46.ピアノ
「ここだ」
遥は何度も住所の書かれた紙とビルの住所を確認した。
そのビルは繁華街を少し逸れたところにあった。
透明な押し扉を抜け、階段で三階まで上がると、ふわっと湿ったアンプの匂いが鼻をかすめた。
この三階丸ごとが、スタジオと練習教室を兼ねているらしく、ずらっと教室が並んでいる。
遥は電話で聞いた部屋番号が書いてある扉の前に立った。
扉には小さな窓がついており、そこからそっと中を覗く。
黒いアップライトピアノが一台。そしてなぜか、その横に黒いストラトが立てかけられている。思わずギターケースのストラップを強く握った。
胸の奥が少しほどける。
(あれ、なんでギター?)
遥は扉をノックした。
扉が開き、中から三十代後半ぐらいの男性が出迎えてくれた。
グレーのTシャツに少し色あせた黒いカーディガンを羽織り、髪は無造作に結ばれていた。
「二十時からの体験希望の子だよね? ん~」
男性の視線が、遥の背中に背負うギターに注がれる。
「はい! ピアノの体験希望の国東遥です」
「そうそう国東さんだ。僕は本多です。ピアノと作曲について教えてる。よろしく」
本多は遥を教室の中に促した。
「その背中に背負ってるのって……」
「はい! ギターです。この後、スタジオ練習があるんです」
本多は驚いた顔をしたがすぐに、にやっと笑った。
「おお、体験からのスタジオって熱心だね。青春って感じでいいねぇー」
本多は腕組みをしながらしみじみと頷いた。
「ギターは、そこに置いてもらって、ピアノの前のこっちの椅子に座って」
遥はギターケースを壁に立てかけると、椅子にちょこんと腰かけた。
高校の音楽の授業以来、久しぶりに見る本格的なピアノを前に、遥の背筋は真っ直ぐに伸びた。
膝の上に置かれたグーに握った拳に、自然と力が入る。
「ピアノは全くの初めて?」
本多も隣の椅子に腰を下ろしながら遥に尋ねた。
「はい。触ったことすらないです!」
背筋を伸ばしたまま遥は答えた。
本多は頷きながら、視線を遥から遥の持ってきたギターに移した。
「ギターはどのぐらいやってるの?」
「一年と少しです」
「そう。一年か~。ギターもまだ初めて間もないんだね」
本多は腕組みをしながら自分の顎を触っている。
そしてアップライトの蓋をゆっくりと開けた。
(これがピアノ……)
「今日はさ、いきなり両手で弾けとは言わないから安心して。まずは、なんでピアノやろうと思ったのか、教えてもらってもいい?」
鼓動と共に肩が揺れた。
「えっと……」
その質問の答えは、ここに来る前から何度も自分の中で並べた言葉だったけど、喉に引っかかってうまく形にならない。
「……同じバンドに、もう一人ギターがいて」
「うん」
ただそれだけなのに、急かす感じはしなかった。
「その人が遺してくれた曲があって、私、どうしても曲にしたくて」
遥は、思わずピアノ近くに並べられたストラトをじっと眺めた。
喉の奥が熱くなる。その曲のことを声にすると、あの頃のスタジオの空気や匂い、ユキの息遣いまで、一緒に浮かんでくる。
「でもギターじゃできなくて、私に力がないだけなんですけど……でもピアノならもしかしてって……そう思ったんです」
声が上ずる。
「ちゃんと、バンドの曲にしたくて。彼の想いをうちの曲として、届けたいんです」
言い終わると、遥は指先が冷えていることに気が付いた。
本多は少しだけ目を細めて、ゆっくりと息を吐いた。
「そっか」
本多は立ち上がると、ストラトを手に取って一音鳴らした。
アンプに繋がっていない弦の音が、木の箱の中で小さく震えた。
「俺もね、昔はバンドでこれ弾いてた」
懐かしむような眼差しをストラトに落とす。
遥は、本多の持つストラトを見て、使い込まれたボディと傷が、本多の長い間の相棒なんだと思った。
「ギターで作った曲って、ピアノに移すと、骨組みがよく見えるんだよ。どこが強くて、どこが抜けていて、どこにその人っぽさがあるか」
話しながら本多はストラトを元の場所に戻すと、再び椅子に座った。
そして、右手だけで、簡単なコードをいくつか並べてみせる。
C、Am、F、G。
「ピアノはね、中のハンマーが弦を叩くんだ」
「ハンマー?」
「そう。だからギターと同じコードでも、だいぶ違って聞こえるでしょ?」
「なんか広がり方が……違うような」
「ここではクラシックやる。けど、それ以上に」
本多は鍵盤から視線を上げ、遥をまっすぐ見た。
「その人の曲を“見えるように”する手伝いをしたい。和音とか、進行とか。ちゃんと理解して、最後までいけるように」
その言葉を聞いて、遥の目頭が熱くなった。あまりにも自分の願いに近すぎて。必死に冷静さを保つために、息を整える。
「よろしくお願いします! 頑張ります!」
頭を深々と下げる。
「……あの、でもピアノ、アパート的にも金銭的にも家に置くのが難しいんですけど」
恥ずかしそうな遥に、本多から代わりに出てきたのは、現実的な一言だった。
「そうだよね。わかるよ。家ではキーボードでいいよ。でも八八鍵あるやつ」
「キーボード……」
遥の目が丸くなる。
「教室ではピアノで、指と耳を鍛える。スタジオ、家ではキーボードで練習、そして曲を形にしていく。教室、家、スタジオ、三つの場所で同じ曲を、違う角度でみていこう」
遥は、その三つの場所を胸の中でなぞる。
アパートの狭い部屋。
このピアノ教室。
そして、ユキのいないスタジオ。
どこで弾いても、あの曲を見ていけたら、いつか、本当に「MONDEの曲」になるかもしれない。
「じゃあ今日は、まず“C”っていう場所から、覚えようか。ギターで言うと、開放のポジションみたいなもの」
本多が遥の手をそっと鍵盤の上に導いた。
白い鍵盤の一つに指を置く。
木と金属とフェルトの固さが、遥の指の腹に伝わってきた。
ド、ミ、ソ。
一つずつ順番に音を出す。
最後に三つ同時に押すとCコードが狭い教室にじんわりと広がっていった。




