第33話:役員会議の暴走と、結城の暗躍
結城専務の執務室を後にした白鳥は、自室のデスクに戻ってもなお、深い思考の迷宮から抜け出せずにいた。
モニターの画面には、依然として佐藤の不正発注ログ、美香と武田部長の不倫疑惑データ、そして田中の極秘タスクフォース権限という「3つの異常なデータ」が表示されている。
『佐々木奈緒という社員には、少し警戒した方がいいかもしれないぞ』
『関わろうとした人間は、皆ことごとく不運な自滅を遂げて会社を去っている』
結城専務のあの静かな警告が、白鳥の脳内で何度もリフレインしていた。
「……やはり、これらをそのまま鵜呑みにして、私の独断で彼らに解雇や処分の通告を行うのは危険すぎる」
白鳥は、冷たく湿った手でマウスを握り直した。
「特に、田中の特命社員データについては、結城専務自身が『知らない』と明言した。つまり、このデータが何者かによって後からシステムに仕込まれた『偽情報』である確率は極めて高い。……そして、一つが偽物なら、残りの二つも罠だと考えるのが論理的だ」
もし白鳥が自分の権限で佐藤や美香を糾弾し、後から「それは捏造されたデータだった」と判明すれば、白鳥自身がコンプライアンス違反と不当解雇未遂の責任をすべて被ることになる。
それは、彼が命よりも大切にしている「ストックオプションの権利」を永久に失うことを意味していた。
「だが……このまま何もせずに手を引けば、第3営業課の解体は頓挫し、私の再編計画に大きな遅延が生じる。それだけは避けなければならない」
白鳥の鋭い眼光が、3つのデータのうちの一つ――「佐藤の過去の発注ログ」へと注がれた。
「……これだ。美香のスキャンダルは状況証拠に過ぎないが、この佐藤の不正ログだけは、過去の実際の取引データと複雑に絡み合っており、最も信憑性が高そうに見える」
白鳥の脳内で、自身の身を完全に守りつつ、再編計画を前に進めるための「次善のロジック」が組み立てられた。
「私個人の判断で動くからリスクを背負うことになるのだ。ならば、この佐藤のデータだけを『明日の臨時役員会議』に判断材料として提出しよう。もちろん、そのまま事実として報告するのではない。『システム上にこのような不審な痕跡が見つかったが、意図的に作られた偽情報の可能性も否定できないため、慎重な精査が必要である』と、あらかじめ予防線を張った上で提示するのだ」
そうすれば、たとえ後から罠だと判明しても、「私は最初から偽情報の可能性を指摘していた」と言い逃れができる。
逆に、もしこれが本物の不正だった場合は、役員会議の総意として佐藤を合法的に排除できる。
「……完璧だ。これなら、万が一にも私が火傷を負うことはない」
白鳥は、自らの導き出したリスクヘッジ策に満足し、翌日の役員会議に向けた報告資料の作成に取り掛かった。
***
翌日の木曜日、午前。
本社ビルの最上階にある大会議室にて、臨時役員会議が開催された。
長机の周囲には、社長や結城専務をはじめとする重役たちが顔を揃えている。
議題が「組織再編の進捗と、第3営業課の処遇について」に移ると、白鳥は用意していた資料をモニターに投影し、冷静な口調で説明を始めた。
「――以上のように、第3営業課のメンバーをそのまま他部署へ配置転換することには、業務効率の観点から一定のリスクが存在します。そんな中、過去の業務ログを精査していた過程で、同課の佐藤元課長に関する『極めて不審な発注データの改竄痕跡』が発見されました」
役員たちの間に、ざわめきが広がる。
白鳥はすかさず、自らの保身のための言葉を付け加えた。
「ただし、このデータは削除されたキャッシュ領域から不自然な形で復元されたものであり、何者かがシステム上に仕掛けた『ダミーデータ(偽情報)』である可能性も完全には排除できません。したがいまして、直ちに処分を下すのではなく、まずは専門の調査委員会を立ち上げ、慎重に裏付けを取るべきかと愚考いたします」
白鳥としては、これで役員たちも慎重になり、調査という名目で佐藤を一旦業務から外す(隔離する)流れになるだろうと計算していた。
――しかし、白鳥は一つだけ、重大な計算違いをしていた。
それは、この会社の役員たちの多くが、白鳥のように冷静で論理的な人間ではなく、「目先の保身と手柄に飢えた、短絡的な老人たち」であるという事実だった。
「な、なんだと!? 架空発注によるリベートの着服疑惑だと!?」
資料を見た総務担当の常務が、顔を真っ赤にして机を叩いた。
「佐藤といえば、以前にも発注ミスで降格処分になった男だろう! そんな人間が、裏で会社の金を横領していたなど言語道断だ!」
「そうだ! 先日の堂島くんの件といい、氷室くんの件といい、我が社は今、コンプライアンスの徹底が外部から厳しく問われているんだぞ! 調査委員会などという悠長なことをやっていて、もし週刊誌にでも嗅ぎつけられたらどうする!」
「これだけ明確なログの痕跡があるなら、もはや疑う余地はない! 即刻、懲戒解雇処分として膿を出し切るべきだ!」
「……えっ?」
白鳥は、目の前で繰り広げられる役員たちの暴走に、思わず目を丸くした。
「お、お待ちください、常務。先ほども申し上げました通り、このデータはまだ真偽が確定しておらず、罠の可能性も……」
「ええい、白鳥くん! 君は少し慎重すぎるのではないかね! これほど具体的な数字が出ているのだ、火のない所に煙は立たんよ!」
財務担当の専務までもが、白鳥の制止を振り切って声を荒らげた。
彼らにとって、赤字部門である第3営業課の社員を一人でも減らせる「正当な理由」は、喉から手が出るほど欲しい獲物だったのだ。
その時、それまで黙って資料を見つめていた結城専務が、静かに口を開いた。
「……皆さん、少し落ち着かれた方がいい。白鳥くんの言う通り、このデータの残り方には些か不自然な点が見受けられる。裏付けも取らずに解雇を通告するなど、あまりにも拙速ではないかな。私は、即時の処分には反対だ」
結城専務の冷静な指摘に、一瞬だけ会議室が静まり返る。
しかし、すでに興奮状態にあった他の役員たちは、次期社長候補である結城専務に一泡吹かせて主導権を握りたいという思惑も手伝い、強引に多数決へと持ち込んだ。
「いや、ここはスピード感が重要だ! 結城専務には申し訳ないが、多数決を採らせていただく! 佐藤の即日解雇処分に賛成の者は挙手を!」
結城専務を除く、ほぼすべての役員の手が一斉に上がった。
「よし、決まりだ! 人事部を通じて、本日の午後にでも佐藤へ解雇通告を行う! 白鳥くん、君はよくぞこの不正を見つけてくれた!」
「あ……いや、私は……」
白鳥の言葉は、役員たちの満足げな笑い声にかき消された。
彼の張った予防線など誰も聞いてはおらず、事態は白鳥のコントロールを完全に離れ、最悪の方向へと暴走を始めていた。
***
同日の昼休み。
私はオフィスの給湯室で、結城紗耶室長から届いたシークレットチャットのメッセージを見つめ、思わず目を瞬かせていた。
【紗耶】:佐々木さん、緊急事態よ。さっきの臨時役員会議で、白鳥室長があなたの仕掛けた『佐藤の不正発注データ』を提出したわ。白鳥室長自身は「偽情報の可能性があるから慎重に」と進言したらしいのだけれど、他の役員たちがそれに飛びついて暴走し、父(結城専務)の反対を押し切って「佐藤の即日解雇」を議決してしまったの!
『……えっ?』
私は、手にしていたティーカップをソーサーに置いた。
『ちょっと待って。白鳥室長が警戒して手を引くか、あるいは単独で踏み込んで自爆するかのどちらかだと思っていたのに……まさか、役員会議全体が私の撒いた毒餌に丸ごと食いつくなんて!』
予想を遥かに超える重役たちの短絡っぷりに、さすがの私も一瞬だけ呆気に取られた。
このまま佐藤が本当に懲戒解雇されてしまえば、私の大切な「無能な防波堤」が一つ失われてしまう。
『……でも、待って。結城専務が会議の場で、一人だけ明確に「反対」を表明してくださったのよね?』
私の脳内で、この突発的なイレギュラーを「最大の利益」へと変換するための計算が、猛烈なスピードで完了した。
『ふふっ、素晴らしいわ。だったらこの暴走、結城専務の社内での権力を絶対的なものにするための「最高の踏み台」として使わせてもらいましょう』
私はすぐさまスマートフォンを操作し、あらかじめ用意しておいた「あるファイル」を、結城専務と紗耶室長へと送信した。
【奈緒】:ご報告ありがとうございます、紗耶室長。ですが、ご安心ください。佐藤さんが解雇されることはございません。今お送りしたデータを、すぐに結城専務から役員の皆様へ突きつけていただけますでしょうか。
【紗耶】:このデータは……?
【奈緒】:白鳥室長が見つけた『不正ログ』が、実は先月のサーバーメンテナンス時に発生した「キャッシュの結合バグ」による誤表示であり、実際の経理の入金記録および取引先の原本データと照合すれば、佐藤さんが1円たりとも不正をしていないことを完璧に証明する『無実のエビデンス』です。
そう。私は最初から、白鳥室長が罠に掛かった際に「不当解雇」としてカウンターを浴びせるための、完璧な「答え合わせ(無実の証明)」を手元に用意してあったのだ。
【奈緒】:役員会議でただ一人、冷静に反対された結城専務が、この決定的な証拠を提示して会社の危機を救う……。これで、暴走した他の役員の方々は、二度と専務に頭が上がらなくなるはずです。
【紗耶】:……っ! あなたという人は、本当にどこまで先を読んで手を打っているの……!? 分かったわ、すぐに父に渡して、解雇通告をストップさせる!
***
その日の午後一番。
人事部が佐藤を呼び出す直前、結城専務の緊急招集によって、再び役員たちが大会議室へと集められた。
「結城専務、一体なんですかこんな急に! 佐藤の処分なら、もう決定したはずですが!」
苛立たしげに声を上げる常務に対し、結城専務は無言のまま、分厚い検証レポートを全員の席に配らせた。
「……諸君。結論から言おう。先ほど議決された佐藤くんの解雇処分は、直ちに白紙撤回する」
「なっ!? どういうことですか!」
「その資料を見たまえ。私が独自にシステム部門と経理部の原本データを照合させた結果だ。……白鳥くんが発見したあの不審なログは、先月のサーバー移行時に発生したシステムバグによって、全く別のテストデータと結合してしまっただけの『完全な誤表示』だったことが判明した」
「ば、バグだと……!?」
役員たちが、血相を変えて資料をめくる。
そこには、佐藤が担当したすべての取引において、1円の誤差もなく正常に決済が完了していることを示す、銀行の入出金記録と取引先の原本控えが完璧に揃っていた。
「もし、私の制止を振り切って、あのまま佐藤くんに懲戒解雇を通告していたらどうなっていたと思う?」
結城専務の低く威厳に満ちた声が、静まり返った会議室に響き渡った。
「完全に無実である社員を、ろくな裏付けも取らずに犯罪者扱いしてクビにしたのだ。佐藤くんが労働基準監督署や裁判所に駆け込めば、我が社は100%の確率で敗訴し、不当解雇の悪質企業として世間から袋叩きに遭っていただろう。……株価の暴落どころか、経営陣の総退陣に発展していたかもしれないぞ!」
「ぐっ……!」
「そ、そんな……」
先ほど強硬に解雇を主張していた常務や専務たちは、顔面を蒼白にして言葉を失い、ただひたすらに冷や汗を流して俯くしかなかった。
「……白鳥くんも、最初から『偽情報の可能性がある』と警告してくれていたはずだ。にも関わらず、目先の感情で暴走し、会社を破滅の淵に追いやろうとした諸君らの責任は極めて重い」
結城専務は、青ざめる役員たちをぐるりと見渡し、静かに宣告した。
「今回の件で、第3営業課に関するデータの精査がいかに不十分であるかが露呈した。よって、同課の解体を含む組織再編計画は、すべての安全性が確認されるまで『無期限の凍結』とする。……異論のある者はいるかね?」
誰も、声を上げる者はいなかった。
ただ一人、最初から真実を見抜いていた(ように見える)結城専務の圧倒的な先見の明と威光の前に、反対派の役員たちは完全に沈黙し、室内の権力構造が完全に塗り替えられた瞬間だった。




