第5話:接待という名の苦行と、微笑みの毒見役
午後4時:生贄の要請
「奈緒ちゃん! 一生のお願い! 今夜だけ、今夜だけでいいから僕を助けて!」
木曜日の午後四時。
私のデスクの横で、佐藤課長が文字通り両手を合わせて拝み倒していた。彼の額には、エアコンの効いた室内にもかかわらず、じっとりと脂汗が浮かんでいる。
「佐藤課長、落ち着いてください。今夜の権田製作所様との接待ですよね? 私は事務職ですし、明日の会議の準備も残っておりますので……」
「そこをなんとか! 権田社長がさ、『おい佐藤、今日は若いおねーちゃんは来るんだろうな? むさ苦しい男だけの酒は不味くていかん』って、さっき電話で機嫌損ねちゃって……!」
私は完璧な「困りましたね」という表情を作りながら、腹の底で盛大に舌打ちをした。
――なんだその昭和の化石みたいなジジイは。キャバクラと接待の区別もつかないなら、今すぐその社長の椅子から転げ落ちてしまえ。
「でも、私がお役に立てるとは……」
「奈緒ちゃんがいれば百人力だよ! 君、気配り完璧だし、愛想もいいし! ただ隣に座って、ニコニコしてお酒注いでくれるだけでいいから! 残業代はもちろん、タクシー代も弾むからさ!」
ただ隣に座って、ニコニコしてお酒を注ぐ。
それは事務職の業務範囲を大きく逸脱している。しかし、ここで「セクハラです」と騒ぎ立てるのは、三流のやることだ。
それに、私は知っている。
権田製作所の権田社長が、一代で会社を築き上げたやり手……などではなく、創業者の娘婿として運良く社長の座に収まっただけの、典型的な「お飾りワンマン社長」であることを。実権を握っているのは、現在会長職に就いている創業者と、その娘である社長夫人だ。
「……分かりました。課長がそこまで仰るなら、同席させていただきます。ただし、明日の午前中は、少しだけ遅めの出社にさせていただけますか?」
「もちろん! 10時でも11時でもいいよ! ありがとー、奈緒ちゃん! 命の恩人だ!」
喜んで自分の席に戻っていく課長の背中を見送った後、私は速やかにパソコンのブラウザを立ち上げた。
検索窓に打ち込むのは、「権田製作所 社長」そして「痛風」「糖尿病」といったキーワードだ。
以前、彼が来社した際、足を引きずるように歩いていたのを私は見逃していない。
数分後、私はある個人のInstagramアカウントに辿り着いた。
『権田 雅子』。権田社長の妻であり、実質的な権力者であるマダムのアカウントだ。
そこには、高級フレンチや愛犬の写真に混じって、こんな投稿があった。
『夫の尿酸値と血糖値がまた悪化……。お医者様から厳重注意を受けました。今日からお酒も脂っこいものも、私が徹底的に管理します! 怒』
私はその投稿をスクリーンショットで保存し、ふふっ、と冷たい笑みを漏らした。
――なるほどね。今夜のメニューは、彼にとっての「最後の晩餐」にしてあげましょう。
午後7時30分:プリン体の狂宴
接待の舞台は、銀座の奥まった場所にある高級料亭だった。
和室の個室には、すでに顔を真っ赤にした権田社長が上座にでんと構えている。
「おお! 佐藤くん、なかなか気が利くじゃないか。こんな別嬪さんを連れてくるとはな!」
権田社長は、入室した私を見るなり、下品な笑い声を上げた。
「初めまして、佐々木奈緒と申します。本日はよろしくお願いいたします」
私は、この世で最も従順で、可憐なOLの仮面を被り、三指をついて挨拶をした。
「おうおう、佐々木くんか! まあ、俺の隣に座りなさい。お酌頼むよ!」
「はい、喜んで」
私は権田社長の横に正座した。至近距離から漂う、強烈な酒と加齢臭。
佐藤課長は、私の対面でただヘラヘラと愛想笑いを浮かべているだけだ。
「ほらほら、佐々木くんも飲んで! 若いんだから、もっとグラス空けないと!」
権田社長は、私のグラスに並々と日本酒を注いできた。
しかし、私は学生時代から培った「飲み会回避スキル」の達人である。口をつけるフリをして、おしぼりで口元を拭う動作に紛れさせ、卓の下に用意した空のグラスへ少しずつ酒を移動させていく。
「いやあ、権田社長はお酒がお強くていらっしゃいますね。本当にかっこいいです」
「がっはっは! 男は酒が飲めてナンボだからな! 最近はうるさい連中が多くて窮屈だが、こういう席くらいは羽を伸ばさねえとな!」
私は、空になった社長の猪口に、間髪入れずに最高級の大吟醸を注ぎ足した。
「どうぞ、社長。お疲れ様でございます」
「おお、気が利くな! 佐々木くん、君は本当にいい子だ」
権田の分厚い手が、私の膝の上にポンと置かれた。
背筋に悪寒が走る。対面にいる佐藤課長は、見て見ぬふりをして必死に刺身を食べている。
――このクソ無能上司。後で絶対に泣かす。
そして、このセクハラ親父の血管には、致死量のプリン体を送り込んでやる。
その時、仲居さんが見事な舟盛りと、小鉢を運んできた。
「お待たせいたしました。こちら、本日の特別メニュー『白子ポン酢』と『あん肝』でございます」
「おおっ! 待ってました! これがないと酒が始まらん!」
権田社長の目が、脂の乗った「痛風の素」に釘付けになる。
私はすかさず、彼のお皿に、山盛りの白子とあん肝を取り分けた。
「社長、どうぞ! 奥様が普段、健康を気遣ってこういった美味しいものを制限されているとお聞きしました。ですから、今夜くらいは、日頃の激務の疲れを癒やして、思う存分召し上がってくださいね!」
私は、目をキラキラさせて彼を見つめた。
権田の顔が一瞬引きつったが、「妻の管理下にある」という事実を若い女の前で認めるのは、彼のちっぽけなプライドが許さなかったのだろう。
「お、おう! まったく、うちの嫁は口うるさくてかなわん! 俺の体は俺が一番わかってるってのにな!」
彼は、見栄を張るように、あん肝をパクリと飲み込み、日本酒で流し込んだ。
「素敵です! さすが社長、豪快ですね! もっとお注ぎしますね!」
私は、まるで神に供物でも捧げるかのように、権田の猪口に酒を注ぎ続けた。
白子、あん肝、ウニ、そして霜降りの和牛。
テーブルに運ばれてくる「プリン体と糖質の爆弾」を、私はひたすら笑顔で権田の口へと誘導し続けた。
午後9時:完璧な報告
宴もたけなわ。
権田社長は完全に泥酔し、呂律も回らなくなっていた。佐藤課長も酔い潰れ、部屋の隅で丸くなっている。
「いやぁ……佐々木くぅん……君は最高だぁ……今度、二人で……」
「ふふっ、社長ったら。あ、そうだ。私、今日という素晴らしい日を記念して、お写真撮ってもいいですか?」
「おぅ? 写真かぁ? いいぞぉ、撮れ撮れ!」
私はスマホを取り出し、権田社長にカメラを向けた。
画面に映っているのは、ネクタイを緩め、赤ら顔で、左手に日本酒の猪口、右手に箸で挟んだ白子を持ち、だらしなく笑う初老の男。
「はい、チーズ!」
パシャリ。
完璧な一枚だ。
「ありがとうございます。社長、お手洗いに行かれますか? 私、少し風に当たってきますね」
私は立ち上がり、料亭の廊下へと出た。
静かな中庭が見える縁側に立ち、私はスマホを操作した。
開くのは、先ほど見つけた社長夫人・雅子のアカウント。
私は、新しく作ったばかりの匿名アカウントから、彼女のDM画面を開き、先ほどの写真を添付した。
『雅子様、初めまして。いつも素敵なご投稿を拝見しております。
本日、偶然にもご主人様をお見かけいたしました。
奥様がご心配されていたとお聞きしておりましたが、お元気そうに、お酒と美味しいお料理(白子やあん肝など)をたっぷりと楽しまれていて、私も自分のことのように嬉しくなりました!
社長様の大変豪快なお姿、ファンとしてご報告させていただきますね』
文章の最後に、満面の笑みの絵文字を添えて、送信ボタンをタップする。
ピコン、と軽い音が鳴り、画像とメッセージが「既読」になるのに、五分もかからなかった。
――さあ、雅子夫人。あなたの可愛いワンちゃんが、リードを食いちぎって毒を拾い食いしてますよ。
料亭を出る際、私は佐藤課長をタクシーに押し込み、自分は別のタクシーを拾った。
時計の針は午後十時を回ろうとしていた。
「運転手さん、新橋まで」
私はタクシーのシートに深く沈み込み、アルコールティッシュで、権田に触られた膝を念入りに拭き取った。
翌日・午後6時:聖域とトマトスライス
金曜日の夕方。
営業部のフロアは、異様な空気に包まれていた。
「……そうですか。はい……大変申し訳ございません。ええ、社長様にはくれぐれもお大事にと……」
佐藤課長が、デスクで電話の受話器を両手で握りしめ、顔面蒼白になりながら平謝りしている。
電話の相手は、権田製作所の雅子夫人(実質的トップ)だ。
今朝一番で、権田製作所から「社長が昨夜から痛風の発作と急性アルコール中毒で緊急入院した。当面の間、社長業務は妻の雅子が代行する」という連絡が入ったのだ。
さらに雅子夫人からは、「うちの夫に無理やり酒を飲ませたのはお宅の会社か!」という猛烈なクレームが入り、佐藤課長は朝から生きた心地がしていない。
「な、奈緒ちゃん……どうしよう。権田社長の奥様、めちゃくちゃ怒ってて……うちとの取引、見直すって言い出しちゃって……」
電話を切った佐藤課長が、すがるような目で私を見てきた。
「あら、大変。でも課長、昨夜は課長が『接待は男同士の酒が基本だ』と権田社長を煽って、どんどんお酒を進めていらっしゃいましたよね? 私は端の方で、ウーロン茶を飲んでいただけですから」
「えっ!? そ、そうだっけ……? 俺、酔っててあんまり覚えてなくて……」
「ええ。それに、もし取引が見直しになったとしても、課長が誠心誠意謝罪すれば、きっと分かっていただけますよ。頑張ってくださいね」
私は、この世で最も冷酷な「頑張って」を彼に投げかけ、パソコンをシャットダウンした。
「それじゃ、お先に失礼します! 良い週末を!」
定時のチャイムと共にオフィスを出た私は、足取り軽く新橋へと向かった。
向かう先は当然、あの煙たい赤提灯の居酒屋だ。
「大将! 白ホッピーセット、中多めで!」 「おう、奈緒ちゃん! 一週間お疲れさん!」
カウンターの特等席に座り、おしぼりで手を拭う。
隣の席では、いつものようにゲンさんが競馬新聞を広げていた。
「おう、ねーちゃん! 今週もいい顔してんな!」
「ふふっ、ええ。ちょっとだけ、世の中の『不健康なもの』を掃除してきたので」
私は笑いながら、メニューの短冊を眺めた。
いつもは名物のモツ煮込みを頼むのだが、昨夜の脂っこい残像がまだ脳裏に焼き付いている。
「大将! 今日は『冷やしトマト』と『オニオンスライス』で! あと、冷奴も!」
「おっ、珍しいねえ。ヘルシー志向か?」
「ええ。尿酸値と血糖値は、日頃からの自己管理が大切ですからね!」
私は、運ばれてきた冷えたホッピーのジョッキを高く掲げた。
「ゲンさんも、乾杯! 痛風には気をつけてくださいね!」
「おう! 健康第一だな! 乾杯!」
ゲンさんとジョッキをぶつけ合い、冷たい液体を喉の奥へと流し込む。
――ぷはぁっ! 美味い!
自分を律することができない愚かな大人たちは、勝手に自滅していけばいい。
私はこの冷やしトマトと白ホッピーで、誰よりも健康に、そしてエレガントに生き延びてやるのだ。
口の中に広がるトマトの酸味と、ホッピーの強烈な爽快感が、一週間のすべてのストレスを完璧に浄化してくれた。




