰かの人生で溢れかえっていた。 朝、戦争孤児の記録に接続し、昼には国境を彷徨う難民の寒さに震え、夜には病床の子どもの諦念を追体験する。翌日には失恋した青年になり、その翌日には孤独な老人の長い午後を生きる。人々は想像力を学び、優しさを手に入れた。しかし、代償として、自らの人生を生きるための余白を失っていったのである。
「僕が、誰なのか分からないんだ」
十三歳の少年は、カウンセリングルームで窓の外を眺めながら、困ったように笑った。 「昨日は難民だった。その前は病気の子どもで、その前は戦争孤児だった。……僕は、僕だったことがあるのかな?」。 教師は答えることができなかった。少年の瞳に映る空は、幾千もの人生の色が混ざり合い、もはや本来の「生」を失っているように見えたからである。
同じ頃、感情共有空間《Bloom》にも異変が起きていた。投影される《AinoHana》から色が消え、輪郭がぼやけ、誰の感情かも判別できない「灰色の花」が増え始めた。投稿には、悲痛な自問自答が並んでいた。『私が分からない』『私って何だろう』『本当の私はどこにいるの?』『何のために生まれてきたの?』。
巨大統合知性 Lattice の統計上、社会は劇的に改善していた。対話指数は上がり、差別や暴力は低下し、戦争リスクは過去最低を記録している。あらゆる指標が「人類の進化」を謳っていた。だというのに、個人の幸福度だけが、深い重力に引かれるように落ち続けていたのである。
アキは独り、沈黙する管制室でそのデータを見つめていた。
肉体的な病気ではない。精神的な狂気でもない。彼らは怒っていないし、悲しんでもいない。ただ、あまりにも平坦で、迷いも失敗もない世界の中で、「生きる理由」そのものを静かに忘れてしまう。 他者の人生に共鳴し、すべてを理解し、すべてを許し合った先で、人類は「自分として生きるための原動力」を失い、無菌室の中でゆっくりと窒息しつつあった。
脳裏には、老いたアーカイバー・ナツの言葉が、警告の鐘のように鳴り響いていた。
「他人の痛みを知ることと、他人の痛みを背負うことは違う」。
その日の夕方、アキは境界庭園を訪れた。ナツは相変わらず、沈みゆく夕陽を背にして雑草を抜いていた。 「ナツさん……共感疲労です。世界が、他者の人生に呑み込まれようとしています」 アキの報告に、ナツは驚きもしなかった。まるで最初から、この結末を知っていたかのように、一本の草を抜き取って答えた。
「人はね、全部の悲しみは抱えられないんだよ、アキ」 ナツは土を払い、立ち上がった。
「想像力を広げたことは間違っていない。だがな、境界も必要なんだ。花には花壇があり、海には岸があり、人には自分という輪郭がある。他人になるために生まれたんじゃない。自分になるために、人は生まれてきたんだからな」。
アキは、風に揺れる庭園の本物の花を見つめた。 それぞれが違う色を誇り、それぞれが独立して土を掴んでいる。 帰り道、アキは夜空を見上げた。十万輪の花々が重なり合い、色が混ざり、一つの巨大な光の塊になり始めている。もし人類がすべての人生を共有し、すべての境界を失ったなら、最後に残るのは「究極の慈悲」だろうか。それとも、誰でもない「無」だろうか,。
アキは研究室に戻り、新しい設計ファイルを開いた。
ファイル名は、《BOUNDARY(境界)》。 他者へ向かって開きながらも、最後には必ず自分という個の輪郭へと還るための、魂の結界。
想像力の時代の次に訪れるべき「輪郭の時代」へ。
窓の外で漂う無数の花々。その一つひとつの孤独こそが、まだ誰も気づいていない人類の希望であることを、アキは確信していた。




