第38話:無能という名の極上ルアー
美香が嬉々としてSNSに「匂わせ写真」を投稿した数時間後。
私は、二人目のターゲットである同期の田中を「無自覚なスパイ」へと仕立て上げるための行動を開始した。
昼休みが終わり、社員たちが徐々に席に戻り始める時間帯。
私はわざと自分のデスクのモニターに、白鳥室長が作成した「A社との資本提携ドラフト」のダミーデータを全画面で表示させておいた。
そして、田中が給湯室からコーヒーを持って戻ってくるタイミングを見計らい、わざとらしく「あっ!」と小さな声を上げて、慌てて画面を別のウィンドウで隠した。
「ど、どうしたんですか佐々木さん? なんか凄い慌てて……」
田中が、不思議そうに私のデスクを覗き込んでくる。
「い、いえ、何でもありません! ただの……タイピングミスです」
私は動揺したフリをして視線を泳がせた。
しかし、田中の目は、私が隠しきれなかった画面の端の文字――『A社(世界最大手商社)による友好的TOB』という衝撃的な単語を、確かに捉えていた。
「えっ……? 今の画面、A社って……TOB!? まさか、うちの会社、外資に買収されるんじゃなくて、超大手のA社に助けてもらうんですか!?」
田中が興奮して声を上げそうになった瞬間、私は「しーっ!!」と人差し指を唇に当て、鬼気迫る表情で彼を睨みつけた。
「田中さん! 今のは絶対に、誰にも言わないでください! これは一部の役員しか知らない、会社の命運を分ける超極秘情報なんです! もし漏れたら、私たち全員クビどころじゃ済みませんからね!!」
私は、彼の肩を強く掴み、ガタガタと震える「怯えたOL」を完璧に演じきった。
「わ、分かりました……っ! 誰にも言いません! 絶対に内緒にしますから!」
田中は顔面を蒼白にして何度も頷き、自分の席へと逃げ帰っていった。
『……ふふっ。「絶対に内緒にして」という言葉ほど、口の軽い人間にとって我慢できない呪いはないのよ』
特に田中は、酒が入るとすぐに気が大きくなり、会社の愚痴や噂話を社外の友人にベラベラと喋り散らす悪癖がある。
現在、会社の周辺の居酒屋やバーには、斑目ファンドが雇った工作員や探偵たちが、社員の愚痴から情報を引き出そうと多数潜伏しているという情報は、ゲンさんから確認済みだ。
『さあ田中さん。今夜の飲み会で、見ず知らずの聞き上手なサラリーマンに、得意げに「うちの会社、実はA社と繋がってるんだぜ」って自慢してきなさい』
私はほくそ笑みながら、最後にして最大のターゲット――元課長の佐藤へと照準を合わせた。
***
同日の夕方。
私は、佐藤がデスクで優雅にゴルフ雑誌を読んでいるところへ、分厚いファイルを持って近づいた。
「佐藤さん、お疲れ様です。少しご相談があるのですが」
「おお、佐々木くん! どうしたね、この僕の高度な知見が必要なトラブルでも起きたかな?」
降格した今でも「自分は特別な存在だ」と信じて疑わない佐藤の虚栄心を、私は最高の笑顔でくすぐった。
「はい、実は……。現在、社内システムの移行期間で、役員専用のアーカイブフォルダへのアクセスが制限されているのですが……佐藤さんのアカウントだけは、過去の課長権限の特例として、特別に閲覧権限が残されているようなのです」
「おっ? ほほう、なるほど! まあ、僕ほどの男になれば、システム側も重要人物として認識しているということだな! ガハハ!」
私は、バカみたいに胸を張る佐藤に、一枚のメモ用紙をそっと手渡した。
「そこで、どうしても確認したい過去のデータがありまして……。この『Zドライブの隠しディレクトリ』に、このパスワードを使ってアクセスしていただけないでしょうか? 佐藤さんの特別な権限でしか開けないのです」
そのメモに書かれているのは、白鳥室長が用意したバックドアを開けるための「パスワードの断片」だった。
「なるほどなるほど、この僕にしかできない極秘任務というわけだね! よし、任せておきたまえ!」
佐藤はメモをポケットにねじ込み、意気揚々とパソコンに向かった。
「ありがとうございます、佐藤さん。……あっ、そういえば佐藤さん、今夜は取引先のB社様とゴルフの打ち合わせも兼ねた会食でしたよね?」
「うむ! 向こうの若手コンサルタントが、どうしても僕のビジネス哲学を聞きたいと言ってきてね。まあ、少しばかり経営の神髄を語ってこようと思っているよ!」
『若手コンサルタント……。ええ、間違いなく斑目のファンドが差し向けた、情報を引き出すための工作員ね』
私は、完璧な尊敬の眼差しを佐藤に向けた。
「さすが佐藤さんです。でも、佐藤さんは会社の重要なシステム権限を持たれている特別な方ですから……くれぐれも、お酒の席で『自分はZドライブの隠しディレクトリに入れる』なんて、具体的なアクセス経路を自慢したりしないでくださいね?」
「ハッハッハ! 馬鹿を言いたまえ佐々木くん! 僕がそんな情報管理の基本を破るわけがないだろう! 安心して留守を任せるんだな!」
佐藤は意気揚々とジャケットを羽織り、夜の街へと出撃していった。
***
誰もいなくなった定時後のオフィス。
私は一人、自席で紅茶を啜りながら、スマートフォンのシークレットチャットを開いた。
【奈緒】:白鳥室長、紗耶室長、結城専務。……3つのルアーの投下、すべて完了いたしました。
すぐに、3人からの返信が続く。
【紗耶】:お疲れ様、佐々木さん! 監視網の準備もバッチリよ。いつでも来なさいって感じね!
【白鳥】:……本当に、これで彼らが情報を漏らすのか?
【奈緒】:ご安心ください。美香のSNSの画像(URLの断片)、田中の飲み屋でのリーク(A社の名前)、そして佐藤の会食での自慢話(アクセス経路とパスワード)。……それぞれ単体ではただのノイズですが、プロの工作員がこれら3つを繋ぎ合わせれば、必ず一つの『バックドア』へと到達します。
私は、窓ガラスに映る自分の冷たい微笑みを見つめた。
【奈緒】:彼らは、自分が囮にされていることすら気づかず、100%の善意と見栄で情報を漏らします。……どれほど疑り深いハゲタカであろうと、「本物の無能がやらかした天然の漏洩」を罠だと見抜くことは、絶対に不可能です。
さあ、斑目恭一。
私たちが用意した、無能という名の極上ルアー。
あなたたちの情報網は、果たしてこの「特大の毒餌」をスルーすることができるかしら?




