第39話:疑心暗鬼と、黒幕の致命的な誤算
東京都内の高級オフィス街にそびえ立つ、外資系アクティビストファンド「ヴァルチャー・パートナーズ」日本支社の会議室。
代表の斑目恭一は、テーブルの上に並べられた3つの報告書を前に、鋭い鷹のような目を細めていた。
「……間違いないんだな。これは」
「はい、斑目代表」
斑目の部下である情報アナリストが、興奮を抑えきれない様子で頷いた。
「まず、ターゲット企業の第3営業課に所属する女性社員のSNS画像。背景にぼやけて写り込んでいた文字列を解析したところ、社内サーバーの特定のURLの一部であることが判明しました」
部下は、美香のネイル写真の拡大パネルを指し示す。
「さらに昨晩、新橋の居酒屋に潜入させていた工作員が、同課の男性社員(田中)が泥酔して『うちの会社、A社と提携が進んでる』と漏らしたのを録音しています」
「極めつけは、同課の元課長(佐藤)です。私たちのコンサルタントが会食で煽てたところ、見栄を張って『俺はZドライブの隠しディレクトリにアクセスできる。パスワードはこれだ』と、あっさり自白しました」
アナリストは、キーボードを叩き、会議室のメインモニターに「ある書類」を投影した。
「これら3つの情報を組み合わせ、システムに侵入した結果……このファイルを引き抜くことに成功しました」
モニターに映し出されたのは、『世界的な大手総合商社・A社による、友好的TOBおよび巨額の資本業務提携の合意ドラフト』。
白鳥室長が魂を込めて作り上げた、特大の毒餌である。
「なっ……! A社だと……!?」
斑目は、その書類の精緻な内容と、買収プレミアムの莫大な金額を見て、顔面を蒼白にさせた。
「馬鹿な……! もし本当にA社がホワイトナイトとして名乗りを上げれば、資金力で我々に勝ち目はない! それどころか、これまで高値で買い集めたターゲットの株は、TOB不成立によって大暴落し、我々のファンドは数百億円規模の致命的な含み損を抱えることになるぞ!」
斑目の額から、嫌な汗が吹き出す。
「代表! この提携が公式発表される前に、我々がダミー口座を使って持ち株をすべて売り抜ければ、損失は回避できます! さらに、A社の株を空売り(ショート)して……」
「馬鹿野郎!! それは完全にインサイダー取引(違法行為)だろうが!!」
斑目は机を強く叩いて部下を怒鳴りつけた。
普段は脅迫やグレーな手法を平気で使う彼だが、金融商品取引法違反という「決定的な一線」を越えることのリスクは、誰よりも理解している。
「……待て。落ち着け」
斑目は、深く息を吸い込み、冷徹なハゲタカの目を取り戻した。
「この情報……あまりにも、都合が良すぎないか? いくらなんでも、これほど重大な機密情報が、たった一つの部署の末端社員たちから、こうもポンポンと同時多発的に漏れてくるものか?」
斑目のプロとしての直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。
「もしこれが、現経営陣……結城専務や白鳥室長が我々をハメるために仕掛けた『ハニーポット(罠)』だとしたら? 我々がこの情報を信じて株を不自然に売却した瞬間、インサイダー取引として当局にタレ込まれるぞ」
「罠……ですか? しかし、漏洩元となったあの3人の社員の態度は、極めて自然で、演技には到底見えなかったと工作員は報告していますが……」
「演技のプロを雇ったのかもしれん。……ええい、自分たちだけで判断するのは危険だ。すぐに『あの方』に指示を仰ぐ!」
斑目は、部下たちを退出させると、最高レベルの暗号化回線を使って、とある人物へと通話を発信した。
***
同時刻。
誰も知らない高級ホテルのスイートルーム。
薄暗い部屋の中で、分厚い革張りのソファに深く腰掛けた「黒幕」の男が、スマートフォンを耳に当てていた。
「……なるほど。A社によるホワイトナイトの計画書、か」
男の低く冷酷な声が、静かな室内に響く。
『はい。ですが、情報源が末端の社員3名から同時に漏れたという点が、どうにも不自然でして……。結城や白鳥が、我々にインサイダーを誘発させるために仕掛けた罠の可能性を危惧しております』
電話越しの斑目の報告を聞き、男は手元のタブレットを操作した。
「情報元となった、その3人の社員の名前を言え」
『はっ。第3営業課の、佐藤、田中、美香という3名です』
男は、独自の情報網からハッキングして入手していた「ターゲット企業の人事評価データ」の検索窓に、その3人の名前を打ち込んだ。
モニターに、彼らの過去数年間の評価履歴、業務態度、懲罰歴などのデータがズラリと並ぶ。
男は、そのデータを上から下まで舐め回すように読み進め……やがて、フッ、と鼻で笑った。
「……斑目。お前の懸念は杞憂だ。罠などではない」
『ほ、本当ですか!? しかし……』
「彼らの過去の評価データを見た。過去に重大な発注ミスによる降格、常習的な怠慢と遅刻、SNSの不適切利用による炎上未遂……。奴らは正真正銘、救いようのない『純度100%の無能』だ」
男は、クリスタルグラスに入ったウイスキーを揺らしながら、冷酷な資本家の声で断言した。
「いいか、斑目。結城や白鳥のような合理的なエリートが、もし高度な情報戦(罠)を仕掛けるなら、絶対にこんな『いつ暴走するか分からない無能』を囮のキャストには選ばない。万が一、彼らが予測不能な行動をとって計画が破綻するリスクが高すぎるからだ」
男のロジックは、一般常識や組織論に照らし合わせれば、あまりにも「正論」だった。
「罠を仕掛けるなら、口の堅い優秀なエージェントを使うはずだ。……つまり、この情報漏洩は、本物の無能たちが自らの愚かさゆえに引き起こした『天然の事故』だ。これほど信憑性の高い情報はない」
『な、なるほど……! おっしゃる通りです! さすがは……!』
男は、冷たく命令を下した。
「躊躇している暇はない。A社との提携が公式発表されれば、我々の計画はすべて水の泡になる。……直ちに海外のダミーファンドを動かし、損失を回避するための『空売り』と『持ち株の売却』を急げ。法的なグレーゾーンなど気にするな、手段は選ぶな」
『承知いたしました! 直ちに実行に移します!』
通話が切れ、静寂が戻ったスイートルームで、男は満足げにウイスキーを飲み干した。
「……結城、白鳥。貴様らの脇の甘さが命取りになったな。新橋の再開発は、私のものだ」
男は、自分が完璧な勝利を手にしたと確信していた。
――彼が参照したデータが、「過去」の真実であったがゆえに。
もし彼が、ほんの数週間前、奈緒が白鳥の目を欺くためにシステム上に仕込んだ「田中=極秘プロジェクトの特命社員」という『偽情報のデータ』まで深く掘り下げて見ていれば。
『この無能なはずの男が、なぜ特命社員の権限を持っている? これは意図的に作られた囮(罠)だ!』と、危険を察知できたかもしれない。
しかし、男は自らの「無能な人間を極度に軽視する傲慢さ」ゆえに、データの表面だけを撫でて満足してしまった。
そして何より、男は知らなかったのだ。
この世には、その「純度100%の無能」の習性を完璧に計算し尽くし、手足のように操って見えない毒牙を突き立てる、恐ろしい「見えざる処刑人」が存在していることを。
黒幕の致命的な誤算により、ハゲタカたちは自ら、奈緒たちが口を開けて待つ地獄の釜(インサイダー取引の実行)へと、その身を躍らせたのだった。




