第五章 愛執の弦 【5.闇底の策】
【5.闇底の策】(やみぞこのさく)
常陸国府の空気が、ふと沈んだ。
春の夕闇が落ちるよりも早く、濃い影が、静かに地を這い寄ってくる――
まるで、底知れぬ闇へ沈みゆく前触れのように。
維幾が奥へ引き籠ってから間もなく、
常陸国府の外門に、黒い塵をまとったような一団が姿を現した。
壬生氏の使者である。
「常陸介殿に申し上げる。壬生成宗、ただいま参上仕った」
肥え太った体を揺らしながら述べる口上は、低く湿り気を帯び、どこか土の匂いを含んでいた。
為憲は成宗の声を聞いた瞬間、わずかに口元を歪めた。
(この常陸壬生の支族……得体が知れぬ)
――為憲は眉をひそめた。
壬生氏は本来、下野国・都賀郡南部を本拠とする在庁官人である。
その支族が、いつの頃からか常陸国・行方郡に根を下ろしたが、その経緯は不詳であった。
下野は良馬の産地として名高い。常陸壬生氏の騎馬兵もまた高い戦闘力を誇り、この上に郡司の職掌を通じて情報網を築き、賊の追討・殲滅を得意とした。
――賊の根城を探り当て、
――夜陰に紛れて侵入し、
――音もなく首領を討ち、
――火を放って痕跡を消す。
表立った武勇が目立つ兵ではなく、“闇の働き”に長けた一族。
ゆえに、常陸国司の隠密として、維幾・為憲の親子に重宝されていた。
しかし、この家の当主・成宗の肥えた腹回りは、とても隠密集団の頭目には見えぬ。実際にこの集団を差配するのは、弟の壬生義宗であった。兄は外交と政略、弟は軍事と暗部――それが常陸壬生氏の生きる“道”である。
正庁の最奥に通された成宗を前に、維幾はゆっくりと姿を現した。
維幾の登場は、国府の空気をさらに重く沈ませた。
その顔には、先ほどの取り乱しの影は微塵もない。
「……国豊は、帝道に従わぬ男よ」
――帝道。
維幾が好んで使う言葉だが、その実態を知る者はいない。
為憲が静かに言った。
「父上の言う“帝道”とは、罪を覆い隠し、一門を守るための道にございますな」
維幾は否定せず、むしろ薄く笑った。
「そうよ。我にとって帝道とは、“帝のため”と称して己の利を通す道よ。」
その笑みは、自嘲とも開き直りともつかぬ、独裁者の真実を露わにしていた。
「さて、郡司殿――いや、壬生氏よ。本日そなたを呼んだのは他でもない。」
維幾は扇を閉じ、静かに言い放った。
「――常陸大掾、信太浮島の領主・藤原国豊を、殺せ。」
成宗は深く頭を垂れた。
だが維幾は続けた。
「国豊のほかにも、もう一人、其方に葬ってもらいたい男がいる」
成宗ははっとして顔を上げた。
「――藤原玄明」
維幾の声は低く沈んだ。
玄明は自領の収穫物を押領し、国府に租税を納めぬばかりか、在地の国衆、負名らと結託して租税の徴収を妨げ、国府の荷を襲い、朝廷に納める米穀や絹布を略奪している。
太政官符の追討命令を受けて追っているが――
「奴の与党が裏で動き、捕らえることも、殺すことにも難儀している。」
維幾は成宗を見据えた。
「成宗よ、国豊と玄明を亡き者にせよ。
――国府の兵も存分に使え。」
成宗は驚きつつも、頭の中で己の策略を素早く組み直した。
(ほう……臆病で吝嗇な維幾が、己の手勢をこの我に貸すとは・・・)
維幾は続けた。
「国豊は義を掲げ、民に寄り添うなどと恥ずかしげもなく言う。
そのような輩が増えれば、我らは皆、いずれは淘汰されよう。」
その声には、恐れと焦りが混じっていた。
「だから――殺すのだ」
その声には、恐れが滲んでいた。
壬生成宗は、深く、深く頭を垂れた。
――その頃、
信太浮島では、まったく別の空気が流れていた。
国豊は、新妻、五月とともに、庭に咲き始めた花を眺めていた。
「民の声を聞き、国を治める。それが、我らの務めであろう。」
五月は、柔らかく微笑んだ。
「この坂東に、あなたのような方が増えれば……きっと、民は喜びます。」
国豊は照れたように笑った。
「……そうなればよいが」
その笑顔は清らかで、まっすぐで、人を惹きつける光を帯びていた。
その光は、国府で渦巻く“闇”とは、あまりに対照的であった。




