第30話 《LEAP》― 跳躍する勇気
選択の呪縛、《BOUNDARY(境界)》の導入から一年が経過した。
他者の人生に呑み込まれる「共感疲労」は劇的に減少し、人々は再び自分自身の人生へと戻る術を学んだのである。統計上、社会は安定を取り戻したかに見えた。しかし、安定と引き換えに、世界には別の不穏な影が忍び寄っていた。
「決められないんです」
進路相談センターを訪れた二十歳の青年は、困ったように笑いながらそう漏らした。彼が直面していたのは、かつての人類が知らなかった種類の絶望であった。 《Imaginal Field》は進化を遂げ、今や過去の記録だけでなく、未来の可能性とも接続できるようになっていたのである。もし教師になったら。もし旅に出たら。もし結婚しなかったら。人々は自らの未来の断片を、あらかじめ「体験」することが可能となった。
その結果、人々は動けなくなってしまったのである。 どの未来も魅力的であり、同時にどの未来にも相応の痛みや後悔があった。すべてを「知って」しまった人類は、もっと良い未来、もっと正しい選択があるのではないかと疑い、一歩を踏み出す勇気を失っていった。
世界中で決断率、起業率、挑戦率が過去最低を記録し、社会から活気が失われていく。感情共有空間《Bloom》には、願いも意志も持たない、ただ可能性だけが漂う「透明な花」が溢れていた。
フューチャー・モデラー本部では緊急会議が開かれた。
戦争リスクや暴力率は最低値を更新しているにもかかわらず、「社会活力指数」だけが落ち続けている。 「人類史上もっとも自由で、未来まで見える時代なのに、なぜ誰も動かないのか」。研究員たちの困惑をよそに、アキは窓の外に広がる無数の未来の光を見つめていた。
そして彼は、かつてフユが遺した「理解できなくていい」という言葉の真意に立ち返る。フユは「想像し続けろ」と言ったが、「すべてを知れ」とは一度も言っていなかったのである。
アキは再び、境界庭園のナツを訪ねた。
「未来が見えすぎて、誰も選べないんです」 アキの言葉に、ナツは黙って一本の蕾を指差した。まだ開いていない、花。
「これは何色になると思う?」
「分かりません」とアキが答えると、老人は静かに笑った。
「そうだな。分からないから、咲くんだよ」その一言が、アキの脳裏を貫いた。
「もし最初から全部分かっていたら、花の美しさが減少する。人も同じだ」。
ナツは沈みゆく夕陽を見据えながら続けた。「
未来はな、見るためにあるんじゃない。創るためにあるんだ」。
《LEAP》― 跳躍する勇気
アキは悟った。レイも、ミオも、ソラも、ヨウも、そしてフユも。誰一人として未来を知っていた者はいなかった。彼らは正解を持たないまま、迷い、失敗し、後悔しながらも、それでも自らの意志で一歩を選び取った。だからこそ、彼らの人生は歴史となったのである。
研究室に戻ったアキは、新しい設計ファイルを開いた。
ファイル名は 《LEAP(跳躍)》
それは可能性を減らすためのシステムではなく、ましてや未来を予測するための技術でもない。不完全で、未完成で、失敗するかもしれない未来へ向けて、それでも踏み出すための「選ぶ勇気」を育てる仕組みであった。
その時、モニターに一通の通知が届く。
送信者不明のデータ。そこには一輪の、左右非対称で少し歪な花の絵が添付されていた。
記録番号は AH-444。 添えられた言葉は、一行だけであった。
「未来は当てるものではない。未来は咲かせるものだ。」
アキは微笑み、窓の外を見上げた。
湾の夜空に揺れる十万輪の《AinoHana》。それらはどれも未完成であり、だからこそ美しかった。
人類はこれからも迷い、傷つく。しかし、分からない未来へ向けて、咲いたことのない花を咲かせるために、再び歩き始めるのである。




