第10話:地獄の底のエリートと微笑みの悪魔
「オイ! 新入り! 手ぇ止まってんぞ! さっさとその資材、上の階に運べ!」
真夏の太陽が容赦なく照りつける建設現場。
頭上から降り注ぐ現場監督の怒声に、私はビクッと肩を揺らし、泥だらけの軍手で汗を拭った。
「は、はい! すみません、今すぐ!」
重さ二十キロはあろうかというセメント袋を担ぎ上げると、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
かつては特注のスリーピーススーツに身を包み、エアコンの効いたオフィスの個室ブースで、ノートパソコンのキーボードを優雅に叩いていた私の手は、今やマメと擦り傷だらけだ。
桐島俊、三十二歳。
本社経営企画室のエース候補と呼ばれ、港区のタワーマンションから東京の街を見下ろしていた私は今、その街の底辺で、這いつくばるようにして日銭を稼いでいる。
「……くそっ。どうして、こんなことに……」
セメントの粉塵でザラつく息を吐き出しながら、私はギリッと奥歯を噛み締めた。
あの日。すべてを失った、あの「全社プレゼン会議」の日の記憶が、またしてもフラッシュバックしてくる。
グローバル・シナジー・ソリューションズ社との裏取引。バックマージン。地上げの片棒。
確かに、私は法と倫理の境界線を越えていた。だが、あんなものはエリートの世界では「よくあるビジネスの潤滑油」に過ぎない。バレなければどうということはない、完璧なスキームを組んでいたはずだった。
それなのに。
私が最も輝くはずだった全社プレゼンの大舞台で、背後のスクリーンに映し出されたのは、私の裏口座への振込明細と、真っ黒な相関図だった。
言い逃れのしようがない、客観的で完璧な「エビデンス」。
監査部の追及、警察の捜査、そして会社の即日懲戒解雇。
私腹を肥やしていたことが親会社にも知れ渡り、私の輝かしいキャリアは完全に絶たれた。違約金と損害賠償で口座は凍結され、タワーマンションも、見栄えの良い婚約者も、すべてが一瞬にして私の前から消え去った。
連日の取り調べに対し、私はただうなだれて罪を認めるしかなかった。
「外部からのハッキングだ」と最後まで主張し続けることもできたはずだ。だが、私はあのプレゼンの当日の時点で、すでに完全に心が折れていた。
自分が誰にハメられたのか、あの地獄のような会議室で完璧に理解してしまっていたからだ。
あの会議の最中、パニックに陥った私がオペレーター席に駆け寄った時のことだ。
あの女――営業部の事務員だった佐々木奈緒は、怯えたような涙目を作ってこう言ったのだ。
『私が? とんでもない。私は係長のご指示通りに、エンターキーを押しただけですよ』
『もしかして……このシステム自体が、係長の不正なお金の流れを自動的に見える化する、素晴らしい機能を持っていたんじゃないですか?』
マイクを通さない、地声での囁き。
あの時の、彼女の底冷えのするような冷酷な声と、完璧な微笑み。
思い出すだけで、炎天下にいるはずの私の背筋に、氷のような悪寒が走る。
――間違いない。俺をハメたのは、あの女だ。
私が「アナログで非効率だ」と見下していた事務員。 彼女が一体どうやってあんな真っ黒な裏帳簿のデータを入手し、私が絶賛したシステムの堅牢なはずのセキュリティをいとも容易くすり抜けて時限爆弾をセットしたのか、その手段は今でも全く分からない。 だが、一つだけ確かなことがある。彼女は、私が押し付けた理不尽なシステム移行作業を笑顔で「承知いたしました」と引き受けながら、私の破滅の舞台を完璧に作り上げていたのだ。
あの場で「こいつが犯人だ!」と彼女を名指しで告発することは可能だった。
だが、そんなことをしても何の意味もなかった。私には、彼女を犯人だと証明する方法も、証拠も一つもなかった。
それに、仮に彼女の仕業だと証明できたとしても、「自分が主導したシステムが、ただの事務員に簡単に乗っ取られるガラクタだった」と全役員の前で露呈するだけだ。そして何より、私の不正が事実であることには変わりがない。彼女を告発するメリットなど、どこにもなかったのだ。
私には、絶望の中で沈黙し、すべてを受け入れる以外の道が残されていなかった。
彼女は、自分が手を汚したという証拠を一切残さなかった。ただ、私が用意した舞台を利用して、私を自滅させたのだ。
「オイ! 桐島! 早くしろって言ってんだろ!」
「っ! はい! 申し訳ありません!」
再び飛んできた怒声に、私は慌ててセメント袋を運び始めた。
もし、この世界にタイムマシンがあるのなら。
私は過去の自分を全力で殴り飛ばし、こう忠告するだろう。
『あの女を、ただの都合のいい事務員だと思うな』と。
そして今、私はこの泥まみれの空の下から、かつての私のように、スーツを着てふんぞり返っているであろう「次の標的」たちに向けて、心の中で静かに警告する。
お前たちのオフィスに、決してNOと言わず、いつも完璧な愛想笑いを浮かべている女はいないか?
理辞不尽な要求にも、「承知いたしました」と深く頭を下げる、美しくて従順なOLはいないか?
もしいるのなら、気をつけろ。
絶対に、彼女の機嫌を損ねるな。彼女の「聖域」を脅かすな。
あの完璧な微笑みの下には――俺のようなエリートを骨の髄までしゃぶり尽くし、社会的に抹殺するための、底なしの地獄が広がっているぞ。




