第34話:白鳥の勘と、ハゲタカの飛来
二度目の臨時役員会議が終了し、重苦しい沈黙の中で重役たちが退室していく中、白鳥圭は自分の席からしばらく立ち上がることができなかった。
彼のワイシャツの背中は、絞れるほどの冷たい汗でびっしょりと濡れていた。
結果だけを見れば、佐藤の不当解雇は寸前で回避され、「役員会議の勇み足とシステムバグによる誤認」という形で幕を引いた。
白鳥自身は、最初の会議で「偽情報の可能性がある」と明確に予防線を張っていたため、公式な処罰を受けることは免れた。
だが――。
「……不確かなバグデータを役員会議に上げたことで、私の社内での評価には少なからず傷がついた。そして何より、第3営業課の解体計画そのものが『無期限凍結』になってしまった……」
白鳥は、誰もいなくなった大会議室で、微かに震える自らの拳を握り締めた。
しかし、彼の全身を支配していたのは、計画が頓挫したことへの悔しさではなかった。
底知れない、絶対的な「恐怖」だった。
『もしあの時、私が結城専務に相談せず、自分の判断だけであの3つのデータに飛びついていたら、どうなっていた……?』
白鳥の脳裏に、鮮明な破滅のシミュレーションが浮かび上がる。
もし、役員会議に諮るというクッションを挟まず、経営企画室長としての権限で佐藤や美香を呼び出し、あのデータを突きつけて退職を迫っていたら。
その瞬間に、あの「完璧な無実の証明データ」がどこからともなく提出され、白鳥一人が「捏造されたバグデータを使って社員を不当に追い詰めようとした悪質な犯罪者」として、全ての罪を被ることになっていたのだ。
「……偶然なわけがない。先月のサーバー移行時のバグ? そんなものが、私の検索スクリプトの網にちょうど引っかかるタイミングで、しかも3人分同時に発生するはずがないのだ……!」
白鳥は立ち上がり、窓の外に広がる都会のビル群を呆然と見つめた。
「すべては、計算されていたのだ。私が面談で3人に絶望することも。私が裏取りのためにサーバーの深層へ潜ることも。そして、見つけたデータに飛びつけば破滅し、警戒して役員会議に投げても再編計画が凍結されるという、この『二重の袋小路』すらも……!」
白鳥の脳裏に、昨日の面談で深々と美しいお辞儀をして去っていった、一人の事務職OLの姿が蘇る。
『少しでも白鳥室長のお役に立てれば幸いです』
あの穏やかで、どこまでも無害そうな微笑み。
「佐々木奈緒……! あの女が、この私と役員会議のすべてを手玉に取って踊らせたというのか……!?一体何のために?」
一切の証拠はない。
ログをどれだけ洗っても、彼女が不正にアクセスした痕跡など微塵も出てこないだろう。
だが、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた白鳥の「野生の勘」が、脳内でけたたましくサイレンを鳴らし続けていた。
『――あの女にだけは、絶対に関わってはいけない。佐々木奈緒と敵対すれば、どれほど完璧なロジックを組もうとも、最後には必ず「自滅」させられるぞ!』
白鳥は、自らの喉元を撫でた。
首の皮一枚で生き残った自分の幸運に震えながら、彼は「第3営業課の解体」という選択肢を、自らの脳内から永久に消去することを固く誓った。
***
その日の夜。
都内の超高級ホテルのスイートルーム。
重厚な革張りのソファに深く腰掛けた「黒幕」の男は、手元のタブレットに表示された報告書に目を通し、不快そうに眉をひそめていた。
『……なんだと? あの中堅商社の組織再編計画が、突如として凍結されただと?』
男は、グラスの中の琥珀色の液体を荒々しく揺らした。
当初の計画では、堂島という取締役を使って社内を掌握し、新橋の雑居ビルに入っている赤提灯の居酒屋を立ち退かせるはずだった。
しかし堂島は、謎の詐欺案件に自ら首を突っ込んで自滅。
その後も、社内の組織再編の混乱に乗じて新たな傀儡(手駒)を見つけ出そうと様子を窺っていたのだが、その再編自体がピタリと止まってしまったのだ。
『なぜだ……。なぜ、たかが一介の中堅商社ごときが、こうも私の思惑通りに動かない? 新橋の再開発プロジェクトは、すでに巨額の資金が動いているのだ。これ以上スケジュールを遅らせるわけにはいかん!』
男の瞳に、冷酷で凶暴な光が宿る。
彼にとって、原因の分析などどうでもよかった。
自分の計画を裏でことごとく粉砕している「見えざる処刑人(佐々木奈緒)」の存在に気づくこともないまま、男は盤面そのものを力ずくで破壊する決断を下した。
『社内からの切り崩しや、組織再編を待っていては時間がかかりすぎる。……もはや、小細工は不要だ』
男はスマートフォンを手に取り、ある電話番号を発信した。
ワンコールで繋がった電話の向こうへ、男は低く冷たい声で命じる。
『――私だ。斑目。例の商社の件だが、フェーズを最終段階へ移行する。お前のファンドの資金力をすべて使い、外からあの会社を丸ごと飲み込め。手段は選ばなくていい。……1ヶ月以内に、経営陣をすべてすげ替えろ』
電話を切った男は、夜景を見下ろしながら冷酷に口角を上げた。
『外からの圧倒的な「資本」の暴力には、いかなる社内の論理も通用しない。……これで終わりだ』
***
週が明けた、月曜日の朝。
第3営業課には、再びあの穏やかで怠惰な「楽園の空気」が完全に復活していた。
「いやぁ、聞いたかいみんな! 経営企画室の白鳥くんが提案していた我が部署の解体案、役員会議で『時期尚早』として凍結されたそうだよ! ははは、やはり上層部も、僕のこの卓越したマネジメント体制を崩すのは会社にとって大損害だと気づいたんだね!」
自分が懲戒解雇の危機に瀕していたことすら全く知らない佐藤が、今日も今日とてパターを片手に高笑いを響かせている。
「よ、良かったぁ……っ! 第1営業課に行かなくて済むんですね、佐々木さん!」
「これも全部、佐々木さんがいつも私たちを優しくサポートしてくださるおかげですぅ!」
田中と美香も、心底ホッとした表情で私のデスクへと駆け寄ってくる。
「ええ、本当に良かったですね。これからも皆さんと一緒にお仕事ができると思うと、私も嬉しいです」
私は模範的な笑顔で二人と喜びを分かち合いながら、内心で優雅に紅茶の香りを楽しんでいた。
『ふふっ、白鳥室長も、あれ以来すっかり大人しくなったみたいね。これでしばらくは、私の定時退社を脅かす邪魔者は現れないかしら』
――しかし。
そんな私のささやかな期待は、その日の午後、会社全体を揺るがす「巨大すぎる黒船」の襲来によって、あっけなく打ち砕かれることになった。
午後2時。
突如として、社内の広報システムおよび全ての経済ニュースサイトに、緊急の速報が駆け巡ったのだ。
『【速報】外資系アクティビストファンド「ヴァルチャー・パートナーズ」、中堅商社に対し敵対的TOB(株式公開買付け)を開始! 経営陣の総退陣と、不採算部門の徹底的なリストラを要求!』
「な、なんだってえええええっ!?」
フロアのあちこちから、社員たちの悲鳴のような叫び声が上がった。
同じ頃、本社最上階の応接室では、結城専務と白鳥室長を前にして、オールバックに仕立ての良いスーツを着込んだ50代の男――ファンド日本代表の斑目恭一が、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべてふんぞり返っていた。
「結城専務。無駄な抵抗はやめることです。市場は、我々ヴァルチャー・パートナーズによる抜本的な改革を歓迎している。……大人しく経営権を譲渡していただきたい」
「斑目氏……! 事前の協議もなしに、いきなり敵対的TOBを仕掛けてくるとは、あまりにも暴力的ではないか!」
結城専務の厳しい声にも、斑目は鼻で笑って葉巻の煙を吐き出す真似をした。
「資本主義とは、そういうものですよ。我々はすでに御社の株式を15%取得している。残りの過半数を買い集めるための資金は、いくらでも用意してあるのです。……我々が経営権を握った暁には、まず手始めに、あの『第3営業課』とかいう寄生虫どもの巣窟から、一人残らずクビを切って差し上げましょう」
隣に立つ白鳥が、ギリッと奥歯を噛み締める。
もし敵対的TOBが成立し、現在の経営陣が刷新されれば、白鳥が保有するストックオプションの契約も紙切れ同然に無効化されてしまうのだ。
そしてその不穏なニュースは、第3営業課の私のパソコンのモニターにも、無機質な文字として映し出されていた。
「さ、佐々木さん……っ! 敵対的TOBって、会社が乗っ取られるってことですよね!? ニュースに『不採算部門の徹底的なリストラ』って書いてありますよぉ……!」
「お、俺たち、今度こそ本当にクビになっちゃうんですかぁ……っ!?」
再びパニックに陥り、涙目で取り乱す田中と美香。
私は、画面に映し出された「斑目恭一」という男の傲慢そうな顔写真を、じっと見つめていた。
『……敵対的TOB。直近の不自然な出来事を思い返せば、社内の人間を使った工作がことごとく失敗したと考えるべきね。そして、今度は外部の圧倒的な「資本」を使って、会社ごと力ずくでねじ伏せに来たと考えれば辻褄が合うわ』
私の瞳の奥から、スッと感情の温度が消え去っていく。
『第3営業課の解体ですって? 冗談じゃないわ。ただ、そんな事の為に、ここまで大掛かりな動きをする訳がないわ。恐らく、裏で糸を引いている連中の目的は、「新橋のビル(赤提灯)」の地上だわ』
私は、誰にも気づかれないように、デスクの下で静かに拳を握った。
『……いいわ、ハゲタカさん。あなたが何百億円の資金を持っていようと、どれだけ巨大な権力を振りかざそうと関係ない。私の定時退社と白ホッピーを邪魔するなら、その翼、根元から綺麗にへし折ってあげる』




