第28話:スマートな死神と、開示された欲望
氷室麗華が、自身の「欲」と「弟の会社への利益誘導」によって見事に自滅してから数日。
月曜日の朝。
第3営業課のフロアには、再び穏やかなタイピング音と、いつもの平和な空気が戻っていた。
「いやぁ、先週はどうなることかと思ったが! 結局のところ、僕の高度なマネジメント体制が再評価されたってことだな! 佐々木くん、今日も頼むよ!」
降格したヒラ社員でありながら、なぜか「自分が部署を守り抜いた」と完全に記憶を改ざんしている佐藤が、コーヒー片手に高らかに笑う。
「さ、佐々木さん……っ! 今週分の集計データ、完璧に終わらせました! 何か、他に私がお手伝いできることはありますかっ!?」
「俺もですっ! 過去の未処理リスト、全部整理し直しました! いつでも提出できますっ!」
田中と美香は、先週の「猛毒引き継ぎ」で自らの首が飛びかけた恐怖からか、かつてないほどの忠誠心とスピードで、私の顔色を窺いながら働いている。
私はキーボードから手を離し、彼らに向かって完璧な微笑みを向けた。
「ありがとうございます、皆さん。とても助かります。佐藤さんの的確なご指示と、お二人の迅速な対応のおかげで、今週もスムーズに業務が進みそうですね」
私がそう言うと、田中と美香は目に見えてホッと安堵の表情を浮かべ、そそくさと自席に戻っていった。
『ふふっ。本当に、素晴らしい景色ね。一度死にかけたことで、無能たちの「恐怖による統制」がさらに一段階上がったわ。これなら今週も、毎日定時で赤提灯に直行できそう』
私は温かいアールグレイの紅茶を一口啜り、この完璧な「張りぼての楽園」の空気を堪能していた。
しかし、その至福の時間は、突如として鳴り響いた「静かな足音」によって遮られた。
コツ、コツ、コツ。
フロアの出入口から歩み寄ってきたのは、氷室のような威圧的なピンヒールの音でも、武田部長のような豪快な足音でもない。
計算されたように規則正しく、一切の無駄がない、革靴の足音だった。
「業務中、失礼いたします。第3営業課の皆様ですね」
声の主は、体に完璧にフィットした上質なネイビースーツを着こなす、30代後半の男性だった。
髪は整えられ、その口元には、冷徹さを微塵も感じさせない「穏やかで人当たりの良い笑み」が浮かんでいる。
「経営企画室の、白鳥と申します。本日は、皆様に重要な通達があり、お時間をいただきました」
経営企画室長・白鳥 圭。
その名前を聞いた瞬間、私の脳内に、先週金曜日に赤提灯でゲンさんが発した警告がフラッシュバックした。
『近々「大掛かりな組織再編」が計画されてるって話だ。主導している経営企画室長は、かなりやり手のキレ者らしい』
『……なるほど。噂の死神さんが、自らご挨拶に来てくれたわけね』
私は静かに立ち上がり、一切の警戒心を悟らせない「模範的なOLの笑顔」で彼と向き合った。
「お疲れ様です、白鳥室長。佐々木と申します。通達とは、どのような内容でしょうか?」
私の言葉に、白鳥は深く、丁寧なお辞儀をした。
その態度は、これまで私を見下してきた堂島や氷室とは決定的に違う。相手が末端の事務職であろうと、決して油断や驕りを見せない「プロフェッショナル」の振る舞いだった。
「お仕事中、突然の訪問をお詫びいたします。佐々木さんですね。いつも部署を支えていただき、ありがとうございます」
白鳥は顔を上げると、相変わらずの穏やかな笑顔のまま、淡々と、しかし決定的な言葉を口にした。
「大変申し上げにくいのですが……全社的な『組織再編』の決定により、来月末をもって、この第3営業課は『解体』されることになりました」
「……えっ?」
美香の手から、ボールペンがカランと床に落ちた。
田中は息を呑み、佐藤はポカンと口を開けて白鳥を見つめている。
「か、解体って……俺たち、どうなるんですか!?」
田中の悲痛な叫びに、白鳥は手元のタブレットを静かにスクロールさせた。
「ご安心ください、解雇ではありません。第3営業課の皆様は、それぞれ第1営業課、および第2営業課へと『人員吸収(配置転換)』となります。皆さんのこれまでの経験を、より全社的な利益に直結する部署で活かしていただきたいのです」
白鳥の言葉は、どこまでも論理的で、会社全体を俯瞰した正論だった。
「これより、皆様一人一人と『個別面談』を実施させていただきます。今後のキャリアプランや、異動先でのご希望をお伺いするためのものです。……それでは、後ほどお声がけいたしますので、よろしくお願いいたします」
白鳥は再び丁寧にお辞儀をすると、静かな足音と共にフロアを後にした。
「そ、そんな……! 第1営業課に行ったら、毎日残業でノルマもあるのに……っ!」
「俺、あそこの課長とソリが合わないんですよ……っ!」
パニックに陥る田中と美香。
私は、ゆっくりと自分の席に腰を下ろした。
『……解体して、他部署へ配置転換。氷室のように「外部に丸投げして私腹を肥やす」ような浅はかな手段じゃない。あくまで会社の業績向上のための、真っ当で合法的な経営策ね』
白鳥のやり方には、明確な「大義」がある。
そして何より、彼自身の態度には、個人的な私怨や、他者を貶めて喜ぶような安い優越感が一切なかった。
『今までの連中とは、次元が違う。……彼は、自分の感情ではなく「数字とロジック」だけで動いている』
私は、モニターの横に置いた小さなサボテンの鉢植えを見つめた。
『この完璧な楽園を、完全に合法的な手続きで解体しようというのね。……いいわ。少しは骨のある相手じゃないと、張り合いがないもの』
私の口角が、ほんの少しだけ、誰にも気づかれない角度で吊り上がった。
***
同時刻。
経営企画室の自室に戻った白鳥は、ブラインド越しに外の景色を眺めながら、手元のタブレットで第3営業課のデータに目を通していた。
「……堂島取締役に、氷室麗華。直近で会社に損害を与えようとした不穏分子たちは、見事に自滅していった」
白鳥は、独り言のように呟く。
「彼らの共通点は、自らの『私欲』と『感情』に振り回され、客観的なリスク計算を見誤ったことだ。実に愚かだ」
白鳥の目的は、明確だった。
会社をクリーンにし、徹底的な効率化を図ることで、自身の持つ「莫大なストックオプション(SO)」の価値を最大化すること。
そのためには、不採算部門である第3営業課の解体は、避けては通れない必須タスクだった。
「佐々木奈緒……か」
白鳥の視線が、タブレットに表示された奈緒の顔写真で止まる。
「まあいい。誰であろうと、私の描いた完璧な再編シナリオ(ロジック)を崩すことはできない。……すべては、会社の未来と、私の利益のために」
***
――さらにその日の夜。
都内の超高級ホテルの、最上階スイートルーム。
眼下に広がる東京の煌びやかな夜景を見下ろしながら、一人の男が、クリスタルグラスに入ったヴィンテージ・ウイスキーを静かに揺らしていた。
年齢不詳。仕立ての良いダークスーツに身を包んだその男の背中からは、底知れぬ冷酷なオーラが漂っている。
『……堂島という手駒による、社内からの掌握は頓挫したか』
男――この一連の騒動の背後で暗躍する「黒幕」は、氷をカラリと鳴らしながら、忌々しげに呟いた。
彼の真の目的は、ただ一つ。
新橋の路地裏にある、古い雑居ビルが立ち並ぶ一帯の「再開発(地上げ)」だった。
そのビルには、しがない赤提灯の居酒屋が入っている。
彼にとって、そんな小さな店など、盤面上の「取るに足らないゴミ」でしかない。しかし、その土地の権利を手に入れるためには、あの居酒屋を立ち退かせる必要があった。
『堂島を使って、あの商社から圧力をかけさせる計画は失敗に終わった。……どうやら、あの中堅商社をコントロールするための「新たな盤面」を整えなければならないようだな』
男は、手元のタブレットに表示された、中堅商社の株価チャートを見つめる。
『社内の組織再編を利用して、新たな権力者を私の傀儡として据えるか。……それとも』
男の目が、蛇のように細められた。
『……外部からの圧倒的な「資本」で、会社ごと丸ごと飲み込んでしまうか』
どちらにせよ、彼にとって人間はすべて「盤面の駒」に過ぎない。
彼自身の計画を、裏でことごとく粉砕している「見えざる処刑人」――佐々木奈緒という事務職OLの存在に、彼はまだ、微塵も気づいていなかった。
『待っていろ。新橋の再開発は、必ず私が完了させる。……手段は選ばない』
男が飲み干したウイスキーのグラスが、重厚なテーブルにコツンと冷たい音を立てて置かれた。




