第2話:週末の残り香と、月曜日のエレガントな処刑
土曜と日曜:泥のような安息日
「……んあ」
土曜日の午後一時。遮光カーテンで完全に日光を遮断した薄暗い部屋で、私はようやく重い瞼を開けた。
ベッドから這い出し、足元に転がっていた毛玉だらけのグレーのスウェットパンツに両足を突っ込む。洗面所へ向かう鏡に映ったのは、ボサボサの髪に、見事なすっぴんを晒した二十八歳の干物女だ。
「よし。今日の生産性はゼロでいく」
私は鏡の自分に向かって力強く宣言した。
金曜日の夜、新橋の赤提灯でホッピーの「中」を三杯おかわりした私は、どうやって帰ってきたのかも曖昧なままベッドに倒れ込んでいた。
冷蔵庫を開け、炭酸水を一気飲みする。それからスマホを手に取り、見慣れたデリバリーアプリを開いた。
注文するのは、チーズがたっぷりと乗ったLサイズのジャンクなピザと、フライドポテトのセット。カロリー? 栄養バランス? そんなものは平日のランチでサラダボウルを齧っている「佐々木奈緒」に任せておけばいいのだ。
ピザが届くまでの間、私は部屋のど真ん中に鎮座する「人をダメにするクッション」に深く身を沈めた。
テレビをつけ、動画配信サービスで海外ドラマのシーズン3を一気見する。誰にも愛想笑いをしなくていい。誰の顔色も窺わなくていい。理不尽な指示出しも、ネチネチとした小言も、エクセルのエラー音も存在しない。
この徹底的に堕落した週末こそが、私が月曜日から再び「完璧なOL」として戦うための、かけがえのないライフラインだった。
そして日曜日の夜、午後九時。
私は長風呂から上がり、入念なスキンケアを行いながら、鏡の前でゆっくりと「微笑みの仮面」を装着していく。
頬の筋肉を持ち上げ、口角を完璧な角度に固定する。声のトーンをワントーン上げ、優しく、しかし毅然とした響きになるよう調整する。
――さて、明日は忙しい月曜日だ。
私は脳内の『処刑リスト』を反芻した。
まずは、無責任な丸投げ上司。次に、昭和の遺物お局。そして午後には、サボり魔の同期と、SNS中毒の加工モンスター。
全員、私が仕掛けた罠の真上で、間抜けな顔をして週末を過ごしたことだろう。
「ふふっ……」
鏡の中の私は、ひどく冷たく、そして美しく微笑んでいた。
月曜・午前9時:佐藤課長の「いい感じ」の末路
月曜日の朝は、特有の重苦しい空気がオフィスに漂う。
しかし、今日の私は違った。完璧にアイロンがけされたブラウスに身を包み、抽出したてのドリップコーヒーの香りを楽しみながら、午前九時からの部内会議に出席していた。
会議の終盤、佐藤課長が咳払いをし、自信満々に立ち上がった。
「えー、次に、来期の営業戦略に関する資料ですが。私が週末に……コホン、私が部下の佐々木と協力してまとめたものを、皆様のお手元のタブレットに配布しました」
金曜日の午後、私に「適当にいい感じにやっといて」と丸投げしてきた例の資料だ。
会議室の奥で、腕を組んでタブレットを眺めていた営業部長が「ほう」と声を上げた。
「おっ。佐藤君、今回の資料はなかなか良いじゃないか。特にこの、新規顧客層へのアプローチ方法の変更案。私が前から君に指摘していた『従来通りの飛び込み営業の削減』が、ようやく反映されているね」
部長の言葉に、佐藤課長の顔がピクリと引きつった。
無理もない。その「飛び込み営業至上主義」こそが、佐藤課長が長年こだわり続け、前回の会議で熱弁を振るっていた彼自身の基本方針だったのだから。
「あ、いや……それはですね、部長。その、柔軟性を持たせるというか……」
「いい決断だ、佐藤君。君もようやく自分の古いやり方を捨てて、私の意見を取り入れる気になったんだな。これなら役員会議にも出せる。この方向で進めたまえ」
「は、はい……ありがとうございます……」
課長は額にじっとりと汗を浮かべながら、引きつった笑いを浮かべていた。
私は手元のタブレットを見つめながら、必死で笑いを堪えていた。
――おめでとう、佐藤課長。あなたが「いい感じに」と言ったから、私は部長の好みに100%寄せた、あなたの過去の提案を全否定する素晴らしい資料を作ってあげたのよ。
会議が終わって自分のデスクに戻ると、案の定、佐藤課長が血相を変えて小走りでやってきた。
「な、奈緒ちゃん! ちょっと!」
「はい、課長。お疲れ様でした。部長にもお褒めいただき、良かったですね」
私は120点の笑顔で彼を迎えた。
「よくないよ! なんだよあの資料! 僕の意図と全然違うじゃないか! 僕はずっと飛び込み営業の重要性を説いてきたのに、あれじゃあ僕が完全に意見を翻したみたいじゃないか!」
「えっ……? そうでしたか?」
私はわざとらしく目を丸くし、デスクの引き出しから、クリアファイルに入れた一枚の紙を取り出した。
金曜日の夕方、私が彼に送った確認メールをプリントアウトしたものだ。
「私、方向性が間違っていてはいけないと思い、金曜日にこちらのメールをお送りしましたよね。『以下の方向性で進めてよろしいでしょうか』と。CCには部長も入れさせていただきました」
私はその紙を、両手で恭しく佐藤課長の目の前に差し出した。
「そして課長からは、『この方向で問題ない。いい感じだ』と、明確にご返信をいただいております。課長の大切なご指示でしたので、すぐに確認できるよう、こうして手元に印刷して置いておりました」
「なっ……!」
課長はプリントアウトされた自分の返信メールを見て、言葉を失った。
――お前がろくに読みもせず、「いい感じだ」なんて定型文で返したからだろ。このメールという名の印籠の威力を思い知れ。
「部長の手前、今から『やっぱり間違えてました』とは言えませんよね……? どうしましょう、私が資料を作り直して、部長に謝罪に行きましょうか? 『課長はメールを読んでいなかっただけなんです』って」
「い、いや! それはダメだ! 君が謝る必要はない!」
「そうですか? でも……」
「いい! このままでいい! あとのフォローは僕がやるから!」
佐藤課長は、逃げるように自分のデスクへと戻っていった。
自分自身の無責任な「OK」のせいで、彼はこれから先、部長の顔色を窺いながら、自分の信念とは真逆のプロジェクトを進めなければならないのだ。
――ご愁傷様。自分の吐いた「いい感じ」という言葉の責任、たっぷりと味わってね。
午前11時:市川さんの「マニュアル」炎上
佐藤課長を片付けた後、私は軽やかな足取りで大会議室へと向かった。
午前十一時からは、月に一度の全社連絡会だ。そして今日の目玉は、社内で発足した「DX推進プロジェクト」の活動報告だった。
私は若手リーダーとして指名され(もちろん自分から周到に根回しして立候補したのだ)、スクリーンを背にしてマイクを握った。
「――以上のように、我が社においても業務の効率化、ペーパーレス化は急務です。そこで、推進プロジェクトの第一弾として、あの歴史ある『社内マナーマニュアル』の完全デジタル化、並びに、時代にそぐわない項目の大幅削減を実施いたします!」
私が高らかに宣言すると、会議室が少しだけざわついた。
私は視線を、前列に座っている市川さんへと向けた。彼女の顔は、親の仇でも見るかのように険しくなり、土気色に変わっていた。
「これまで、新入社員に分厚い紙のバインダーを配り、各自で管理させていましたが、本日よりすべて社内クラウドで共有します。検索機能を使えば、必要なマナーがわずか一秒で分かります!」
パチパチパチ、と若手社員たちから拍手が起こる。
市川さんは膝の上で拳を強く握りしめ、ワナワナと震えていた。彼女にとって、あの分厚い紙のマニュアルは、自分の社内での権威を象徴する「聖書」のようなものだったのだ。
会議が終わり、社員たちが三々五々散っていく中、私はわざわざ市川さんの席へと足を運んだ。
「市川さん! お疲れ様です!」
私は、この世で最も無邪気で、悪意のない後輩の顔を作って微笑みかけた。
「さきほどの発表、聞いていただけましたか? 私、市川さんが長年かけて作ってくださったあの素晴らしいマニュアルを、クラウド上でいつでも、誰でも検索できるようにしたんです!」
「さ、佐々木さん……あなた、勝手なことを……」
「勝手だなんて! 市川さんの知恵を全社員で共有するための第一歩ですよ。ああ、それから……」
私は、市川さんのデスクの横に鎮座していた、ボロボロのバインダー――紙のマニュアルの原本――に手を伸ばした。
「もうこの古い紙媒体は不要ですので、私の方でシュレッダーにかけておきますね! いつまでも古い紙に頼っていては、運気が逃げちゃいますからね。あ、もちろん、手垢やホコリがつかないように、丁寧に処理しますのでご安心を!」
「あっ……ちょっと、待ちなさい……!」
市川さんが手を伸ばしたが、私は彼女に反論の隙を与えなかった。
「それでは、失礼いたします!」
深々と、完璧な角度でお辞儀をし、私はバインダーを胸に抱えてその場を去った。
背後から、市川さんの絶望に満ちた小さなため息が聞こえた気がした。
――さようなら、お局妖怪。あなたの依り代は、今から電子の海に沈めて、物理的にも粉砕してあげる。あとはあなたが浄化されて、大人しくなるのを待つだけだわ。
午後0時15分:嵐の前の静けさ
午前中のタスク(という名の処刑)を完璧にこなし、私は自席で一息ついていた。
佐藤課長は未だに頭を抱え、市川さんは抜け殻のように虚空を見つめている。
月曜日の午前中としては、これ以上ないほどエレガントな成果だ。
「ふふっ……」
さて、優雅にお弁当でも食べようかと思った、その時だった。
フロアの静寂を切り裂くように、営業部のシマでけたたましく電話が鳴り響いた。
「は、はい! 株式会社……ええっ!? い、いえ、あの、少々お待ちください!」
電話を取った入社二カ月目の新人が、まるで幽霊でも見たかのように顔を引きつらせている。彼は保留ボタンを叩き割らんばかりの勢いで押し、小走りで私のデスクへとやってきた。
「さ、佐々木さん……! 大門産業の購買部長様から、ものすごい剣幕でお電話が……。田中さんを出せって、怒鳴られてまして……」
私は困ったように眉をひそめた。
「あら、大変。田中くんったら、金曜日に『自分が責任を持って対応する』って言っていたのに……」
口では心配そうに言いながら、私の心臓は歓喜のビートを刻み始めていた。
――さあ、サボり魔のパチンカス。地獄の釜の蓋が開いたわよ。




