第五章 愛執の弦 【4.黒き岐路】
【4.黒き岐路】(くろきちまた)
「……なんだと。大掾が勝手に嫁を迎えた、だと?」
報せを聞いた瞬間、常陸介・藤原維幾の手から扇が滑り落ちた。
その顔に浮かんだのは怒りというより、むしろ狼狽の色であった。
「それでは我が“帝道”は、端から成り立たぬではないか……!」
維幾の声は震え、言葉は自らの喉に絡みつくようであった。
自らが描いた姻戚という名の懐柔策は、脆くも崩れ去ったのである。
沈黙を破ったのは、為憲だった。
「では、“王道”を歩むほかありますまい……。」
その声音は静かで、冷たかった。
「知略を尽くし、密かに葬るのです。
――前の大掾と同じように、……朝廷には病死として届け出れば良い。」
維幾の目が大きく見開かれた。
「な、なんだと? ……いま汝は何と言った?
――前の大掾は……病死と……」
為憲は、まるで “何を今さら” と言わんばかりに、僅かに眉を動かした。
「あの者は・・・官物横領を、勘解由使に讒言すると仄めかしたのです。
――だから、誅殺した。」
言い終えると、為憲は父に向き直り、“どうだ”と言わんばかりの薄い笑みを浮かべた。
「私が前の大掾を始末したお陰で、常陸国は安寧を得られたのですぞ。」
維幾は、息を呑んだ。
怒りよりも、驚愕よりも、胸の奥に冷たいものが広がった。
――いつの間に、この子は、これほどの闇を宿すようになったのか。
その思いが、維幾の肩を重く沈ませた。
「……よい。汝に任せよう。我が後を継ぎ、一門を託す先は汝しかおらぬ。」
その声には、父としての情よりも、“諦念”が滲んでいた。
「……我は休む。あとのことは壬生氏と相談せよ。
そう言い捨てると、維幾は奥へと引きこもってしまった。
維幾が奥へと姿を消すと、急に冷えたような静けさが落ちた。
為憲は、父の去った方角を一瞥しただけで、何事もなかったかのように扇を畳んだ。
その横顔には、怒りも焦りもなく、ただ底知れぬ闇だけが沈んでいる。
為憲は、静かに、しかし底冷えする声で呟いた。
「国豊は、殺す。なんとしても、だ……」
その目には、嫉妬と恐れと、そして“自分より優れた者を許さぬ”歪んだ執念が宿っていた。
「奴は、人の心を掴むのがうまい。このままでは、誰も我らには追従てこなくなる。国府の秩序を脅かす者を我は許さぬ、如何なる手段を用いても“利”を取ればよい。」
為憲は、ふと笑った。
「前の大掾も死ぬ間際に、我に命乞いをしたわ。それが人というものだ。」
その笑みは、人の情を欠いた“冷たい闇”そのものだった。




