第6話:本社からの刺客と、クラッシャーの足音
月曜・午前9時:ルー語とエリートの襲来
月曜日の朝。営業部のフロアは、いつもとは違うピリついた空気に包まれていた。
朝礼の場に、仕立ての良い細身のオーダースーツを着こなした、見慣れない男が立っていたからだ。
「えー、皆さんもすでにご存知かと思いますが、本日付けで本社経営企画室から当営業部に着任した、桐島俊係長です」
佐藤課長が、いつにも増して揉み手をするような態度で男を紹介した。
桐島係長。年齢は三十二歳。若くして本社のエリートコースを歩んでいた彼が、なぜ現場の営業部に降りてきたのかは謎だが、その整った顔立ちの奥には、現場を見下すような冷たい光が宿っていた。
「ご紹介に預かりました、桐島です。本日から皆さんのチームにジョインすることになりました」
桐島は、前髪をスッとかき上げながら、よく響く声で話し始めた。
「私は現場の経験はありませんが、本社で培ってきたメソッドを活かし、この営業部の古い体質にパラダイムシフトを起こしたいと考えています。まずは既存の業務スキームをゼロベースで見直し、徹底的な見える化とKPIの再設定を行います。皆さん、マインドセットを切り替えて、私のスピード感にアグリーしていただきたい。よろしく」
フロアに、気まずい沈黙が流れた。
――『ジョイン』『スキーム』『アグリー』……。ここは中堅の泥臭い商社であって、港区のITベンチャーじゃないんですけど。朝からルー語のシャワーを浴びせられて、こっちのマインドはすでにシャットダウン寸前だわ。
腹の中で盛大に毒づきながらも、私の顔は完璧な「歓迎の笑み」を浮かべていた。
拍手がまばらに起こる中、佐藤課長が「いやあ、さすが本社のエース! 頼もしいですねえ!」と一人で大げさに手を叩いている。
朝礼が終わると、桐島係長は迷うことなく私のデスクへと真っ直ぐに向かってきた。
「君が、佐々木さんだね。佐藤課長から、実務のハブになっていると聞いているよ」
「はい。佐々木奈緒と申します。桐島係長、本日からよろしくお願いいたします」
私は立ち上がり、お手本のような美しいお辞儀をした。
「うん。早速だけど、君が管理している営業部の経費や顧客データのフロー、全部見せてくれないか? ASAP(なるべく早く)でお願いしたい」
「承知いたしました。すぐにファイルをお持ちしますね」
私は引き出しから、美しくファイリングされた業務マニュアルと、データの一覧を取り出して彼のデスクに運んだ。
私の業務フローは、無駄を極限まで削ぎ落とし、誰が見ても一目で分かるように最適化されている。絶対の自信があった。
しかし、数分後。ファイルにパラパラと目を通した桐島は、鼻でふっと笑い、バサリとファイルを机に投げ捨てた。
「……佐々木さん。これは、ダメだね」
午後2時:クラッシャーの足音
「ダメ……でしょうか?」
私は首を少し傾げ、不安げな表情を作ってみせた。
「君の仕事は確かに速いのかもしれない。でも、これじゃあ完全に属人化している。君が休んだらどうするんだ? エビデンスの残し方も甘いし、なによりアナログすぎる。今の時代、こんなExcelベースの管理なんてナンセンスだよ」
桐島は、私の積み上げてきた効率的なシステムを、わずか数分で全否定した。
――私が休んでも回るように、マニュアル化して共有フォルダに入れてあるでしょうが。Excelベースなのは、佐藤課長や市川さんのようなITリテラシー皆無の連中でも使えるように、あえてギリギリのラインで調整してるからよ。現場を知らないお坊ちゃんが、知ったような口を利かないで。
「申し訳ございません。私の力不足で……」
「まあ、君を責めているわけじゃない。そこで、だ」
桐島は自分のノートパソコンを開き、ある画面を私に見せた。
「本社主導で僕が開発に関わった、次世代クラウド管理システム『K-System』だ。来月から全社導入される予定だが、まずは僕の肝いりで、この営業部でテスト運用を開始する。今日から、すべてのデータをこのシステムに入力し直してくれ」
画面に表示されたそのシステムを見て、私は一瞬、息を呑んだ。
――……なんだ、このゴミシステムは。
UIは直感から程遠く、一つのデータを入力するのに、無駄なタブを三つも四つも経由しなければならない。さらに、ちょっとした経費精算ひとつに「係長」「課長」「部長」の三重の電子承認が必要な、最悪の『スタンプラリー仕様』になっていた。
「どうだ? 素晴らしいだろう。これで完全に業務がペーパーレス化され、可視化される」
「……はい。とても、先進的で素晴らしいシステムだと思います」
「だろう? じゃあ、過去三年分のデータを、今週中にすべてこのシステムに移行しておいてくれ。君ならできるはずだ」
三年分のデータを、この使い勝手最悪のシステムに手入力で打ち直せと言うのだ。それは、事務職の私に対する「死刑宣告」に等しかった。
「承知いたしました。やらせていただきます」
私は、口角を限界まで引き上げ、その理不尽な命令を飲み込んだ。
午後4時:阿鼻叫喚のオフィスと、沈黙のハッカー
数日後。営業部は完全に崩壊していた。
「ちょっと! なによこのシステム! 領収書の写真アップロードするだけでエラーになるじゃない!」
市川さんが、パソコンのモニターを睨みつけながら金切り声を上げている。
「桐島係長……あの、客先からの至急の案件なんですけど、システムで承認が降りないと見積もりが出せなくて……」
田中が、泣きそうな顔で桐島にすがりついている。
「それは君たちのITリテラシーの問題だ。マニュアルをちゃんと読んで、スキームに従ってくれ。僕は今、本社の役員とWebミーティング中なんだ」
桐島は現場の混乱を一切無視し、個室ブースにこもってしまった。佐藤課長は「まあまあ、本社の方針だから……」とオロオロするばかりだ。
私は、阿鼻叫喚のフロアの片隅で、ひたすら無心で過去のデータを「K-System」に打ち込み続けていた。
深夜残業が三日続いている。目の下には薄くクマができ始めている。
――このままじゃ、私の完璧なライフスタイルが破壊される。
私はタイピングの手を休め、システムのソースコードと、ネットワークの構造をこっそりと検証し始めた。
桐島が「自分が開発に関わった」と豪語するこのシステム。使えば使うほど、そのハリボテ感が浮き彫りになってきた。
「……なるほどね」
私は、誰にも気づかれないように、冷たく笑った。
このシステムには、致命的な欠陥があった。
利便性を優先するあまり、外部からのアクセス権限の認証が驚くほど甘いのだ。さらに、データベースの特定の領域に、外部から簡単にファイルのアップロードや書き換えができてしまう脆弱性が存在していた。
おそらく、桐島はシステム開発会社に丸投げし、見栄えと「自分が主導した」という実績だけを求めたのだろう。
――教えてあげようかしら、あなたの可愛いシステムには、裏口が開きっぱなしですよって。
いや。
私はその考えを即座に打ち消した。
ここで脆弱性を指摘してシステムが改善されてしまえば、桐島の評価が上がるだけだ。それは私の美学に反する。
私は桐島の個室ブースの扉をノックし、極上の笑顔を作って中へ入った。
「桐島係長、お疲れ様です。ご指示いただいた過去三年分のデータ移行、完了いたしました」
「おお、さすがだね。早いじゃないか」
「はい! この『K-System』、使えば使うほどその素晴らしさが分かりました。私も、営業部のDX化推進リーダーとして、桐島係長のお手伝いを全身全霊でさせていただきます!」
桐島は満足げに頷き、私の肩をポンと叩いた。
「君は話がわかるね。古い体質の人間ばかりでウンザリしていたところだ。君のような優秀な人材は、僕がしっかり評価してあげるよ」
「光栄です!」
私は深く頭を下げながら、システム内にこっそりと仕掛けた「あるプログラム」の起動タイマーをセットした。
――私を過労死寸前まで追い込んだこと、たっぷりと後悔させてあげるわ、横文字エリート。あなたのその高すぎるプライド、全社員の前で粉々に砕いてあげる。
午後8時:赤提灯と不穏な影
金曜日の夜。
一週間の地獄の残業を終えた私は、這うような足取りで新橋の赤提灯へと向かった。
ガラリと戸を開けると、いつもの煙と油の匂いが私を包み込む。
「大将……白ホッピーセット、中多めで……」
「おう、奈緒ちゃん! なんだか今日はずいぶん疲れた顔してるじゃねえか。大丈夫か?」
大将が心配そうに声をかけてくる。
指定席のカウンターに座り、運ばれてきたホッピーを煽った。
「ぷはぁっ……。ちょっと、今週は強敵が現れましてね」
「強敵? そりゃ大変だ。まあ、これでも食って元気出せ」
大将が、いつもより多めに盛られたモツ煮込みをドンと置いてくれた。
隣の席では、いつものようにゲンさんが競馬新聞を広げながら、こちらをチラチラと見ている。
「おう、ねーちゃん。いくら仕事ができても、体壊しちゃ元も子もねえぞ。無理すんなよ」
「ありがとうございます、ゲンさん。でも大丈夫です。ちゃんと『お返し』の準備は済ませましたから」
私は不敵に笑い、二杯目の「中」を注文した。
そうだ。来月行われる、全社向けの「K-System導入プレゼン会議」。そこで桐島が最も輝く瞬間に、あのセキュリティホールから特大の爆弾を投下してやるのだ。
しかし、ホッピーでアルコールが回り始めた私の耳に、大将とゲンさんのひそひそ話が聞こえてきた。
「……で、大将。あの話、本当なのか?」
「ああ……困ったもんだよ。どうやら、このビル丸ごと、デカいIT企業に買収されるらしくてな。うちみたいな古い店は、立ち退きを要求されてるんだ」
私は、手に持っていたジョッキをピタリと止めた。
「立ち退き……? 大将、ここ、なくなっちゃうの?」
「まだ決定じゃねえが……。その買収元の企業ってのが、最近急成長してる『グローバル・シナジー・ソリューションズ』って会社でよ。血も涙もねえやり方で有名なんだと」
私は、その社名を聞いて全身の血が逆流するのを感じた。
『グローバル・シナジー・ソリューションズ』。
それは、桐島が自慢げに「自分が太いパイプを持っている」と豪語していた、あの『K-System』の開発元企業の名前だった。
「……桐島」
私の口から、低い声が漏れた。
私から効率的な業務を奪い、睡眠時間を奪い、そして今度は、私が私らしくいられる唯一の場所――この「聖域」まで奪おうというのか。
「……許さない」
私は空になったジョッキを、ドン! とカウンターに叩きつけた。
大将とゲンさんがビクッと肩を揺らす。
「大将! 中、おかわり! グラスすれすれまで入れてちょうだい!」
月曜日の朝、桐島のシステムを全社プレゼンで機能不全に陥らせるだけでは足りない。
あいつのキャリア、プライド、そしてあの悪徳企業との癒着。そのすべてを完膚なきまでに暴き出し、社会的に抹殺してやる。
私の「微笑みの仮面」の下で、これまでで最も暗く、最も熱い怒りの炎が燃え上がり始めていた。




