第3話:地獄の釜の底で踊るパチンカスと、炎上する加工モンスター
午後0時15分:パチンカス、地獄の釜茹で
「さ、佐々木さん……! 大門産業の購買部長様から、ものすごい剣幕でお電話が……。田中さんを出せって、怒鳴られてまして……」
「大門産業さん? 田中くんの担当ね。彼、今日は午後出社じゃなかったかしら」
「そうなんですけど……! 『金曜日に必ず連絡すると言ったのに、どういうことだ! 責任者を直ちに出せ!』って……」
私は困ったように眉をひそめ、あえて少し大きめの声で答えた。
「あら、大変。田中くんったら、金曜日の外回りから戻った後、『大門産業の件は、僕が全責任を持って今日中に対応します』って、頼もしいメールを先方に送っていたのに……」
――ええ、送ったわ。私がね。金曜の午後二時、お前がパチンコ屋で新台のハンドルを握りしめている真っ最中に。
「ど、どうしましょう! 僕じゃ対応できません!」
「落ち着いて。私が代わるわ。田中くんが戻り次第、すぐに対応させるとお伝えして、一旦お預かりしましょう」
私は新人に微笑みかけ、内線を取った。大門産業といえば、業界でも有名なクレーマー気質の顧客だ。一度火がついたら、担当者が土下座するまで許さないことで知られている。
保留を解除した瞬間、受話器から鼓膜を破らんばかりの怒声が響いた。
私は一切の感情を交えず、ただただ「田中が戻り次第、必ず」「誠心誠意」という言葉を、マニュアル通りに、しかし徹底的に冷たい声で繰り返し続けた。先方の怒りのボルテージが最高潮に達するよう、絶妙な間を取りながら。
電話を切る頃には、フロア中の視線がこちらに集まっていた。
「……というわけです、課長」
私は、顔面蒼白で立ち尽くす佐藤課長に向かって、事の顛末を(先方の怒りを三割増しにして)報告した。
「た、田中は!? あいつ、午後から来るって言ってたよな!?」
「はい。ですが、先方は『一分一秒でも早く担当者からの連絡を求めている』と仰っていました。会社の信用問題に関わるかと存じます」
――さあ、どうする? 決断力ゼロの佐藤課長。お前の可愛い部下が、会社に特大の損害を与えようとしているぞ。
その時、オフィスのエントランスのドアが開き、田中が能天気な顔で入ってきた。
「おざーっす。いやー、午前中、役所の手続きで手間取っちゃってさー」
寝癖の残る頭を掻きながら、田中は呑気に自分のデスクへ向かう。彼が席に着く前に、佐藤課長の悲鳴のような怒声が飛んだ。
「た・な・かぁぁぁっ!! お前、大門産業さんになにやったんだ!!」
「え? 大門……? なんですか、急に」
「向こうの部長さんが大激怒してるんだよ! 金曜日に連絡するって言って、すっぽかしただろ!!」
田中の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「えっ……いや、そんなはずは。金曜は午後から新規開拓で……」
「嘘をつけ! 佐々木さんが、お前が『全責任を持って対応する』ってメール送ってるの確認してんだよ!」
田中が信じられないという顔で私を見る。
私は、心の底から心配しているという風を装い、両手を胸の前で組んでみせた。
「田中くん……私、心配してたのよ? 金曜日の午後、あなたが急いで外に出た後、あなたのパソコンを見たら大門産業さんへのメールが書きかけで開いていたから。私、気を利かせて送っておいたの。だって『責任を持って対応する』って書いてあったから……。まさか、その後対応していなかったなんて……」
「なっ……! お前、勝手に……!」
「え? 私、何か間違ったことしちゃった? ごめんなさい、田中くんを助けたくて……」
私は少しだけ目を伏せ、傷ついたような表情を作った。
周囲の社員たちは完全に「親切心で手伝った奈緒を責める、無責任な田中」という構図で彼を見ている。
「バカヤロウ! 佐々木さんを責めるな! そもそもお前がちゃんとやっていれば済んだ話だろうが! 今すぐ大門産業へ飛んでいけ! 土下座でもなんでもしてこい!!」
課長の怒鳴り声に背中を押され、田中はジャケットを掴んで再びオフィスを飛び出していった。その足取りは、パチンコ屋へ向かっていた金曜日とは打って変わって、死地へ向かう兵士のように重かった。
――いってらっしゃい、田中くん。大門産業の購買部長は、パチンコ台の激アツ演出よりずっと怖いから、せいぜい頑張ってね。
午後3時:加工モンスターのデジタルタトゥー
田中がオフィスに程よい緊張感をもたらした午後。私は自分の業務を前倒しでこなしながら、パソコンの端に小さく開いたブラウザのタブを監視していた。
表示されているのは、今日からスタートした新規プロジェクトの公式X(旧Twitter)アカウントだ。
そして、その「中の人」に抜擢されたのが、我が後輩・美香である。
『若者の感性で、ウチの会社の古臭いイメージを払拭したいの』という私の提案(という名の罠)に、彼女はまんまと乗った。
「私、バズらせるの得意ですからぁ!」と豪語していた彼女は、午前中からスマホを片手に社内をウロウロし、写真を撮りまくっていた。
午後三時。ついに、そのアカウントに動きがあった。
【プロジェクト公式】
『今日はプロジェクトのキックオフ!✨ 先輩たちと頑張ります うちの会社、おじさんばっかりだけど、私が可愛くしちゃいますよん♡ #新規事業 #OLの日常 #おじさん構文ムリ』
添付された画像には、会議室のホワイトボードの前でピースサインをする美香の自撮り。
そして、その後ろのホワイトボードには……。
――ビンゴ。
私は口角が上がりそうになるのを必死で堪えた。
ホワイトボードの端に、未発表の取引先リストと、次期製品の社外秘コードネームが、バッチリと、しかも高画質で写り込んでいたのだ。
さらに「おじさん構文ムリ」というハッシュタグが、コンプライアンス的に絶妙に火種となる。
私はすぐさま、この投稿のURLをコピーし、社内のコンプライアンス統括部の専用フォームへと匿名で送信した。件名は『新規プロジェクト公式アカウントによる重大な情報漏洩の疑い』。
ものの十分後だった。
私の斜め前の席でスマホをいじっていた美香が、「えっ?」と小さな声を上げた。
「奈緒さぁん……なんか、変なんですけど……」
「どうしたの、美香ちゃん? アカウント、好評?」
私は優しく声をかけた。美香の目は、金曜日のエクセル入力ミスの時とは比べ物にならないほど、パニックで見開かれている。
「なんか……リプライがいっぱい来てて……。『これ、社外秘じゃないの?』とか、『コンプラ意識どうなってるんだ』とか……えっ、RTが止まらない……ぴえん、どうしよう……」
「えっ、見せてごらん」
私はわざとらしく身を乗り出し、彼女のスマホ画面を覗き込んだ。
すでに通知欄は地獄の様相を呈していた。まとめサイトのアカウントが食いつき、いわゆる「特定班」が過去の彼女の個人の裏垢(これも私は把握済みだ)との紐付けを開始している。
「あらら……これ、後ろのホワイトボードの文字、見えちゃってるわね。それに、このハッシュタグは少し軽率だったかもしれないわ」
「だって! 奈緒さんが、若者の感性で自由にやっていいって言ったじゃないですかぁ!」
美香が泣き叫ぶように私を睨んだ。
私は、すっと目を細め、声のトーンを一段階落とした。
「私が言ったのは『感性』の話よ、美香ちゃん。情報管理のルールを破っていいなんて、社会人として誰も言わないわ。それとも、美香ちゃんはルールを教えてもらわないと分からないの?」
「うぅっ……」
「それに、投稿前に誰かに確認してもらった? 課長とか」
「してないですぅ……私が担当だから、私に任せるって……」
「そう。じゃあ、全責任は美香ちゃんにあるわね」
私が冷酷な事実を告げた瞬間、フロアの奥から、足音荒く近づいてくるスーツ姿の集団があった。
コンプライアンス統括部の面々だ。その中には、血相を変えた佐藤課長も混ざっている。
「君か! 新規プロジェクトのSNS担当の美香というのは!」
「ひっ……!」
「ただちに投稿を削除しなさい! 君、自分が何をやったか分かっているのか!? 取引先からのクレームが入り始めているんだぞ!」
大の大人の本気の怒声に、美香はついに泣き崩れた。
「ぴえん」などという可愛いものではない。鼻水を垂らしながらの、本物の号泣だ。
「スマホを貸しなさい! アカウントのパスワードは!? すぐに謝罪文を出す!」
統括部の人間たちに囲まれ、美香は震える手でスマホを差し出した。
佐藤課長は「私、聞いてませんよ! あいつが勝手に!」と見苦しい言い訳を叫んでいるが、管理責任を問われるのは確実だ。
私は、その阿鼻叫喚の騒ぎから少しだけ椅子を引き、自分のパソコンの画面に向き直った。
午後5時30分:微笑みの聖域へ
「お疲れ様でした」
定時のチャイムが鳴り終わると同時に、私は誰よりも早く、そして誰よりも美しく一礼をした。
オフィスは、嵐が過ぎ去った後の焼け野原のようだった。
佐藤課長は始末書の作成に追われ、目はうつろ。
市川さんはデジタル化への抗議文を書いていたようだが、途中で諦めて肩を落としている。
大門産業から戻ってきた田中は、魂を抜かれたようにデスクに突っ伏し、ピクリとも動かない。
そして美香は、別室での厳しい事情聴取からまだ解放されていなかった。
誰一人として、私に「あれをやっておいて」と声をかける余力などない。
――完璧だ。
エレベーターホールに向かいながら、私は自然とこぼれそうになる笑みを必死に抑えた。 私の手は汚れていない。私はただ、「ごく自然な親切」と「会社のルール」を適用しただけだ。彼らが勝手に、自分の重みで自滅していったに過ぎない。
ビルの外に出ると、夕暮れの風が心地よかった。
月曜日の夕方。普通なら「あと四日もある」と絶望する時間帯だが、今日の私には全く違う景色に見えた。
私はスマホを取り出し、いつもの『今週のクソ語録』のメモ帳を開く。
そして、全員の項目に「済」のスタンプ絵文字を打ち込み、ファイルを削除した。
足取りは軽く、向かう先は決まっている。
新橋のガード下。煙の匂いが染み付いた、あの赤提灯だ。
ガラリと引き戸を開ける。
「いらっしゃい! おっ、奈緒ちゃん! 今日は早いねえ! 月曜から飛ばすね!」
「大将、こんばんは! いつもの! 白ホッピーセット、中多めで!」
カウンターに座り、ホッピーが運ばれてくるのを待つ。
私の「微笑みの仮面」は、今週も完璧な仕事をした。明日からはまた、優しくて、気が利いて、絶対にNOと言わない「佐々木奈緒」として、焼け野原になったオフィスで優雅に立ち振る舞うのだ。
「おまち! 月曜からお疲れさん!」
ドン、と置かれた冷えたジョッキ。
私はそれを両手で包み込むように持ち上げた。
「……乾杯」
誰にも聞こえない声で呟き、冷たい液体を喉の奥へと流し込む。
明日も、明後日も、私はこの聖域のために微笑み続ける。
地獄のようなオフィスで、誰よりも美しく、誰よりも残酷に。




