第11話:完璧な上司の赴任と、気色悪いディナーへの招待
月曜・午前9時:爽やかなる支配者
桐島の懲戒解雇という嵐が過ぎ去り、数週間が経過した月曜日の朝。
営業部のフロアは、一種の異様な熱気に包まれていた。
「おはようございます。本日付けでこの営業部の課長を拝命しました、黒田涼平です。皆さんと一緒に、風通しの良い、素晴らしいチームを作っていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします」
朝礼の場で、爽やかな笑顔とともに挨拶をした新課長。年齢は三十六歳。
仕立ての良さが一目でわかるネイビーのスーツを完璧に着こなし、前髪は清潔感のある短髪。そして何より、俳優顔負けの甘いマスクを持っていた。
桐島のような「俺が一番偉い」という威圧感は一切なく、あくまで謙虚で、物腰が柔らかい。
「きゃぁぁっ……黒田課長、めちゃくちゃイケメンじゃないですかぁ! 私、今日から仕事頑張れちゃいますぅ!」
後輩の美香が、隣の席で小声で黄色い悲鳴を上げ、スマホのインカメラでこっそり前髪を直している。
「あ、あの! 黒田課長! なにか分からないことがあれば、この佐藤になんでも聞いてください! 私、部署のことは隅々まで把握しておりますから!」
桐島の事件で平社員に降格し、今やすっかり肩身が狭くなった佐藤元課長が、揉み手をして媚びを売っている。
「ありがとうございます、佐藤さん。経験豊富な先輩がいてくださって、本当に心強いです」
黒田は佐藤に向かって、まるで仏のように優しい微笑みを向けた。
フロア中の女性社員の目がハートになり、男性社員たちも「今度の課長は話が分かりそうだ」と安堵の表情を浮かべている。
まさに、一瞬にしてオフィスの空気を掌握する「完璧な上司」の登場だった。
――でもね。
私は、口角を上げた完璧な営業スマイルを浮かべながら、黒田の顔を静かに観察していた。
彼の笑顔は、確かに美しい。声のトーンも、人に安心感を与える完璧なピッチだ。
だが、その目の奥。佐藤元課長に微笑みかけている時の、彼の爬虫類のような瞳孔の奥に、私は見逃してはいけないモノを見ていた。
それは、自分より立場の弱い人間を見下し、自分の支配下に置くことを楽しむような、仄暗く、ねっとりとした光。
「佐々木奈緒さん、だね」
不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を揺らした。
朝礼が終わり、社員たちが席に戻る中、黒田が私のデスクの前に立っていた。
「はい。佐々木奈緒と申します。黒田課長、本日からよろしくお願いいたします」
私は立ち上がり、最も美しく見える角度で深々とお辞儀をした。
「君の噂は聞いているよ。この部署の実務を一人で回している、非常に優秀な女性だとね。期待しているよ」
「とんでもございません。私など、まだまだ未熟者です」
「謙遜しなくていい。僕は、本当に仕事ができる人間だけを正当に評価する主義なんだ。これからよろしく」
黒田は私の目を見つめ、爽やかにウインクをして自分の個室ブースへと向かった。
――優秀な人間を評価する主義? 違うわね。あなたは「自分がコントロールしやすい有能な駒」を探しているだけ。
私は、あの甘いマスクの下から微かに漂う「厄介な男」の匂いを感じ取り、心の中で警戒レベルを最大に引き上げた。
水曜・午後3時:選別と執着
黒田が赴任して三日が経った。
彼は非常に仕事ができた。佐藤元課長が一日かけていた承認作業を数分で終わらせ、トラブルがあれば自ら矢面に立って解決する。まさに「理想の上司」だった。
しかし、私は気づいていた。
彼は「お気に入りの社員」と「そうでない社員」を、明確に、しかし周囲には絶対に悟られないように選別していることに。
美香のように「課長すごーい!」と持ち上げる可愛いだけの社員には、適当な愛想笑いでやり過ごす。
田中や佐藤のような無能な男性社員には、表向きは優しく接しながらも、絶対に重要な仕事は回さない。
そして、なぜか私にだけ、頻繁に声をかけてくるようになったのだ。
「佐々木さん、この資料のまとめ方、素晴らしいね。前任の佐藤さんが作ったものとは雲泥の差だ」
「ありがとうございます。見やすくフォーマットを整えただけですので」
「いや、君の視点は常に経営層の意図を汲んでいる。君みたいな人が事務職に留まっているのは、会社にとって損失だよ」
黒田は、一日何度も私のデスクにやってきては、やたらと距離を詰めてベタ褒めしてくる。
彼の声は常に周囲に聞こえる程度の音量だが、その眼差しは、まるで獲物を品定めする蛇のようだった。
――気持ち悪い。
褒められて悪い気はしないはずなのに、彼に褒められるたびに背筋に薄ら寒いものが走る。
彼は純粋に仕事の能力を評価しているのではない。「君の価値を分かっているのは僕だけだ」と刷り込み、私を自分に依存させようとしているのだ。典型的なモラハラ気質を持つ人間の初期行動だ。
金曜・夕方:気色悪い招待状と、完璧な大嘘
そして、その日の夕方。
終業のチャイムが鳴り、私が帰宅の準備を始めた時だった。
「佐々木さん。今週はお疲れ様。少し、いいかな」
黒田が、私のデスクの横にスッと立った。周囲の社員たちは帰り支度をしており、私たちの会話に注意を払っている者はいない。
「はい、黒田課長。なんでしょうか?」
「実は、今後の営業部の戦略について、君の意見をもっと深いところで聞きたいと思っていてね。もし良かったら、この後少し時間を取れないかな」
黒田は声を潜め、甘く囁くようなトーンで言った。
「ここで話すのもなんだから。実は、銀座の『レ・セゾン』の個室を押さえてあるんだ。予約が半年待ちのフレンチなんだけど、偶然キャンセルが出てね。もちろん、僕の奢りだ」
私は、顔の筋肉が引きつりそうになるのを必死で抑えた。
ただの部下を、金曜の夜に、予約困難な高級フレンチの個室に誘う。しかも「二人きりで」。
それは「仕事の相談」などという生易しいものではない。明確な下心と、「お前は俺の特別な女にしてやる」という傲慢な選民意識の表れだった。
――ふざけるな。私の金曜日の夜は、新橋の赤提灯と白ホッピーに捧げられているのよ。お前の気取ったフレンチなんかで、私の「聖域」を汚されてたまるか。
私は、数秒だけ「驚きと喜び」の表情を作り、その後で、この世の終わりのように悲しげな顔を作ってみせた。
「黒田課長……そんな、身に余る光栄です。課長のような素晴らしい方から、しかもそんな素敵なレストランにお誘いいただけるなんて……私、本当に嬉しくて……」
私は少しだけ潤んだ瞳で黒田を見つめ返した。黒田の口角が、満足げにスッと上がる。
「釣れた」と確信した男の顔だ。
「そうだろう? さあ、そうと決まったら……」
「ですが……!」
私は、両手を胸の前でギュッと握りしめ、言葉を遮った。
「本当に、本当に申し訳ございません……! 実は最近、同居している祖母が足を悪くしてしまいまして。夜は私が付きっきりで介護をしている状態なんです。一時間おきにトイレに連れて行かなければならなくて……」
私の目から、今にも嘘の涙がこぼれ落ちそうだった。
「夜の外出は一切できず、今日もまっすぐ家に帰って、祖母のおむつを替えなければならないんです。せっかくの課長のお誘いをお断りしなければならないなんて……私、自分の境遇が恨めしいです……!」
完璧な、隙の一切ない大嘘である。(私の祖母は田舎で毎日ゲートボールをして元気に飛び跳ねている)。
「えっ……あ、介護……?」
黒田の笑顔が、ピシリと凍りついた。
さすがの彼も、「祖母のシモの世話」という強烈なリアルな事情を前にして、「そんなの放っておいて僕とフレンチに行こうよ」と言えるほど馬鹿ではなかった。
「……そ、そうか。それは、大変だね。ご家族のことは大切にしないと。いや、無理を言って悪かった。この話は忘れてくれ」
黒田は、何事もなかったかのように爽やかな笑顔を取り繕った。
しかし、私は見逃さなかった。
踵を返して自分のブースへと戻っていく彼の背中が、怒りで微かに震えているのを。
そして、彼が振り向いた一瞬に見せた、私の大嘘を嘘だと見抜いているであろう、プライドを酷く傷つけられた男の、仄暗く粘着質な「執着の目」を。
――やばいのに目ぇつけられたかも。
私は小さく息を吐き出し、パソコンの電源を落とした。
桐島のような分かりやすいエリート気取りの方が、よほど扱いやすかった。この男は、自分の思い通りにならないものを、絶対に許さないタイプだ。
でも、後悔はない。
もしあの誘いに乗っていれば、私は彼の手駒として、一生あの気色悪い笑顔の下で生殺与奪の権を握られていただろう。
「お疲れ様でした!」
私はオフィスを出て、夜の街へと足早に向かった。
どんな陰湿な嫌がらせが待っていようと、私にはこの「仮面」がある。
「大将! 白ホッピーセット! 今日は死ぬほど美味い酒が飲みたい気分!」
新橋の赤提灯の暖簾をくぐり、私は指定席へと座った。
来週から始まるであろう、黒田の「見えない復讐」の足音を感じながら、私は冷たいジョッキを呷った。




