第4話:経理部の絶対女王と、領収書の迷宮
午前10時:香水公害とマウント女王
オフィスの空気が、一瞬にして甘ったるく、そして暴力的なフローラルの香りに支配された。
「……おはようございます、営業部の皆さん。相変わらず、活気があってよろしいこと」
コツン、コツンと、嫌味なほど響くハイヒールの足音。
声の主は、経理部のお局・五十嵐麗子(35歳)。社内では誰も逆らえない「絶対女王」だ。
今日も今日とて、一目でそれと分かる海外ハイブランドのセットアップに身を包み、腕には給料の三ヶ月分は下らないであろう高級時計を光らせている。
「佐々木さん。ちょっといいかしら」
五十嵐は私のデスクの横に立つと、バサリと分厚いクリアファイルを叩きつけた。
そこには、赤ペンで付箋がびっしりと貼られた、営業部の経費精算書類の束があった。
「はい、五十嵐さん。おはようございます。いつも経費のチェック、ありがとうございます」
私は、口角を完璧な角度に上げた「営業スマイル」で立ち上がった。
――朝からキツめのシャネルを振りまきやがって。ここはキャバクラじゃないんだよ、香水公害。
「あのねぇ、佐々木さん。私、何度も言ってるわよね? 佐藤課長のこの接待交際費、参加者の人数と名前の記載がないじゃない。それから田中のこの交通費! 新幹線じゃなくて特急を使った理由書が添付されてないわよ。どうして営業部の事務は、こうも数字にだらしないのかしら」
「申し訳ございません。私の確認不足でした。すぐに課長と田中くんに確認し、修正いたします」
私は深々と頭を下げた。
実際、悪いのは100%佐藤課長と田中である。しかし、彼らは「経理部に怒られるのは嫌だ」という理由で、書類の提出をギリギリまで引き延ばした挙げ句、私に丸投げして逃亡しているのだ。
五十嵐は満足そうに鼻を鳴らし、私の顔をじろりと見た。
「そういえば佐々木さん、あなたまたドラッグストアの安いリップ使ってる? なんだか唇の色がくすんで見えるわよ。若いんだから、もっと自分に投資しなさいな。ほら、私のこれ、新作の限定色なんだけど、やっぱり発色が全然違うのよ」
彼女は自分のふっくらとした(ヒアルロン酸注入疑惑のある)唇を指差し、勝ち誇ったように微笑んだ。
「まあ、素敵な色ですね! 五十嵐さんのような洗練された大人の女性だからこそ似合うお色です。私なんて、まだまだそんな高級品を使いこなせる器じゃありませんから」
――てめえの顔面への投資額なんて知るか。仕事中にプライベートのマウント取ってこないと死ぬ病気なのか?
「ふふっ、そう? まあ、せいぜい頑張って書類直しておいてね。今日の午後三時までに再提出。一分でも過ぎたら、今月分の精算は来月に回すから」
五十嵐はそう言い捨てると、再び香水の残り香とヒールの音を撒き散らしながら、経理部のシマへと帰っていった。
私は笑顔のまま彼女の後ろ姿を見送り、そして、誰にも見えない角度で中指を立てた。
午後1時:迷宮の探索
昼休み。私はオフィスの自席でコンビニのおにぎりを齧りながら、猛烈な勢いでパソコンのキーボードを叩いていた。
佐藤課長と田中の書類は、午前中のうちに本人たちを問い詰め、完璧に修正を終わらせている。
私が今見ているのは、社内の経費精算システムだ。
「……なるほどね」
私はモニターを見つめながら、冷たい笑みを浮かべた。
ここ数ヶ月、五十嵐の嫌がらせじみた差し戻しはエスカレートしていた。営業部の経費は重箱の隅をつつくようにチェックするくせに、彼女自身は毎晩のように「残業」を理由にタクシー帰りをしている。
しかも、彼女のデスクには、会社が購入するはずのない高級な「ブランドもののペン立て」や、やたらと高価な「エルゴノミクス(人間工学)チェア」が置かれているのだ。
私は、事務職特有の権限を利用して、過去一年分の「経理部発信の備品購入履歴」と「交通費精算データ」を抽出した。
――数字は嘘をつかないのよ、五十嵐さん。
エクセルにデータを流し込み、ソートをかける。
見えてきたのは、見事なまでの「公私混同」の数々だった。
五十嵐の深夜タクシーの降車履歴は、彼女の自宅とは全く違う方向――港区の高級ラウンジや、特定のレストランが集中するエリア――を頻繁に指し示している。
さらに、「部署用・来客用茶菓子代」として計上されている領収書の発行元は、彼女がよくインスタグラムにアップしている、銀座の高級洋菓子店ばかりだ。
極めつけは、「オフィス環境改善備品」として申請されている謎の品目。金額と日付から照合すると、彼女が自慢げにデスクに置いているあのブランド品の小物類とピタリと一致する。
「他人に厳しく、自分に激甘。典型的な特権階級の勘違いね」
来週、我が社には年に一度の「外部監査」が入る。
監査部が目を光らせているこのタイミングで、これほど美味しい爆弾はない。
私は、手元のキーボードを叩くスピードをさらに上げた。
感情は一切交えない。ただひたすらに、客観的な事実と数字だけを積み上げ、「完璧な報告書」を作り上げるのだ。
午後2時45分:完璧な「質問状」
午後三時の締め切りまであと十五分。
私は分厚いクリアファイル――修正済みの営業部の経費精算書類――を抱え、経理部へと足を運んだ。
「五十嵐さん。ご指定の通り、すべて修正いたしました」
五十嵐はパソコンの画面から目を離さず、気怠そうに手を差し出した。
「置いておいて。後でチェックするから。また不備があったら、容赦なく突き返すわよ」
「はい。よろしくお願いいたします。……あの、五十嵐さん」
私は、この世で最も無垢で、熱心な後輩の顔を作って首を傾げた。
「実はいま、経費のルールについて、どうしても分からないことがありまして」
「はあ? なによ。マニュアル読めばわかるでしょ」
「それが、マニュアルには書いていないんです。私、五十嵐さんのように完璧な経費処理ができるようになりたくて、過去のデータで勉強させていただいていたんですが……」
私は、持っていた別の薄いファイルを開き、一枚の紙を五十嵐のデスクにそっと置いた。
そこには、私が昼休みにまとめた、五十嵐の「不自然な経費データ」のリストが印刷されていた。
「これ……港区方面への深夜タクシー代や、高額な洋菓子代、そして『オフィス環境改善備品』の詳細なんですが。私、営業部でもこれらを経費で落とせるように課長に提案したいんです! つきましては、どのような名目で申請すれば受理されるのか、ぜひ経理部の『お手本』として教えていただけないでしょうか?」
五十嵐の目が、紙に印刷されたデータに釘付けになった。
みるみるうちに、彼女の顔から血の気が引いていく。完璧に塗られたファンデーションの下が、土気色に変わるのが分かった。
「なっ……あ、あなた、これ……」
「もちろん、私の一存では判断できませんので」
私はニコリと笑い、自分のスマホの画面を彼女に見せた。
「先ほど、社内メールで『経費申請の適用範囲に関するご質問』として、このデータを監査部と、念のため役員の皆様にもCCでお送りしておきました。来週の監査を前に、全社で正しいルールを共有すべきだと思いまして!」
「は……!? な、なにやってんのよ! あんた、バカじゃないの!?」
五十嵐がヒステリックな声を上げ、立ち上がった。経理部の他の社員たちが何事かと振り返る。
「えっ? 私、何か間違ったことしましたか? 五十嵐さんがいつも『1円の不正も許さない』と仰っているから、私もその志に倣おうと思っただけで……」
「ふざけないで! すぐに送信取り消しをしなさい! 今すぐに!!」
五十嵐が私の肩を掴もうとした、その時だった。
「五十嵐主任。ちょっとよろしいですか」
経理部の入り口に立っていたのは、スーツ姿の男たち。社内のコンプライアンス統括部と、監査部の面々だった。彼らの手には、私が先ほど送信したメールのプリントアウトが握られている。
「先ほどの佐々木さんからのメールについてですが……ここに記載されている備品購入履歴とタクシーの利用履歴について、至急、別室で詳しいお話を聞かせていただけますか」
男たちの冷たい声に、五十嵐はその場にへたり込みそうになった。
「ち、違います! これは、その、接待というか、部署のための……!」
「詳しいことは別室で伺います。ご同行を」
両脇を固められるようにして、五十嵐は会議室へと連行されていった。
彼女が去った後の経理部は、水を打ったように静まり返っていた。
私は、残された経理部の若手社員に向かって、深くお辞儀をした。
「お騒がせして申し訳ありません。営業部の経費精算書類、置いておきますので、お手すきの際にご確認をお願いいたします」
私は振り返り、自分のフロアへと歩き出した。
五十嵐の香水の匂いは、もうすっかり消え去っていた。
午後7時:美しき白ホッピー
金曜日の夜。
オフィスビルを出た私は、いつものように新橋のガード下へと向かった。
足取りは、今朝五十嵐が鳴らしていたヒールの音よりも、ずっと軽やかだった。
ガラリと引き戸を開ける。
「大将! 白ホッピーセット、中多めで!」
「おう、奈緒ちゃん! 今日も一週間お疲れさん!」
カウンターに座り、おしぼりで手を拭く。
今日は格別に気分がいい。午後、五十嵐はそのまま荷物をまとめて早退したという噂が流れてきた。おそらく、来週には役職を外されるか、あるいはもっと重い処分が下るだろう。
「おまち!」
ドン、と置かれたホッピー。
私はグラスを持ち上げ、蛍光灯の光に透かして見た。
「……乾杯」
冷たい液体を喉の奥へと流し込む。
全身にアルコールが染み渡っていく。
――ああ、美味い。
私は、五十嵐のあの引きつった顔を思い出した。
他人の金(経費)で買ったブランド品で身を固め、他人のミスを叩いて優越感に浸る。そんな薄っぺらいプライドなんて、たった一枚の「事実」を突きつけるだけで、簡単に崩れ去るのだ。
「自分の稼いだ金で飲む酒が、一番美味いに決まってんのよ」
私は独り言のように呟き、名物のモツ煮込みを頬張った。
隣の席で競馬新聞を広げている常連のオッサン――ゲンさんが、私を見てニカッと笑った。
「おう、ねーちゃん! 今日はえらくいい笑顔じゃねえか。なんかいいことあったか?」
「ええ、まあ。ちょっとだけ、職場の空気が綺麗になったので」
「そりゃあいい! じゃあ、景気づけに俺の奢りだ! 大将、こっちのねーちゃんに中おかわり!」
「ありがとうございます、ゲンさん! いただきます!」
私は満面の笑みで、ゲンさんのグラスと乾杯した。
オフィスの「微笑みの仮面」ではない、本物の笑顔。
――さて、来週は誰を処刑してやろうか。
私は、ホッピーの濃いアルコールの中で、次の獲物の顔を思い浮かべながら、最高の週末のスタートを切った。




