6-14 森の入口の泉
ぐる。ぐるるるっ!
『うおー。腹減った!』
その盛大な腹の虫の音と共に、ゴトラン氏が唸るようにして叫ぶ。
あ。そうなんだ。もう昼近くだもんね。
こちらは、腹が減るということはない。
これが便利なのかどうかは微妙なところ。ただ単に空腹感がないだけなんだよ。食べなければ普通に体力を消耗する一方となる。
腹が減ってないからと食べることを忘れると危険。仕舞いにはエネルギー切れとなって倒れる。命を落とす危険さえある。これはとても深刻な話だ。
この身体は大事な機能が欠損していると思うよ。ほんとに野生を失っているだけなのだろうか。
ん。
「そうかノーマ。準備ができたか」
あ。ジュライさんの声。
「それでは、行くぞ」
彼女のこの良く通る声を合図に、皆と一緒にぞろぞろと馬車に乗り込む。
ノーマ氏。彼が今回の野外訓練用の馬車を操る御者。
彼もフェリスアン属種。
だけど、ゴトラン氏たちのような猛獣である大型猫科を彷彿する、ぶっとい手足がある強靭な体躯とは異なる。
彼は、凛々しいシャムネコのような頭をしている。そう。家猫のような親しみのある頭。むしろこちらの方が、元の世界の物語に多いかもしれない。
彼の体躯は、すらりとして、とても華奢な感じがする。その手指は猫のそれと似ていて、とても丸っこく見える。
それでも何故か、二頭の魔獣馬のとても太い手綱をしっかりと握っている。
対するこの魔獣馬は一般に、同じ魔動物でありその捕食者でもある純粋な肉食魔動物、食肉目の森林魔猫科であるフェリスアン属種に、とてもじゃないけど懐くことはない。
それに御者は、魔獣馬の調教をしている人間の方がよく懐いているので、より好ましい。だけど、この草原は、魔鉱石の鉱床に近いので環境魔素濃度が特に高い。普通の人間にとって気分が悪くなる場所なので好ましいところではない。
それで、ニサンの町から南に出る街道を往来する魔獣馬の馬車を操る、人間の御者の成り手はとても少ない。あの向こう傷のピケルのような人間の御者は、引く手数多の貴重な人材なのだとか。
今回御者をしているノーマ氏は、フェリスアン属種のジュライさんの従魔。彼は従魔候補だった時から、何故か魔獣馬たちに懐かれる特異体質なのだとか。
それで特別な訓練をして、今では、あの飄々とした感じの馬丁のところで魔獣馬の調教と世話をしているそうな。
ガタ。
ん。出発をするようだ。
まだ馬車が動き出し始めたばかりだというのに、イエン先輩の青色の顔がさらに血の気が失せて青白くなってきた。これは気分の問題なのかもしれないね。
馬車が走る。
でもここは道なき道の草原。車両がガタゴトといって、少し揺れ方が強い感じ。
うん。イエン先輩は突っ伏してダウンした。今はまだ空腹だから良かったかも。エンタ先輩が心配をして介抱している。武勇伝はもう言い尽くしたしね。
それでも窓から入る風が心地良い。そして、その馬車の車輪で潰されていく草の青臭い香りが窓越しに立ち込めて来る。
その泉へと行くには少し距離があるとのこと。進行方向に日の光が差している。今は昼に近い。なので、さらに南へと移動をしているのだろう。
この草原で地表を伝って川となって流れる場所は見当たらないとのこと。この辺りは石灰質のカルスト台地のようなところ。雨が降っても、すぐに大地へとしみ込んでいく、そしてその水は地下へと流れる。
この草原は、場所により、ぽっかりと穴が開いて透明で綺麗な水をたたえた洞窟があるとか。これから行く泉もそういった場所のひとつ。
そういえば、さっき手を洗った魔真水の実。あれは地面が湿っている時にその水を貯えているのかな。
だけどあのパイナップルのように膨らんだその場所は、果実ではないとのこと。あの水を蓄えている場所は、茎の一部が膨らんだものだとか。
あの実は集合花の実。苺とかと同じく、あの表面にある、つぶつぶが種となる。魔動物の種類によっては、あの表面の硬い果実が好きなのがいるとのこと。
たぶんそれは、それなりに大きい魔動物。その果実と中にある水を対価に自らの種を拡散させているのかな。これなら、この草原でそれなりによく見つかるというのも納得ができる。
そうこうとしている内に、馬車が停まる。距離にしてもそんなに遠いところでもないから、実質的にもそんなに時間が経っている訳でもない。
馬車を降りる。
ここは森の入り口付近。この場所は先程の草原爽やかさとは違う、水の湿った匂いがする。
それでも嫌な臭いではない。よくあるハイキングとかで山とかに行くと薫って来る森林の香りと腐葉土の香りというか。微かに甘く感じる木の葉と苔の香りだよ。
また、魔獣馬の馬装を解除してその近くの場所に繋いでいる。魔獣馬は大人しく近くに生えている豆の葉に似た魔馬草を旨そうに食んでいた。
そして、そのすぐ目の前には、それなりに大きい泉がある。
それは大きな岩を穿ったようなところにあり、とても綺麗な水が湛えられていた。だけどこの泉の水の深さは判らない。この泉の透明度は高い。それでも、その底が判らないんだよ。それがとても深いということだけが判る。
「ここで昼食な。火を起こすぞ。準備をしてくれ」
ジュライさんが言う。
こちらも、ゴトラン氏たちに教わりながら、その準備を行った。
これは、ちょっとしたキャンプ気分だね。この作業は大変だけど結構楽しい。
『ラケルタ。お前は持久力があって元気だな。俺はもう腹減ってだな』
かかかと笑って、ゴトラン氏は言う。
うん。なんでか知らないけど、ゴトラン氏がこちらの専属の担当みたいなことになっている。見れば、従魔候補の先輩たちにもそれぞれにフェリスアン属種の正式な従魔たちが付いているみたい。
そうして、昼飯の準備が整って来たころ。
「次は、沐浴といきたいところだが」
え?
「今回は略式とする。泉の水で顔と手を洗うと良い」
ん?
「ラケルタ。どうした? そうか、初めてか。何。この泉で全身を洗うと幸運があるというのがあってな。時間があれば、そうしようと思ったのだが、ちとかかり過ぎたのでな。まずは顔を洗え。それだけでも、幸運が訪れるといわれておる」
ジュライさんが、にこやかに微笑みながら、こちらに向かって優しく言った。
真昼の日光に当たって、きらりと白く光る星が入ったルビーのようなイアリング。それは彼女の白い肌と形の整った目にある赤銅色の虹彩とよく似あう。
それで、その泉の水の中に手を入れる。
「キュグルルルル!」うあ。冷たい。
思わず、声が出た。
それほどまでに、この泉の水はとても冷たかった。
うーん。何となく、これで良かったような、残念だったような。
むう。
昼飯の話は次話へ繰り越しとなりました。




