第七章 家門の重器 【5.怨火の谷】
【5.怨火の谷】(えんかのたに)
衝突から十日。
大国玉と石田の村々には、重い空気が垂れ込めていた。
双方の村では、倒れた若者の名が祈祷の声とともに語られ、そのたびに怨の火が静かに燃え上がった。
石田の館では、源護が山の若者たちを前に立っていた。
「大国玉は、我らの堰を奪い、山の理を乱した。そのうえ、我が郎党まで傷つけた」
源護の声は低く、しかし怒りを押し殺した響きがあった。
「このままでは、山の民の誇りが地に落ちる。今度こそ、山の理を示す時だ」
若者たちは一斉に槍を突き上げた。
「討つべし!」
「大国玉を屈服させよ!」
山の民の怒りは、もはや誰にも止められなかった。その数、五十余名。それぞれ太刀、薙刀、弓を携え、山風を切って谷へと下りていった。
一方、大国玉の館では、真樹が村人たちを前に静かに言った。
「石田が来る。だが、我らは挑発に乗らぬ。守るべきは大地と人の命だ。」
村人たちは鍬や鋤を手に、真樹の言葉に耳を傾けた。
「石田の者どもは、もう理では動かぬ。怨に呑まれておる。」
真樹の声は静かだったが、その奥には揺るぎない決意があった。
「我らは守る。民を、家族を、土地を」
大国玉の男たち四十余名が、谷筋の入口に陣を敷いた。
昼下がり、
谷の向こうから、石田の軍勢の鬨の声が響いた。
「大国玉を討て!」
「山の理を示せ!」
山の民の足音が、地を震わせるように迫ってくる。
真樹は太刀を抜き、村人たちに言った。
「退くな。ここを破られれば田が荒れる」
源扶の軍勢が谷に雪崩れ込んだ。槍が突き出され、鍬が受け止め、山刀が鋤の柄を裂く。
前回の衝突とは比べものにならぬ激しさだった。
谷は狭く、両軍は押し合い、土煙と水しぶきが舞い上がる。
真樹は前線に立ち、次々と槍を打ち払い、村人たちを鼓舞した。
「怯むな!ここは我らの田の入口だ!」
石田の若者が叫ぶ。
「山の理を乱す者は許さぬ!」
大国玉の男が応じる。
「水を奪う者こそ、土地を乱す!」
山と水、二つの理が、刃となってぶつかり合った。
戦いは一刻以上続いた。
やがて、石田の若者の一人が倒れ、その血が谷の水に流れ込んだ。
その瞬間、源扶の軍勢に狂気じみた怒号が走った。
――大国玉の血で贖え!
――大国玉を滅ぼせ!
――…殺せ!…殺せ!
怨が理を呑み込んだ。
真樹は、その変化を見て悟った。
(……もはや、話し合いでは止まらぬ。)
真樹は大声で叫んだ。
「退け!これ以上の流血は無益だ!」
大国玉の軍勢は、真樹の指示で徐々に後退した。
源扶の軍勢は追撃しようとしたが、郎党のひとりが叫んだ。
「扶様!これ以上の深追いは危険にございます!」
石田勢は、倒れた仲間を抱えて退いた。
谷には、血の匂いと、怨の残滓だけが残った。
真樹は、谷の水に流れる血を見つめ、深く息を吐いた。
(……これで、争いは“戦”へ変わった)
――山の理と水の理。
その衝突は、もはや村々の争いではない。
筑波山麓の谷筋で起きた二度の衝突は、大国玉と石田の村々に深い傷を残した。
倒れた若者の名は、どちらの村でも祈祷の声とともに語られ、そのたびに怨の火は静かに燃え上がった。
堰は夜ごとに壊され、田は荒らされ、山の道では牛馬が姿を消した。
村人たちの顔には疲れが刻まれ、幼子の泣き声すら、どこか怯えを帯びていた。
真樹は、谷の水に流れる血を見つめながら思った。
(……この争いは、いつまで続くのか)
大国玉と石田の争いは、もはや境界の問題ではなかった。
山の理と水の理がぶつかり、怨が理を呑み、村々の暮らしを蝕んでゆく。
平真樹は、谷の水に流れた血の色を忘れられなかった。
だが、双方とも退けない。
退けば、土地が奪われ、一族の未来が潰える。
(……このままでは、民が滅びる。)
争いは“止められぬ流れ”となった。
その流れを断ち切るには、もはや当事者ではない、第三の力が必要だった。
己の誇りを曲げてでも、止めねばならぬ争いがある。
その時、真樹の胸に浮かんだ名があった。
――下総の小次郎将門。
――我が娘を託した男。
真樹は馬に跨り、静かに館を後にした。
坂東の風が、いま動き始めようとしていた。




