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第4部 ポシビリティデザイナー ― 可能性を育む者 ―  作者: AinoHana


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第28話 Imaginal Field公開

公開当日、世界は不気味なほど静かであった。


二百年ぶりに現れた新しい文明技術、《Imaginal Field(想像力の結界)》。他者の人生を、その人の心拍や体温、呼吸といった「呼吸ゆらぎ」に至るまで再現し「体験」するという未知の扉を前に、人類は最初の一時間、ただ固唾を呑んで様子を伺っていたのだ。


高度2,000メートルに浮かぶ軌道都市オラクルの中央管制室は、かつてない緊張感に支配されていた。


アキは巨大モニターを見つめ、自身の心拍が速まるのを感じていた。周囲のスタッフたちの顔も一様に硬い。「人格汚染や精神崩壊のリスク」を懸念していた倫理委員会の声が、今さらながら重く脳裏に響く。

「全システム、オールグリーン。7.8Hz周波数、安定しています」

オペレーターの報告が室内に響くが、誰もがこれが「神の領域への侵犯」になりかねないという、高揚感と背中合わせの恐怖を抱えていた。スタッフたちの指先は、期待と重圧でかすかに震えていた。


一方、地上では、管理された平穏に倦んでいた市民たちが、未知の体験を前に「ワクワク・ドキドキ」とした高揚感に包まれていた。 都市を埋め尽くす光の花《AinoHana》も、この時ばかりは静止したように淡い燐光を放つのみで、人々は網膜ディスプレイに浮かぶ「接続」のアイコンを、震える指で見つめていた。

調和という名の無菌室で窒息しかけていた自分という「個」の檻を出て、他者の人生という剥き出しの宇宙へ入る扉。

「本当に、誰かの痛みを自分のものとして感じられるのか?」

人々の期待値は飽和点に達していた。それは、幸福指数99.8%という平坦な世界では得られなかった、命の生々しい感触への渇望であった。

「予想を超えているな……」 主任が乾いた声で呟いた直後、数字は一気に跳ね上がった。一万人、十万人、百万人。そして一千万、億、三十億。かつて感情共有空間《Bloom》が普及した時を遥かに上回る速度で、人類は誰かの人生へと雪崩れ込んでいった。


最初に世界を揺らしたのは、二百年前の戦火に消えた十四歳の少年の記録であった。 30億人が一斉に接続し、爆撃を受けた。少年の目を通して、現在の完全管理された人工の空ではない、どこまでも青く不確かなかつての青空を見、頬を撫でる本物の風を感じ、そして――突然の轟音と共に視界が激しく反転して地面が消え、耳を劈く爆音の中で母親を呼ぶ叫び声が絶たれる「絶望」を、自らの神経系で受け取った。胸を圧し潰すような物理的な衝撃、ノルアドレナリンの過剰分泌による急激な動悸。

接続終了後、世界中のネットワークから完全に言葉が消えた。

人類が反応するより先に、脳の余白を使い切るほどの衝撃に言葉を失ったのは、史上初めてのことであった。


続いて、凍える夜に泥水を啜る難民の皮膚感覚、病床の子どもが窓の外を眺めて抱く静かな諦念、そして妻を亡くした老人が近所の子どもの挨拶一つで胸の奥に灯す熱が、無数の人々に共有されていった。 意外なほど人気を博したのは、ある名もなき青年の失恋の記録であった。

「ああ、こんな痛みなら自分も知っている」

「でも、彼はこんなふうに孤独に苦しんでいたのか」 そ

んな声が世界中で漏れ、人々は泣きながら、しかし少しだけ救われたように笑った。他者の痛みを、システムに処理された数値としてではなく、線の震えのような生々しい輪郭として「知る」ことは、図らずも自らの孤独を癒やすことでもあったのだ。

三か月後、世界は一変した。 暴力発生率は過去最低を記録し、あらゆる統計が「人類は次の段階へ進んだ」と示していた。

教育機関や宗教界はこれを奇跡と呼び、アキや親友のユイもまた、その成功を確信していた。


しかし、境界庭園のナツだけは、いつものように土を弄り、黙々と雑草を抜いていた。 都市の喧騒から隔絶されたその場所で、むせ返るような土の匂いに包まれながら、老人は一本、また一本と、迷いのない指先で草を抜くばかりであった。

アキが「世界が変わりました」と報告に訪れても、その毅然とした背中は動かなかった。

「……アキ、お前はその人になれたか?」 ナツの低い問いに、アキは言葉を詰まらせた。

「戦争の少年になれたか。難民になれたか。病気の子どもになれたか」

「……なれませんでした。なれるわけがありません。僕はアキですから」 アキがようやく答えると、ナツは静かに頷き、土で汚れた手を払った。

「そうだ。なれないんだよ、永遠に」

老人の澄んだ目は、都市の上空を漂う美しい《AinoHana》を見つめていた。だが、その声は冷徹なまでの真実を告げていた。

「共感は増えるだろう。だが、人類はこれから初めて知ることになる。他人の痛みを知ることと、他人の痛みを背負うことは違うということをな。 境界バウンダリを失くした共感は、いずれ自分自身を蝕む毒になる」


その夜、オラクルの研究室に戻ったアキの元に、一通の送信者不明のデータが届く。

記録番号 AH-428。

添えられたのは、かつて起源の調律師フユが遺した精神ノイズを受け継ぐような、一輪の左右非対称な、少し後悔を感じるような花の絵であった。

『あなたは誰の人生を生きてもいい。けれど最後は、自分の人生を生きなさい』


窓の外、夜の都市には数えきれないほどの人生が、光の花となって咲き乱れていた。それは祝福のようでもあり、あるいは出口のない迷宮のようでもあった。

人類は、他者の人生を旅する力を手に入れ、そして同時に、自他の境界線がなくなる未知の深淵へ、確実な一歩を踏み出そうとしていたのである。

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