第9話:瓦解するエリートと、無能の生存戦略
月曜・午後2時30分:崩壊するプライド
「……というわけで、システムの不具合により、本日のプレゼンはこれにて中止とさせていただきます! 皆様、大変申し訳ございませんでした!」
大会議室に、進行役の司会の悲痛な声が響き渡る。
壇上にいた桐島は、もはや自分の足で立つことすらままならず、駆けつけた人事部と監査部の社員に両脇を抱えられながら、逃げるように役員会議室へと連行されていった。
役員たちは顔を真っ赤にして怒り狂い、中継を見ていた若手社員たちは「今の、裏金?」「やばすぎでしょ」とヒソヒソと囁き合っている。
まさに、会社全体を巻き込んだ特大のエンターテインメントだった。
私は、オペレーター席で一人、パニックで震える小鹿のような顔を作って座っていた。
「さ、佐々木さん……大丈夫!? 君のせいじゃないからね!」
阿鼻叫喚の騒ぎの中、佐藤課長が青ざめた顔で私に駆け寄ってきた。
「課長ぉ……! 私、言われた通りにエンターキーを押しただけなのに……システムが急にハッキングされて……!」
「わかってる、わかってるよ! あんなの、桐島くんの作ったシステムがポンコツだったって証拠じゃないか! まったく、本社から来たエリートが聞いて呆れるよ!」
佐藤課長は、自分が今まで桐島に揉み手をして媚びへつらっていたことなど完全に忘れ、手のひらを返したように彼を非難した。
――本当に、風見鶏みたいな男ね。でも、残念ながらあなたもその風からは逃げられないわよ。
「そうですね……。でも課長、先ほどスクリーンに大写しになっていた不正な発注稟議書……あれ、一番下に課長の承認印がドカンと押してありましたけど、大丈夫ですか?」
私が涙声のまま首を傾げると、佐藤課長の顔から一瞬にしてすべての表情が抜け落ちた。
「えっ……?」
「あんな真っ黒な契約書にハンコを押すなんて、さすが課長、豪快ですね! もしかして、課長も桐島係長から何かしらの『キックバック』を受け取っていたんですか?」
「ち、違う! 俺は何も知らない!! あいつが『本社主導の急ぎの案件だから、とりあえずハンコだけくれ』って言うから……!」
「まあ! 中身も読まずに会社の印鑑を押したんですか? それは……監査部がなんて言うでしょうか」
佐藤課長の足が、ガクガクと震え始めた。
その時、会議室のドアが勢いよく開き、鬼の形相をした監査部長が姿を現した。
「佐藤課長! お前もすぐに関係者として別室に来い!!」
「ひいっ!! わ、私は無実ですぅぅぅ!!」
情けない悲鳴を上げながら連行されていく佐藤課長の後ろ姿を見送り、私はゆっくりと立ち上がった。
誰もいなくなった大会議室。プロジェクターの電源を落としながら、私の顔からは「怯えた事務員」の仮面が剥がれ落ち、冷酷で、そして最高に晴れやかな笑みが浮かんでいた。
水曜・午後3時:平穏なる無能たちの楽園
嵐のような月曜日から二日が経過した。
営業部のフロアは、良くも悪くも「元の状態」に戻っていた。
桐島俊は、あの日以来一度も出社していない。
噂によると、役員と監査部の徹底的な追及に対し、最初は「何かの陰謀だ!」と叫んでいたらしい。しかし、ゲンさんが用意してくれた決定的な銀行の振込明細と、裏口座のデータ(私がこっそり監査部の匿名ポストに投函しておいた)を突きつけられ、ついに泣き崩れてすべてを自白したという。
グローバル・シナジー・ソリューションズ社との契約は即日破棄され、警察の捜査の手が伸びているらしい。桐島の懲戒解雇は免れず、彼が本社に返り咲く夢は、文字通り電子の海の藻屑と消えた。
「佐々木さぁん……これ、確認してもらっていいですか……?」
気弱な声で私に書類を差し出してきたのは、すっかり肩を落とした中年の男――佐藤さんだ。
彼は、不正の事実こそなかったものの、「管理責任」と「職務怠慢」を重く問われ、課長からヒラ社員へと降格処分になっていた。
「はい、佐藤さん。拝見しますね」
私は、極上の笑顔で書類を受け取った。
「あ、あの……佐々木さん」
「なんでしょう?」
「その……俺、本当に首の皮一枚でクビを免れたんだ。これからは、心を入れ替えて真面目に働くから……また、色々教えてくれないか?」
かつては「いい感じにやっといて」と仕事を丸投げしていた上司が、今は私のご機嫌を窺うように下から目線で接してくる。
窓際に追いやることもできたが、完全にクビにして新しい有能な上司が来るよりも、弱みを握りきった「コントロール可能な無能」を飼い慣らしておく方が、私の仕事は圧倒的に楽になる。
「ええ、もちろんですよ。佐藤さん。これから一緒に、一から業務の『正しい』やり方を覚えていきましょうね」
私は、彼の目を見て優しく微笑んだ。
佐藤さんは「あ、ありがとう……!」と涙ぐみながら自分の席へと戻っていった。
フロアを見渡せば、相変わらずサボり魔の田中がスマホでパチンコ情報を眺め、美香がこっそり自撮りをしている。
決して有能な集団ではない。しかし、私の完璧なライフスタイルを脅かすことのない、安全で心地よい「無能たちの楽園」が、そこには戻ってきていた。
金曜・午後7時:聖域と、最高の白ホッピー
そして迎えた金曜日の夜。
オフィスビルを出た私は、スキップでもしそうなほど軽い足取りで新橋へと向かった。
ガラリと、聞き慣れた引き戸の音。
油と煙の匂いが、優しく私を包み込む。
「大将! いつもの!」
「おう、奈緒ちゃん! いらっしゃい!」
大将の顔は、先週の暗い表情が嘘のように明るく輝いていた。
「大将、なんだか嬉しそうね。例の話、どうなったの?」
私がカウンターに座ると、大将は満面の笑みで答えた。
「それがよお、信じられねえ話なんだが。あの買収を仕掛けてきてたIT企業、なんでもデカい不正がバレて、社長が警察に引っ張られたらしいんだ! おかげで地上げの話も立ち退きも、全部白紙に戻ったんだよ!」
「へえ! それはすごい偶然ね! 大将の普段の行いが良いから、神様が助けてくれたんじゃない?」
私は、心の底からの「無邪気な笑顔」を作って拍手をした。
「おうよ! ここはまだまだ、俺の城だからな! 今日は俺の奢りだ、たっぷり飲んでってくれ!」
ドン、とカウンターに置かれたのは、いつもの白ホッピーセットと、山盛りのモツ煮込み。
隣の席では、ゲンさんが競馬新聞から顔を上げ、ニヤリと笑っていた。
「おう、ねーちゃん。見事な手際だったじゃねえか」
「ふふっ。ゲンさんの『最高の情報』のおかげですよ。おかげさまで、私の聖域は無事に守られました」
私は、ジョッキを持ち上げた。
「ただの事務員のOLを怒らせると、エリートのキャリアなんて一瞬で吹き飛ぶ。それを少しだけ『見える化』してあげただけです」
「くくっ、違いねえ。ねーちゃんを敵に回したあの坊ちゃんが、運が悪かっただけさ」
ゲンさんも自分のジョッキを持ち上げた。
赤提灯の暖かな光の中で、二つのジョッキが小気味よい音を立ててぶつかり合う。
「乾杯!」
冷えた白ホッピーを喉の奥へと流し込む。
強烈なアルコールと炭酸が、一週間の――いや、桐島と戦ったこの数週間のすべての澱を、完璧に洗い流していく。
――ぷはぁっ! 過去最高に美味い!!
オフィスの人間関係は相変わらず面倒だし、理不尽なことはこれからもきっと起こるだろう。
でも、私にはこの「微笑みの仮面」と、客観的な「エビデンス」という武器がある。
そして何より、一週間の戦いを癒やしてくれる、この至高の「聖域」があるのだ。
「大将! 中、おかわり! グラスすれすれまでね!」
私は、この世界で一番美しく、そして冷酷でエレガントなOLとして、来週もまた、あの地獄のようなオフィスで微笑み続けるのだ。




