第35話:正攻法の限界と、奈緒の進言
外資系アクティビストファンド「ヴァルチャー・パートナーズ」による敵対的TOBの発表から、二週間が経過した。
社内の空気は、かつてないほどの緊張と焦燥に包まれている。
「さ、佐々木さん……っ! け、今朝の経済ニュース見ましたか!? ヴァルチャー側の株の買い進めが止まらなくて、うちの会社の株がまた乱高下してるって……!」
「ネットの掲示板でも、『あの中堅商社はもう終わりだ』『乗っ取られたら不採算部署から全員クビだ』って書かれてますぅ……! 私、来月からどうやって生きていけばいいんですかぁ……っ!」
第3営業課のフロアでは、田中と美香が毎朝のようにパソコンの画面にかじりつき、青白い顔で悲鳴を上げていた。
無理もない。斑目恭一が率いるファンドは、連日のようにメディアを通じて現経営陣の無能さを糾弾し、「不採算部門の徹底的な切り捨て」を公言しているのだ。
社内でも一番の赤字お荷物部署であるこの第3営業課が、リストラ対象の一番手であることは誰の目にも明らかだった。
しかし、そんなパニック状態の二人をよそに、元課長の佐藤だけは今日も優雅にコーヒーを啜っていた。
「ふっ、田中くんも美香ちゃんも、相変わらず視野が狭いねぇ。いいかい、相手は外資系だよ? つまり、年功序列ではなく『実力主義』の世界だ!」
佐藤は自信満々に胸を張り、謎の理論を展開し始める。
「ファンドの連中が経営権を握れば、僕のように大局的な視点を持った真のグローバル・リーダーが正当に評価されるようになる! いやぁ、いきなり本社の執行役員あたりに抜擢されたら、英語のスピーチを練習しておかないといけないなぁ! ガハハ!」
『……ええ、あなたが英語でスピーチをする機会なんて一生来ないから安心なさい。外資の連中が真っ先に切り捨てるのは、あなたみたいな「実務ゼロで給料だけ高い勘違いおじさん」なのよ』
私は内心で氷のように冷たくツッコミを入れつつ、表向きは「佐藤さんのポジティブさには、いつも勇気づけられますね」と、模範的な微笑みを返しておいた。
そして、自席のモニターに視線を戻し、デスクの下でこっそりとスマートフォンの画面を確認する。
そこには、赤提灯の頼れる情報屋――ゲンさんとマキさんから届いた、斑目恭一に関する「裏の調査報告」が表示されていた。
【ゲン】:奈緒ちゃん、斑目の動きを洗ってみたが……あいつは相当なワルだぜ。表向きは市場ルールに則ったTOBを装ってるが、裏じゃやりたい放題だ。お前の会社の安定株主だった取引先の社長連中に、探偵を使って捏造スキャンダルを突きつけて脅したり、機関投資家の担当者に裏金を握らせて株を売るように強要してやがる。
【マキ】:法務面から見ても真っ黒よ! 複数のダミーファンドを経由して、大量保有報告書の提出義務を逃れながら違法に株を買い集めてる形跡があるわ。ただ、海外のタックスヘイブン(租税回避地)をいくつも噛ませているせいで、外側からじゃ決定的な証拠が掴めないのよね。
『……なるほど。脅迫、贈賄、そして相場操縦スレスレの違法な株集め。絵に描いたようなハゲタカね』
私はスマートフォンの画面を消し、アールグレイの紅茶を一口含んだ。
『でも、相手がそういう「非合法な手口」を平気で使う連中なら、むしろ好都合だわ』
先日の白鳥室長のように、完璧に「合法の壁」の中に引きこもっている相手を崩すには、かなりの手間と心理戦が必要だった。
しかし、斑目のように自らの欲望のためにルールを破る人間は、これまでの堂島や氷室と同じだ。
『彼らが一番欲しがる「極上のエサ」を目の前にぶら下げて、言い逃れのできない致命的な違法行為を自ら踏み抜かせればいい。……そう、私の得意分野ね』
***
同じ頃、本社最上階の役員会議室。
買収防衛対策本部のリーダーを務める結城専務と、実務の陣頭指揮を執る白鳥室長は、深刻な面持ちで最新の株主名簿を見つめていた。
「……ダメだ。長年、我が社と持ち合い株で良好な関係を築いてきた『東都物流』までもが、ヴァルチャー側のTOBに応募する意向を示してきた……」
結城専務が、苦渋に満ちた声で呻いた。
傍らに立つ社長室長の結城紗耶も、悔しそうに唇を噛み締めている。
「そんな……! 先週私が直接お伺いした時は、東都物流の社長は『絶対に結城専務を支持する』と仰っていたのに! どうしてこんな急に手のひらを返すの……!?」
「……おそらく、斑目の裏工作です」
タブレットを操作していた白鳥が、普段の穏やかさを完全に失った、低く険しい声で言った。
「東都物流だけではありません。ここ一週間で、我々のホワイトナイト(友好的な買収者)候補だった企業や、安定株主だった地方銀行が、まるで何かに怯えるかのように次々と連絡を絶っています。斑目のファンドが、非合法な脅迫や裏取引を用いて、株主たちを強引に切り崩しているのは間違いありません」
「くっ……! 汚い真似を……! だが、それを証券取引等監視委員会に訴え出るための証拠がないのだ!」
結城専務が机に拳を置いた。
正攻法の防衛策――増資による株式の希薄化や、友好的な第三者割当増資などは、すべて斑目側の巧妙な法廷戦術と、株主たちへの裏工作によって悉く封じ込められていた。
白鳥の額には、焦燥の汗が滲んでいる。
『まずい……! このペースで株を買い集められれば、来月の臨時株主総会を待たずして、ヴァルチャー側に過半数を握られる! そうなれば経営陣は総退陣、私のストックオプションも完全に紙切れだ……!』
白鳥の脳内で、これまで培ってきたあらゆるM&A防衛のロジックが高速で回転する。
しかし、相手が「法律やルールを無視した暴力」を振るってきている以上、白鳥の得意とするクリーンで合法的なロジックだけでは、どうしても防ぎきれない限界があった。
『毒を制するには、毒をもってするしかないのか……? いや、私にはそんな裏社会のノウハウも、非合法な罠を仕掛けるための手駒もない……!』
完全な袋小路。
結城専務も、紗耶も、そして白鳥も、刻一刻と迫る「会社の死」を前に、打つ手を失いかけていた。
***
その日の昼休み。
私はオフィスビルの屋上庭園のベンチに座り、結城専務と紗耶室長との3人だけのシークレットチャットを開いていた。
画面には、紗耶室長からの悲痛なメッセージが並んでいる。
【紗耶】:佐々木さん、状況はかなり絶望的よ……。斑目の裏工作が巧妙すぎて、正攻法の防衛策がすべて潰されてしまったわ。このままでは、あと2週間も経たないうちに会社が乗っ取られてしまう……。
私は、青い空を見上げて深く息を吸い込むと、指先を滑らかに動かして返信を打ち込んだ。
【奈緒】:ご報告ありがとうございます、紗耶室長、結城専務。ですが、どうかまだ諦めないでください。相手が「正攻法」を通さない無法者であるなら、こちらは一番得意なやり方で迎え撃つまでです。
【結城】:一番得意なやり方……? 佐々木さん、君に何か策があるというのかね!?
【奈緒】:はい。斑目氏が裏で脅迫や違法な株集めを行っていることは、私の独自のルートからも確認が取れております。彼らは『勝つためなら手段を選ばない』連中です。ならば、彼らが絶対に食いつきたくなるような「巨大なインサイダー情報(罠)」をこちらから提供し、彼ら自身に決定的な金融商品取引法違反を犯させればいいのです。
画面の向こうで、二人が息を呑む気配が伝わってくるようだった。
【奈緒】:その違法取引の瞬間を、完璧な客観的証拠として記録し、証券取引等監視委員会および警察へ一斉にリークする……。そうすれば、TOBは即座に頓挫し、斑目氏のファンドは市場から永久に追放されます。
【紗耶】:すごい……! いつもの佐々木さんの「自滅誘導」を、あの巨大な外資系ファンド相手に仕掛けるっていうのね!?
【結城】:だが、佐々木さん。相手は百戦錬磨のプロだぞ。並大抵の偽情報では、すぐに見破られてしまうのではないか? それに、全社レベルのダミー案件を作るとなれば、私と紗耶だけでは実務が追いつかないが……。
『ええ、その通りよ。だからここで、あの「ロジックの怪物」に舞台へ上がってもらうの』
私は口元に、優雅で冷酷な笑みを浮かべた。
【奈緒】:おっしゃる通りです、専務。斑目氏の目を欺くほど精巧な「ダミーの経営計画」をシステム上に構築するには、経営企画のプロフェッショナルの力が不可欠です。……ですので、この作戦にはぜひ、経営企画室の『白鳥圭室長』を引き入れていただきたいのです。
【紗耶】:えっ!? し、白鳥室長を!? でも彼、つい先週まで佐々木さんの部署を解体しようとして、佐々木さんとバチバチにやり合っていた相手じゃない! 信用できるの!?
【奈緒】:ご安心ください。白鳥室長は、感情ではなく『自己の利益とロジック』だけで動くお方です。現在、斑目氏に会社を乗っ取られて一番困っているのは、数億円規模のストックオプションを失うことになる白鳥室長ご本人のはずです。
私は、確信をもって言葉を続けた。
【奈緒】:正攻法が通じず、追い詰められている今の彼に、専務から『斑目を確実に排除するための裏の作戦がある』と持ちかければ……彼は自身の利益を守り抜くため、100%の確率で私たちの共闘相手になります。そして実務能力において、彼ほど頼りになる味方はいません。
しばらくの間、チャット画面に『入力中…』の表示が点滅していたが、やがて結城専務から力強い返信が届いた。
【結城】:……なるほど。昨日の敵は今日の友、か。確かに、白鳥くんの優秀さと、ストックオプションへの執着心を利用しない手はないな。分かった、佐々木さん。今日の午後、私から直接、白鳥くんに極秘で声をかけてみよう!
【奈緒】:ありがとうございます。それでは、本日の定時後、誰にも知られない場所で『4人だけの作戦会議』を開きましょう。……ハゲタカを落とすための、最高のレシピをご用意してお待ちしております。
私はスマートフォンを閉じ、ランチのサンドイッチを一口かじった。
『ふふっ、白鳥室長。あなたが私の顔を見た時、どんな表情をするのかしら。……楽しみで仕方がないわ』




