第7話:エリートの密約と、競馬新聞の裏の真実
月曜・午前10時:忠犬のポーズと、毒蛇の匂い
「佐々木さん、お茶を頼む。今日から三日間、グローバル・シナジー・ソリューションズの担当者が詰めで来るから。応接室のスケジュール、僕の名前で全部押さえておいて」
月曜日の朝。出社するなり、桐島係長はふんぞり返って私に指示を出した。
来月頭に控えた『K-System』の全社導入プレゼン。彼にとって、本社への返り咲きと出世をかけた大一番だ。
「承知いたしました、桐島係長。プレゼンの準備、いよいよ大詰めですね。私も全力でサポートさせていただきます!」
私は、この世で最も忠誠心の高い部下の顔を作り、深々とお辞儀をした。
腹の底では、煮えたぎるような怒りのマグマが渦巻いているというのに、私の「微笑みの仮面」はかつてないほど完璧な仕上がりを見せていた。
――私の「聖域(赤提灯)」を奪おうとする悪徳企業と、その手先。絶対に許さない。ただ失脚させるだけじゃ足りない。二度と社会の表舞台を歩けないように、骨の髄までしゃぶり尽くしてやる。
十時半。エントランスに現れたのは、仕立ての良すぎるストライプのスーツを着た、爬虫類のように細い目をした男だった。グローバル・シナジー・ソリューションズの営業部長、蛇川と名乗った。
「やあ、桐島さん。いよいよですねぇ」
「ええ、蛇川さん。このプロジェクトが成功すれば、お互いに『大きなリターン』が得られますからね」
応接室に案内する道すがら、二人は周囲に聞こえない程度の声で、しかし確実に下劣な笑いを交わしていた。
私は給湯室で最高級の玉露を淹れながら、息を潜めた。 お盆に湯呑みを乗せ、応接室のドアの前で立ち止まる。防音仕様のドアだが、私はドアの建て付けが数ミリだけ悪く、音が漏れやすいスポットを知っている。
「……というわけで、例の『コンサルティング料』の名目でのバックマージン、今回の全社導入が本決まりになれば、さらに上乗せできそうです」
「素晴らしい。いやあ、桐島さんみたいな話の分かる優秀な方が担当で助かりますよ。新橋のあの古いビルの再開発も、これで一気に進められます。あんな薄汚い居酒屋ども、早く一掃してしまいたいものですからね」
「ははは! 違いありません」
――なるほど。ただのシステム発注じゃない。裏金が、地上げの資金源にもなっている。絵に描いたような悪代官と越後屋ね。
私は小さく深呼吸をして、ドアをノックした。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
完璧な所作で湯呑みをテーブルに置く私を、蛇川が舐め回すような目で見つめた。
「ほう。桐島さんのところには、ずいぶんと美人で優秀な事務員さんがいらっしゃる。どうです? うちのシステム、使い勝手は」
「はい! まさに革命的です! 桐島係長のような素晴らしいビジョンを持った方がいらして、私ども現場の人間は本当に救われております」
私は満面の笑みで、桐島と蛇川を交互に見つめた。桐島は得意げに鼻を鳴らした。
「彼女は話が分かるんですよ。ほら、佐々木さん。もう下がっていいよ。僕たちは重要な『アジェンダ』があるから」
「はい。失礼いたします」
ドアを閉めた瞬間、私の顔から一切の表情が消え失せた。
証拠だ。奴らが私腹を肥やしているという、客観的で、言い逃れのできない決定的な「エビデンス」が必要だ。
水曜・午後3時:決裁書の迷宮と、無能のパスワード
桐島と蛇川が毎日密室で会議(という名の悪巧み)をしている間、私は自分のデスクで静かに牙を研いでいた。
社内の決裁システムにアクセスし、「K-System」の初期導入時の稟議書と契約書を洗い出す。
しかし、肝心の「支払い詳細」や「契約の特記事項」に関するデータには、係長以上のアクセス権限によるロックがかけられていた。
私の事務用IDでは、これ以上の深い階層には入れない。
――どうする? 桐島のパソコンをハッキングする? いや、それはリスクが高すぎるし、不正アクセスとして私が処分される可能性がある。あくまで合法的に、権限を持った人間のIDで入らなければ。
私は視線を斜め前に向けた。
そこには、昼食後の強烈な眠気に耐えきれず、白目を剥いて舟を漕いでいる佐藤課長がいた。
彼の手元には、社内システムにログインしっぱなしのノートパソコンがある。
「……ねえ、課長」
私は甘い声を作って、佐藤課長にすり寄った。
「あ、はい!? な、奈緒ちゃん、どうしたの?」
「課長、お疲れですね。なんだか顔色が優れませんよ。そういえば、さっき部長が『佐藤はまた居眠りしているのか』って、少し怒っていらっしゃいましたよ」
「えっ!? 嘘だろ、マズい……!」
「私、少し部長のご機嫌を取ってきましょうか? その間、課長は洗面所で顔でも洗って、リフレッシュしていらしてください」
「な、奈緒ちゃん! 君は本当に天使だ! ありがとう、すぐ戻るから!」
佐藤課長は慌てて立ち上がり、洗面所へと駆け出していった。
私は周囲の目を盗み、課長の席にスッと座った。そして、ログイン状態の彼のパソコンから、素早く決裁システムの深部へとアクセスした。
佐藤課長のパスワードは、彼の愛犬の名前と誕生日『Pochi0401』だ。以前、彼がキーボードを一本指で打っているのを後ろから見て、一瞬で記憶したものである。(セキュリティ意識の低さに呆れるが、今回ばかりは感謝しよう)。
「……あった」
課長の権限で閲覧できるフォルダの中に、桐島が本社時代に起案した『K-System導入に関する稟議書』と、グローバル・シナジー・ソリューションズとの『業務委託契約書』のPDFファイルを発見した。
私はそのファイルを、自分のUSBメモリに素早くコピーした。
相見積もりを一切取っていない不自然な発注プロセス。そして、相場の三倍近い異常な開発費用。さらに、「導入支援コンサルティング料」という名目で、毎月高額な支払いが桐島のダミー会社らしき口座に振り込まれる契約になっている。
「バカね。こんな素人丸出しの裏金工作、監査が入れば一発でバレるのに」
桐島は、現場の人間(特に佐藤課長のような無能)が、こんな細かい契約書まで読まないと高を括っていたのだ。事実、佐藤課長の承認印は、中身を確認した形跡もなく、一番下の欄にデカデカと押されていた。
課長が顔を濡らして戻ってくる前に、私は証拠のデータを確保し、何食わぬ顔で自分の席に戻った。
これで、社内側の証拠は揃った。
あとは、グローバル・シナジー・ソリューションズ側の「裏」を取るだけだ。
木曜・午後8時:赤提灯のフィクサー
木曜日の夜。
私は、いつにも増して足早に新橋の赤提灯へと向かった。
ガラリと戸を開けると、大将が渋い顔でカウンターを拭いていた。
「いらっしゃい、奈緒ちゃん……。なんだか、店の立ち退きの話、本決まりになりそうなんだとさ。今月末には書類にハンコ押さなきゃなんねえかもな」
「大将……」
私の胸が痛んだ。この店がなくなることは、私が私らしくいられる唯一の場所が消滅することを意味する。
「大将! 白ホッピーセット、中多めで! 絶対にハンコなんか押さないでくださいね。私がなんとかしますから」
「おう……ありがとな。無理すんなよ」
私がホッピーのジョッキを握りしめていると、隣から「よっ」と声がかかった。
赤ペンを耳に挟み、ボロボロの競馬新聞を広げた常連のオッサン、ゲンさんだ。
「ねーちゃん、随分と気合入った顔してんな。どうだ、例の件、俺の出番はあるか?」
「ゲンさん。……実は、私の方で社内の怪しい契約書は手に入れました。でも、相手の会社『グローバル・シナジー・ソリューションズ』が、本当に裏金を受け取って、その金でこのビルを地上げしようとしているのか、その決定的な裏付けが欲しいんです」
私が真剣な眼差しで告げると、ゲンさんは競馬新聞をパタンと閉じた。
そして、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「あのな、ねーちゃん。俺がなんで毎日ここに入り浸って、競馬ばっかりやってるか知ってるか?」
「え? 競馬が好きだから……じゃないんですか?」
「それもある。だがな、俺は昔、ちょっとばかりデカい企業の『ケツ拭き(監査と危機管理)』をやっててな。今は隠居の身だが、情報のパイプだけは腐るほど持ってるんだよ」
ゲンさんは懐から、古びた手帳を取り出した。
そして、手帳に挟んであった一枚の折り畳まれた紙を、私の前に滑らせた。
「グローバル・シナジー・ソリューションズ。ここ数年で急成長したIT企業だが、実態は真っ黒だ。ペーパーカンパニーをいくつも噛ませて、企業のIT化推進の波に乗って法外なシステム料をふんだくり、その裏金で不動産を買い漁ってる。フロント企業みたいなもんだ」
その紙には、グローバル・シナジー社を中心とした、複雑な資金の流れと、関連企業の相関図が詳細に描かれていた。そして、その資金の還流先の一つに、桐島の名前がしっかりと記載されていた。
「これ……!」
「俺の昔のツテを使って、奴らのメインバンクの裏口座の動きを洗わせた。桐島の野郎が受け取ってるキックバックの振込明細のコピーも、明日の昼までには俺の手元に届く手はずになってる」
私は驚愕してゲンさんを見た。ただの競馬好きのオッサンだと思っていた人が、とんでもない情報網を持つフィクサーだったのだ。
「ゲンさん……あなた、一体何者……」
「ただの、モツ煮込みとホッピーを愛する、しがないジジイさ。大将には昔、世話になったからな。この店を潰されちゃ、俺の老後の楽しみがなくなっちまう」
ゲンさんは照れ隠しのように鼻の頭を掻き、ジョッキを掲げた。
「どうだ、ねーちゃん。これで手札は揃ったろ? あとは、お前の手で、あのお高く止まったエリートの坊ちゃんに『最高のエビデンス』を突きつけてやれ」
私は、胸の奥で熱いものが込み上げてくるのを感じた。
自分一人の戦いだと思っていた。でも、ここには、この「聖域」を守るために共に戦ってくれる仲間がいる。
「……はい! ありがとうございます、ゲンさん!」
私はゲンさんのジョッキに、自分のジョッキを力強くぶつけた。
「来週の月曜日。全社員が集まるシステム導入のプレゼン会議があります。そこで、桐島係長に最高の舞台を用意してあげます。彼が一番輝く瞬間に、地獄の底へ突き落としてやります」
私はホッピーを一気に飲み干し、氷をカランと鳴らした。
私の「微笑みの仮面」の下には、すでに死神のような冷徹な笑みが張り付いていた。
さあ、処刑の準備はすべて整った。




