第36話:極秘の作戦会議と、インサイダーの誘発
その日の午後遅く。
結城専務の執務室に呼び出された白鳥圭は、防音扉が完全に閉められた室内で、専務から驚くべき提案を聞かされていた。
「――以上だ、白鳥くん。正攻法では、もはや斑目の暴走を止めることはできない。そこで我々は、斑目に致命的な『インサイダー取引』の罠を仕掛け、当局の手によって彼らを一網打尽にする裏の防衛策を実行に移したい。……君の経営企画室長としての実務能力を、ぜひ貸してほしいのだ」
結城専務の真剣な眼差しを受け、白鳥はゴクリと唾を飲み込んだ。
「インサイダー取引の誘発……。確かに、斑目のような強欲な男を確実に排除するには、金融商品取引法違反で市場から退場させるのが最も合理的です。ですが専務、そのような高度な情報戦のシナリオを、一体誰が立案したのですか?」
白鳥の問いに、結城専務は少しだけ目元を緩め、静かに答えた。
「……第3営業課の、佐々木奈緒くんだよ」
「――――っ!!」
その名前を聞いた瞬間、白鳥の背筋を、電流のような衝撃が駆け抜けた。
『やはりか……!! やはり、結城専務と佐々木奈緒は裏で深く繋がっていたんだ! 先日の役員会議での鮮やかなカウンターも、すべてはあの女と専務が最初から描いていたシナリオ通りだったということか……!』
白鳥の脳裏に、あの穏やかで無害そうな事務職OLの微笑みがフラッシュバックする。
先週、自分を恐怖のどん底に突き落とし、「絶対に関わってはいけない」と心に誓ったばかりの相手。
「白鳥くん。君が彼女に対して、複雑な思いを抱いていることは察している」
結城専務が、白鳥の心を見透かしたかのように言葉を継いだ。
「だが、彼女は紛れもなく我が社の味方だ。そして今、斑目に会社を乗っ取られれば、我が社は解体され、君が心血を注いで達成しようとしている『ストックオプション』の権利も、すべて灰燼に帰すことになる」
「…………」
「彼女の頭脳と、君の完璧な実務能力が合わされば、斑目など恐れるに足りない。……どうだろう、ここは一つ、彼女と手を組んでみないかね?」
白鳥は、目を閉じて深く思考を巡らせた。
プライドや恐怖といった感情をすべて排し、純粋な「損得」と「ロジック」だけで天秤にかける。
『……答えは明白だ。このまま正攻法に固執すれば、私のストックオプションが消滅する確率は90%以上。だが、あの「見えざる処刑人」である佐々木奈緒が仕掛ける罠に乗れば……勝率は劇的に跳ね上がる!』
敵に回せば、これほど恐ろしい死神はいない。
だが、同じ目的(斑目の排除)を共有する「味方」としてこれほど頼もしい怪物もまた、存在しないのだ。
白鳥は目を開き、冷徹な戦略家の顔に戻って深く頷いた。
「……承知いたしました、結城専務。私の持てるすべての権限とスキルを使い、その作戦に全面協力いたします」
***
同日の午後6時過ぎ。
定時を過ぎて人の気配が消えた本社ビルの一角、役員フロアの奥にある「特別応接室」に、結城専務、紗耶室長、そして白鳥の3人が集まっていた。
白鳥が腕時計に目を落とした、ちょうどその時。
コン、コン、と控えめなノックの音が響き、ドアが静かに開かれた。
「お疲れ様です。お待たせしてしまい、申し訳ございません」
入ってきたのは、ベージュの清楚なオフィスカジュアルに身を包んだ、私――佐々木奈緒だった。
「ああ、佐々木さん、よく来てくれたね。さあ、こちらへ座ってくれ」
「ありがとうございます、結城専務、紗耶室長」
私はにこやかに会釈をすると、長机の向かい側に座っている白鳥へと視線を向け、これ以上ないほど丁寧で美しいお辞儀をした。
「白鳥室長、先日は面談のお時間をいただきありがとうございました。このような形で再びご一緒できて、大変光栄です」
「……ええ、こちらこそ。あなたの実力は、私もよく理解しているつもりですよ、佐々木さん」
白鳥は立ち上がって礼を返したものの、その頬はわずかに引きつり、私を見る瞳の奥には明確な「畏怖」の色が浮かんでいた。
『ふふっ、すっかり警戒されちゃっているわね。でも、自分の利益のためにプライドを捨てて頭を下げられるあたり、やっぱり彼は本物のエリートだわ。氷室や堂島とは大違いね』
私は内心で満足げに頷くと、持参したタブレット端末をテーブルの中央にあるモニターへと接続した。
「それでは早速ですが、お時間も限られておりますので、ヴァルチャー・パートナーズ代表・斑目恭一氏を排除するための具体的なプロセスについて、ご説明させていただきます」
私が画面をタップすると、モニター上に複雑な相関図とタイムラインが表示された。
私は、普段の事務作業の引き継ぎでもするかのような、穏やかで澄み切った声で説明を開始した。
「まず、斑目氏の弱点は、目標達成のためなら違法行為も厭わない『傲慢さ』と『強欲さ』です。現在、彼は私たちの防衛策をすべて潰し、勝利を確信して気が大きくなっています。……そこへ、一発で形勢が逆転するような『特大のインサイダー情報』をぶつけます」
「特大のインサイダー情報、というと?」
白鳥が、身を乗り出して画面を見つめる。
「はい。私たちがシステム上に構築するダミーの極秘計画――それは、『世界的な大手総合商社・A社による、我が社への友好的TOBおよび巨額の資本業務提携の合意』です」
「なるほど……!」
白鳥の目が、鋭く光った。
「もし本当にそのような巨大資本がホワイトナイトとして現れれば、我が社の株価はストップ高となり、斑目のファンドは資金力勝負で完全に敗北する。しかも、彼がこれまでに高値で買い集めた株は、TOBの不成立によって莫大な含み損を抱えることになる……!」
「おっしゃる通りです、白鳥室長」
私は微笑んで頷いた。
「もし斑目氏が、その『公式発表前の極秘情報』を裏ルートから事前に入手したらどう動くでしょうか? 彼はパニックに陥り、損失を回避するために、発表前にダミーファンドを使って持ち株を違法に売り抜ける(インサイダー取引)か、あるいはA社との契約を破棄させるために、より凶悪で直接的な『脅迫・強要行為』に打って出るはずです」
「そして、その瞬間を我々が完璧な証拠として押さえ、当局に突き出すわけね!」
紗耶室長が、目を輝かせて拳を握った。
「はい。そのために、ここにいる4名の役割を明確に分担させていただきます」
私はモニターの図を指し示した。
「まず、結城専務には、このダミーの『A社との資本提携プロジェクト』を、社長および専務直轄の『公式な極秘案件』として承認していただきます。そして紗耶室長には、当局や外部の調査機関と連携し、斑目氏のファンドの口座の動きを24時間体制で監視・記録する包囲網を敷いていただきます」
「うむ、そこは私と紗耶に任せてくれ」
「そして、この罠の心臓部となるのが、白鳥室長のお力です」
私が白鳥を見つめると、彼はゴクリと息を呑んだ。
「白鳥室長には、経営企画室長としての知識と権限をフル活用し、投資銀行出身の斑目氏が見ても100%本物だと確信するレベルの『A社との資本提携シミュレーションおよび契約書ドラフト』を作成していただきます。そしてそれを、社内サーバーの最深部にある極秘フォルダへと格納していただきたいのです」
「……ふむ。精巧なダミー資料の作成自体は、私にかかれば一晩で可能だ」
白鳥は顎に手を当て、冷静なプロフェッショナルの顔で疑問を呈した。
「だが、佐々木さん。最大の課題は『どうやってそのデータを、斑目に不自然さなく盗み見させるか』だ。いくら私がシステム上に抜け道を用意しても、相手も裏工作のプロだ。簡単にアクセスできすぎれば、『これは経営陣が仕掛けたハニーポット(罠)ではないか』と疑うはずだが?」
「ええ、まさにそこが一番の肝でございます」
私は、口角をほんの少しだけ深く持ち上げた。
表向きは天使のような笑顔のまま、私は部屋の中の温度が数度下がるような、冷徹な策を口にした。
「白鳥室長や結城専務のような『優秀な人間』が情報を漏らせば、相手は必ず罠だと警戒します。……ですから、その極秘情報は、絶対に高度な情報戦などできっこない『純度100%の無能たち』の、どうしようもなく愚かなミスによって偶然漏洩したように見せかけるのです」
「……えっ?」
白鳥と紗耶室長が、同時に目を丸くした。
「純度100%の無能たち、って……まさか」
「はい。我が第3営業課が誇る、佐藤さん、田中さん、美香さんの3名です」
私は、心底嬉しそうに両手を合わせた。
「佐藤さんの『根拠のない虚栄心』。田中さんの『お酒が入るとすぐに口が軽くなる怠慢さ』。そして美香さんの『SNSでの致命的な匂わせ癖』……。彼らには、自分たちが極秘プロジェクトの末端に関わっていると錯覚させ、それぞれの『無能な本能』に従って、斑目氏の工作員たちの目の前に、自然な形で情報のパンくずを落としてもらいます」
「なっ…………」
白鳥は、開いた口が塞がらないといった様子で、呆然と私を見つめていた。
『……バケモノだ。この女は、自分が普段介護しているあの救いようのない無能な社員たちの「欠陥」すらも、すべて計算可能な「兵器」として完全に掌握しているというのか……!』
白鳥の心の声が聞こえてきそうなほど、彼の顔には戦慄と、ある種の感動すら浮かんでいた。
「彼ら3人は、自分たちが囮にされていることすら気づきません。心から純粋に、自分の見栄や承認欲求のために情報を漏らすのです。……どれほど疑り深いハゲタカであろうと、『本物の馬鹿がやらかした天然の情報漏洩』を、高度な罠だと見抜くことは絶対に不可能です」
静まり返った特別応接室に、私の優しい声が鈴のように響いた。
「いかがでしょうか、白鳥室長。この計画なら、あなたのストックオプションも、私の平穏な定時退社も、すべて完璧に守り抜くことができますが」
「…………ふっ。ははは、いや、参りましたよ」
白鳥は、額に手を当てて乾いた笑いを漏らすと、すぐに鋭い眼光を取り戻して私を見据えた。
「完璧なロジックと、完璧な配役だ。いいでしょう、佐々木さん。システム上のバックドアの構築とダミー資料の作成は、私が責任を持って完璧に仕上げます」
「ありがとうございます、白鳥室長。頼りにしておりますね」
こうして、会社の命運と私の「楽園」を懸けた、4人の共犯者たちによる極秘の処刑プロジェクトが、静かに動き出したのだった。




