6-10 ジュライさんと走魔牛
こちらの目の前で、飛びかからんとする黒い巨躯の走魔牛。
そいつの左の目頭は、魔独楽石の高速回転をする軸に穿かれて、赤い鮮血が勢いよく噴出している。
これはチャンスだ。
そう思って、そいつの遮られた視界を利用して逃げようとした、その時。
暗い影が、こちらに覆い被さった。
それが何かと、思うよりも先。
音もなく鋭い爪が伸びて来た。それに続く毛だらけの太い腕が、こちらの首元をガシリと囲む。そして、その腕は物凄い力で後ろの方へとぐいと引き込みに来る。
これは余りにも突然なこと。こちらにはこれに抵抗をする間もない。そのまま、するりとその奥へと音もなく引き込まれた。
この奥は、魔鳩麦のイネ科の植物のような細くて長い葉がさらに密集していて、暗い藪のようになっていた。
その暗がりで、金色に鋭く輝く丸くて大きな両の眼。
仰向けとなった、こちらの目と視線が合う。
鋭く輝く、射るような双眸。
何故なのかは、解らない。
だけど、この事象に心の奥底からの警告とも取れる、戦慄が走った。
これには、思わず声を上げそうになった。だけど今度は、もう一方の毛だらけの腕と手が伸びて来てこちらの口を塞ぐ。
その毛深く黄色い腕は、毛並みが良くて独特な斑点模様が点在している。
そう。よく見れば、猫科頭の森林魔猫科、フェリスアン属種のゴトラン氏。助けに来てくれた彼の、豹のような太くてしなやかな腕と、その眼だった。
そう思って、ほっとした時。
ベキベキベキ、ズシン!
ゴトラン氏の腕は未だにこちらの首元を囲っている。それでも、少し緩んだその腕の中で、轟音に誘われるように目を向けた。すると先程までこちらがいた場所に左目を瞑った走魔牛の巨躯が入り込んでいた。
さらにそいつの下を見ると、魔鳩麦が押し並べて押し魔鳩麦といわんばかりに、ペチャンコとなっている。
だけどこれは、コメディではないんだよ。
ぞっとはするけど、ぞっとしない。
そして、どのようにしてあの上に登れたのか。あいつの瘤のように盛り上がっている背中に、ジュライさんが、どっかりと跨っていた。
目の痛みとその背の重みの変化に、やつは違和感を感じたのだろう。その左目の負傷で一時的な隻眼となった黒い生き物は、狂えるほど盛大に、両の後肢を空高く跳ね上げ続けた。
そしてそいつは、ジュライさんが乗る、自身の盛り上がった瘤のような背中を、波打つように大きく揺さぶっている。
そう。それは宛らロデオ。そうこれは、野生の荒れ狂う牡牛のようなものの上に乗っているのだからロデオのブル・ライディングそのもの。だけどこの走魔牛は、とてつもなくでかい魔動物。
この生き物の背に騎乗をしている、ジュライさんの華奢な足は長い。そうはいっても、そいつの脇腹までには、到底届いていない。
それでは、どうして彼女は乗れているのか。
どうやら彼女は、やつの瘤のような背中にある窪みを利用して大腿部と脹脛を、みっちりと挟み込んでいるようだ。
「そや。や! ほれ」
暴れる走魔牛の背中の上。ジュライさんは威勢の良い掛け声と共にバランスを取っている。
それはもう、見惚るほどの絶妙なタイミング。勇敢な女性版カウボーイ。
どれくらいの時が経ったのだろう。それともこれは、数秒のことかもしれない。
未だに暴れる走魔牛。そしてその背に、ジュライさんが乗っている。どちらも、疲れの色など見せてはいない。
これでは埒が明かないと判断したのだろうか。それとも、最初から?
彼女は、走魔牛の背の上で立ち上がる。そして腰に差していた幅広の剣を鞘からスルリと抜き出した。
ジュライさんの短めの赤い髪とバンダナのようなものが、暴れる走魔牛の激しい動きの風を受けてたなびく。耳たぶにある、ルビーのような深紅のイヤリングが、日の光を受けてキラリと8条の細い光の線が輝き揺れた。
これは、とても絵になる美しい図。ほんと。見惚れてしまいそう。
彼女は重厚な戦士といっても、魔術師としては、という但し書きが付くかもね。実際には、鎖帷子のようなものの上に、動きを殺さない部分鎧を付けた恰好をしている。
そして兜を被っていない。兜は彼女の流儀に反するとのこと。これでは、まるで大昔のヨーロッパのどっかの部族のようだよ。
えと。どこの流儀だったかな……北欧? 忘れた。
それはそうと、あんな不安定な場所で立ち上がり、それも長くて重そうな幅広の剣を振りかぶる。
こちらの世界だったら、腕の立つ曲芸師だって、相当困難なことだろう。もしかすると、不可能なことなのかもしれない。
ズゴン! パリン。
鈍い打撲音。
そして、何かガラスのようなものが割れる音?
彼女はそれを難なくやり遂げた。暴れ狂う走魔牛。その後頭部の付け根にある首の窪み。彼女が手に持つ幅広の剣で、その場所を強打した。その刹那、そいつの動きが一瞬止まる。
それを確認するや否や、彼女はやつから、ひらりと飛び降りる。
そして、天地逆さまにもんどり打って倒れる走魔牛を避けて走っていった。
流石にその剣では首を切り伏せられなかったのだろう。あるいは切り落とすのは危険と感じて、わざとしなかったのか。
その走魔牛は、まともな方の右目を見開いて泡を吹き、足掻くように四肢を宙にばたつかせていた。
打撲音と共に、何かが割れたような音がした。あれは何だったのだろう?
「……苦しませたか。安らかに眠れ」
ジュライさんはそう言うと、彼女の得物である幅広の剣で、走魔牛の首筋にある頸動脈と思われる場所をなぞるようにして縦に切る。すると心臓の鼓動によるものなのか、リズムを打って、そこから吹き出るようにして迸って来る鮮血。
それと共に、生暖かくてむせ返るような独特な甘い香りがここまで漂って来る。
彼女はすぐさま、腰に付けていた革袋のようなものを取り出して、その走魔牛の血液を受けていた。
そこに手伝いのフェリスアン属種の従魔たちが、走ってきた。
それと共に、4体の従魔候補の先輩たちも、こちらの方に走って寄って来る。
『おー。今日の昼飯は馳走だな。走魔牛の血と肉は、それはもう堪らんほどに旨いものだぞ。俺もめったに食ったことがないけどな』
こちらの近くにいるゴトラン氏は、先方にある走魔牛の凄惨な亡骸を見て、猫のようにゴロゴロと喉を鳴らす。
え? こんなのを見て、そう思うの?
こちらは……ちょっときついんだけど。




