第12話:証拠なき兵糧攻めと、密室のガスライティング
火曜・午前10時:電子機器の没収と密室
あの大嘘をついて高級フレンチの誘いを断った金曜日から、週が明けた。
営業部のフロアは、相変わらず新課長である黒田の「完璧な笑顔」と爽やかな声に包まれていた。
「おはよう、佐々木さん。今週もよろしく頼むよ」
「はい、黒田課長。よろしくお願いいたします」
朝の挨拶。すれ違いざまの笑顔。
表面上は、何一つ変わっていないように見える。しかし、私は肌で感じ取っていた。彼の私に対する視線の温度が、絶対零度まで下がっていることを。
プライドの高い彼にとって、「自分の誘いを断った女」は、もはやお気に入りではなく「躾が必要な生意気な駒」に成り下がったのだ。
午前十時。黒田が私のデスクにやってきた。
「佐々木さん。少し良いかな。先週話していた、営業部の今後の戦略について打ち合わせをしたい。第3ミーティングルームへ」
「承知いたしました。パソコンと資料をお持ちしますね」
私が立ち上がろうとすると、黒田は優しく、しかし有無を言わさない声で制止した。
「いや、何も持たなくていい。まだ公にできない、極秘のクライアント情報も含むからね。ああ、それと……」
黒田は、私の手首と、デスクの上に置かれたスマートフォンに視線を落とした。
「コンプライアンスの観点から、電子機器の持ち込みは一切禁止とさせてもらうよ。スマホも、そのスマートウォッチも、すべて部屋の外のセキュリティロッカーに入れてから入室してくれ」
私はピクリと眉を動かした。
社外秘の会議でそこまで厳重にするケースはゼロではない。しかし、ただの部署内の戦略会議で、一介の事務員にそこまで要求するのは明らかに不自然だった。
――なるほど。録音されたくないのね。
「……承知いたしました。会社のルールに従います」
私は素直に頷き、スマホとスマートウォッチを外し、指定されたロッカーに鍵をかけた。ペンとメモ帳だけを持ち、防音設備の整った第3ミーティングルームへと入る。
カチャリ、と重いドアが閉まり、密室が完成した。
黒田は私に背を向け、ブラインドをスッと下ろした。外からの視線も完全に遮断される。
「さて、佐々木さん」
黒田が振り返った。
その顔には、フロアで見せている爽やかな笑顔の欠片もなかった。爬虫類のような冷たい瞳が、私を見下ろしている。
「君は、少し自分の立場を勘違いしているんじゃないか?」
低く、ねっとりとした声だった。
「勘違い、でしょうか? 申し訳ございません、私に至らない点があったのなら、ご指導いただきたく……」
「僕はね、君を評価してやろうと思ったんだよ。でも、君の先週の仕事ぶりを見て、正直がっかりした。書類のフォーマットは独りよがりだし、周囲とのコミュニケーションも取れていない。佐藤さんのようなベテランを見下している節もある」
完全な言いがかりだ。フォーマットは最も効率的に最適化されているし、コミュニケーションに至っては、無能たちを私が回してやっているのが現実だ。
「……それは」
「言い訳は聞きたくない」
黒田は私の言葉を遮り、一歩近づいてきた。
「君は優秀なつもりかもしれないが、所詮はただの事務職だ。僕が本社に『佐々木は協調性がなく、部署の空気を乱している』と報告すれば、君の評価は一瞬で地に落ちる。……おばあさんの介護? そんなプライベートな事情、会社には関係ないんだよ」
金曜日の嘘を、ここでチクリと刺してくる。
「君の価値を決めるのは、君じゃない。僕だ。僕の指示に絶対服従できないなら、君はこの部署にはいらない。分かったね?」
黒田は最後にポン、と私の肩を叩き、再び「完璧な笑顔」を貼り付けて部屋を出ていった。
一人残された密室で、私は静かに息を吐いた。暴力を振るわれたわけでもない。ただ、密室という逃げ場のない空間で、存在価値を徹底的に否定されたのだ。
録音データという「エビデンス」を奪われた状態での、完全なる言葉の暴力。
――陰湿で、臆病で、計算高い。桐島なんかより、よっぽどタチが悪いわね。
私はメモ帳に、強くペンを押し付けた。
水曜・午後2時:記憶の改竄
黒田の攻撃は、密室だけには留まらなかった。
翌日の午後。フロアには数名の社員が残って作業をしている中、黒田が私のデスクに書類の束を置いた。
「佐々木さん。明日の会議で使う資料だ。この『Aパターン』の見積書を、30部カラーコピーしてホチキス留めしておいてくれ。急ぎで頼むよ」
「はい、承知いたしました。Aパターンの見積書を30部ですね」
私は手早くコピー機に向かい、指示通りに完璧な資料を作成して、黒田のデスクに納品した。
しかし十分後。黒田が大きなため息をつきながら、フロアに響き渡る声を出した。
「佐々木さん。ちょっといいかな」
「はい、なんでしょうか」
「僕がさっき頼んだのは、『Bパターン』の資料だよね? なぜAパターンが用意されているんだ?」
私は耳を疑った。
「え……? いえ、課長は確かに『Aパターン』と……」
「僕はBだと言ったはずだよ。君、最近少し疲れているんじゃないか?」
黒田は、困り果てたような、とても部下思いの上司の顔を作って周囲を見渡した。
「おばあさんの介護で、夜も眠れていないんだろう? 気持ちは分かるが、仕事に私情を持ち込んで集中力を切らされるのは困る。幻聴が聞こえたり、記憶がおかしくなっているんじゃないのか?」
フロアの空気が凍りついた。
田中や美香たちが、ヒソヒソとこちらを見ている。
『奈緒さん、最近おかしいのかな』『課長、優しいのに可哀想……』
そんな声なき声が、突き刺さってくる。
――これが、ガスライティング。
被害者の現実感覚や記憶を意図的に狂わせ、周囲を巻き込んで「お前がおかしいんだ」と洗脳していく、極めて悪質な精神的虐待の手法だ。
黒田はわざと間違った指示を出し、私がそれを実行すると「違う」と否定する。録音もメールでの指示も残していない。言った、言わないの勝負になれば、周囲は「爽やかで優しい新課長」と「疲れてミスをした事務員」という構図を信じる。
「……申し訳ございません。私の、勘違いでした。すぐにBパターンで作り直します」
私は深く頭を下げた。ここで反論しても、私の「頭がおかしくなっている」という印象を強めるだけだ。
黒田は「無理しないでくれよ」と優しく微笑み、席に戻っていった。
木曜・午前11時:無能という名の防波堤
木曜日の朝。
このまま精神を削られ続けるわけにはいかない。エビデンス(録音)が残せないなら、別のアプローチで彼の逃げ道を塞ぐしかない。
「佐々木さん」
黒田が再び、私のデスクにやってきた。手にはまた、新しい資料が握られている。
「このリストの顧客に、新商品の案内状を『速達』で発送しておいてくれ。今日の午後三時がリミットだ。よろしく頼むよ」
周囲に人がいるフロアでの、口頭のみの指示。
また「普通郵便だと言ったはずだ」「なぜ三時までにやったんだ、五時でよかったのに」と、後から記憶を改竄する気満々だ。
「速達で、三時までですね」
「ああ、そうだ」
黒田が背を向け、自分の席に戻ろうとしたその瞬間。
私は、フロアの端まで響き渡るような、とびきり明るく、大きな声を出した。
「承知いたしました、黒田課長!! 念のため、もう一度復唱させていただきます!!」
ビクッとして、黒田が足を止める。フロア中の社員が一斉にこちらを見た。
「このリストの顧客に!! 新商品の案内状を『速達』で!! 本日の『午後三時』までに発送ですね!! 完璧に承りました!!」
私は立ち上がり、これ以上ないほどの極上の笑顔を黒田に向けた。黒田の顔がわずかに引きつる。
「あ、ああ……分かったならいい。そんなに大きな声を出さなくても……」
「いいえ! 最近の私は、課長が仰る通り疲労で『記憶がおかしく』なっておりますので! 絶対にミスをしないよう、周囲の皆様にもご協力いただこうと思いまして!」
私は黒田から視線を外し、すぐ隣の席でPCのソリティアに興じていた男――かつての無能上司、佐藤にターゲットを絞った。
「ねえ、佐藤さん!!」
「ひえっ!? な、なんだい奈緒ちゃん!?」
急に名指しされた佐藤が、ビクッと肩を跳ねさせて振り返る。
「佐藤さんは、この部署で一番経験豊富な大先輩ですよね! 先ほど黒田課長が私に、『速達で』『午後三時に』と指示されたの、お隣の席でバッチリ聞いていらっしゃいましたよね!?」
私は佐藤の目を真っ直ぐに見据え、満面の笑みで圧をかけた。
桐島事件の際、私が佐藤の弱みを完全に握り潰していることは、彼自身が一番よく分かっている。私に逆らえば自分がどうなるか、彼は骨の髄まで理解しているはずだ。
「えっ……あ、うん! き、聞いたよ! 『速達』で『午後三時』! 俺のこの耳で、しかと聞いた!!」
佐藤は裏返った声で、ぶんぶんと首を縦に振った。
「ありがとうございます、佐藤さん! さすが頼りになる先輩です! これで私がもし『普通郵便で送る』なんて幻聴を聞いたとしても、佐藤さんが証人になってくださいますね!」
私は再び黒田に向き直り、深々とお辞儀をした。
「というわけで黒田課長! 佐藤さんという素晴らしい証人(防波堤)も確保いたしましたので、ご安心ください! 完璧に遂行いたします!」
フロアが、しーんと静まり返った。
黒田は私と佐藤を交互に見つめ、その完璧な笑顔の裏側で、ピクリと頬の筋肉を痙攣させた。
証拠が残せないなら、「他人の耳」という生きた録音機を使えばいい。
特に佐藤のような、自分より権力を持つ者(この場合は私)に絶対服従する臆病者は、この上なく使い勝手の良い証拠保全システムになる。
「……そうか。じゃあ、頼むよ」
黒田は短い言葉を吐き捨て、踵を返して自分の個室ブースへと戻っていった。
ブースのドアが閉まる直前。
「……チッ」
かすかに、しかし確かに、黒田が舌打ちをする音が聞こえた。
私は心の中でガッツポーズを決め、佐藤に向かって「後でコーヒー奢りますね」と極上のウインクを飛ばした。
金曜・夜:削り合いのゴング
金曜日の夜。
新橋の赤提灯で、私は冷たい白ホッピーのジョッキを握りしめていた。
「ぷはぁっ……」
喉を通り抜けるアルコールが、今週削られた精神を少しだけ癒やしてくれる。
しかし、これまでの週末のような「完全勝利」の爽快感はなかった。
黒田のあの舌打ち。
あれは、諦めの合図ではない。「次」の手を考えるための、戦術変更の合図だ。
録音不可の密室。周囲を巻き込んだ記憶の改竄。そして、こちらの防衛策への素早い順応。
彼は、私の「微笑みの仮面」を剥がし、私を泣かせて這いつくばらせるまで、絶対にこの陰湿な攻撃をやめないだろう。
「……随分と険しい顔してんな、ねーちゃん」
隣の席から、ゲンさんがモツ煮込みをつまみながら声をかけてきた。
「ええ、ちょっとね。今回の敵は、一筋縄じゃいかなくて。証拠を残さない幽霊みたいな相手なの」
「幽霊ねぇ。そいつは厄介だ。だがな、ねーちゃん」
ゲンさんは、ボロボロの競馬新聞から顔を上げ、私の目を見た。
「証拠を残さねえ幽霊を退治するにはな。こっちからお化け屋敷に誘い込んで、そいつの実体を、大衆の前に引きずり出すしかねえんだよ」
私は、その言葉にハッとした。
相手が密室を作り、証拠を消すなら。
私がもっと大きな「密室」を作り、彼自身が絶対に消せないほどの特大の「証拠」を、自ら吐き出すように仕向ければいいのだ。
「……ゲンさん。あなた、やっぱり最高のコンサルタントだわ」
私はジョッキを持ち上げ、ゲンさんのグラスに力強くぶつけた。
黒田涼平。あなたが私を兵糧攻めにして孤立させる気なら、受けて立つわ。
最後に自分の傲慢さで首をくくるのは、あなたの方よ。
私の「微笑みの仮面」の下で、冷たく、そして激しい反撃の炎が静かに燃え上がり始めていた。




