第27話:利益誘導の代償と、金曜日の白ホッピー
「ちょっと第3営業課! 昨日の夕方に出した急ぎの相見積もり、まだ上がってきてないんだけど!?」
「こっちの請求書もだ! 取引先から『金額が違う』ってクレームが入ってるぞ! どうなってるんだ!」
週の半ば。
第3営業課のフロアは、鳴り止まない電話のコール音と、他部署からの怒号が飛び交う「地獄絵図」と化していた。
無理もない。
これまでは、田中が過去の類似案件から「勘」で数字を埋め、美香が「特定の人物にだけ通じる付箋の色」で社内政治を回避し、佐藤が「奇跡的なバランスで動く時限爆弾マクロ」を回すことで、ギリギリのところで成立していた業務である。
それを、現場の泥臭い実態を一切知らない「株式会社グローバル・ソリューションズ」の矢野たちが、カタログスペック通りのシステムに無理やり流し込んだのだ。
結果は火を見るより明らかだった。
データは初日で完全にパンク。
エラーを吐き続けるシステムを前に、矢野たちは手作業での修正を試みたようだが、属人化の極みである処理ルートを読み解けるはずもなく、数日経たずに全社の営業活動に深刻な遅延と混乱を引き起こしていた。
「ひぃぃっ! すみません! 今、外部の業者に確認中でして……っ!」
「わ、私に言われても困りますぅ! 全部引き継いじゃったので、手元にデータがないんですぅ!」
田中と美香は、受話器を握り締めながら半泣きで謝罪を繰り返している。
「まったく……。プロフェッショナルな彼らでも、僕の考案した高度なシステムの神髄を理解するには、少し時間がかかるようだな。やれやれ、これだから凡人は困るよ!」
佐藤に至っては、現状の惨状を目の当たりにしてもなお、おかしな自己肯定感を爆発させて一人で頷いていた。
『……ふふっ。本当に、期待を裏切らないわね。あなたたちの長年の怠慢と保身が熟成させた「猛毒」は、伊達じゃないわ』
私は、鳴り響く電話の音をBGMに、優雅にアールグレイの紅茶を啜っていた。
その時だった。
「佐々木さんッ!!」
フロアの出入口から、怒りで顔を真っ赤にした氷室が、ヒールの音を荒げて飛び込んできた。
髪は乱れ、初日のような余裕のある化粧は崩れかけている。
「ちょっと! 一体どういうこと!? 矢野さんから『渡されたデータがデタラメすぎてシステムが組めない』って泣きついてきたわよ! あなたたち、わざとデタラメな業務フローを教えたわね!?」
氷室の甲高い金切り声が、フロアに響き渡る。
田中と美香は「ひっ」と息を呑んで首をすくめた。
私はゆっくりとマグカップを置き、完璧な「困惑した笑顔」を浮かべて立ち上がった。
「氷室さん、お疲れ様です。……デタラメだなんて、心外です。私たちは氷室さんのご指示通り、『一切の漏れなく、ありのままの業務』を引き継がせていただいたはずですが?」
「ふざけないで! あんな属人的で非効率なゴミの山、どうやってシステム化しろって言うのよ! あなた、私の顔に泥を塗る気!?」
氷室は私のデスクにバンッ!と両手をつき、ギリッと歯を食いしばって睨みつけてくる。
「今すぐ経営管理部の会議室に来なさい! 責任者のいないこの部署で、実質的に仕切っているのはあなたなんでしょう!? 営業部の業務を滞らせた責任、たっぷり取らせてやるから!」
氷室はそう吐き捨てると、踵を返して歩き出した。
『……ええ、行きましょうか。私の仕掛けたタイマーは、ちょうど今鳴る頃合いだし』
私は、「ひぃぃ」と怯える田中たちに「大丈夫ですよ」と微笑みかけ、静かに彼女の背中を追った。
***
経営管理部フロアの、奥まった会議室。 ドアが閉まるなり、私を取り囲むように座った数名の経営管理部の社員たちから、冷ややかな視線と糾弾の声が飛んできた。
「佐々木さん。いくら外部委託が不満だからって、業務を滞らせるようなサボタージュは許されませんよ」
「ただでさえ赤字のお荷物部署のくせに。システムの構築費用、あなたが自腹で払えるんですか?」
氷室を中心とした、経営管理部という「身内」だけの閉鎖空間。
彼らは私を完全に下に見下し、今回のシステムの失敗をすべて「第3営業課の引き継ぎ不備」として処理しようと躍起になっていた。
「今すぐあのデタラメなマニュアルを分かりやすく作り直して、矢野さんのシステム構築をタダで手伝いなさい。そうすれば、今回だけは始末書で見逃してあげなくもないわ」
腕を組み、勝ち誇ったように私を見下ろす氷室。
『……どこまでも自分の保身と、外部ベンダーへの利益供与しか頭にないのね。でも、残念だったわね。この密室は、もうあなたの支配下じゃないのよ』
私は深くため息をつきたい衝動を抑え、可憐に、そして心細そうに身を縮めた。
「あ、あの……申し訳ありません。私たちはただ、氷室さんのご指示通りに……」
私が弱々しい声を出した、まさにその瞬間だった。
バンッ!!!
会議室の重厚なドアが、けたたましい音を立てて蹴り開けられた。
「おいおいおい!! 経営管理部さんよぉ! 一体どういう風の吹き回しで、うちの可愛い部下を吊るし上げてくれてんだぁ!?」
ドカドカと足音を響かせて乱入してきたのは、体格の良い初老の男だった。
声が大きく、豪快な昭和の空気を纏ったその男――今週新たに着任したばかりの、新・営業部部長の武田剛だ。
「た、武田部長……!? どうしてここに……っ」
呼んでいない武田の登場に、氷室たちが一斉に色めき立つ。 しかし、驚きはそれだけではなかった。
武田部長の後ろから、静かな足音と共に、この会社の実質的なトップが姿を現したのだ。
「武田くん、少し声が大きいよ。……だが、彼の言う通りだ。経営管理部としての正式な見解を、私も聞かせてもらいたいと思ってね」
「ゆ、結城専務……ッ!?」
氷室の顔から、一瞬で血の気が引いていく。 経営管理部の社員たちも、まさかの雲上人の登場に慌てて立ち上がり、直立不動になった。
私は、怯えたフリをして立ち上がりながら、心の中で結城専務に向けて『完璧なタイミングです』とウインクを送った。
「結城専務……これは、その……外部委託の引き継ぎにおいて、第3営業課に重大なサボタージュの疑いがありまして……!」
氷室が必死に弁明しようとするが、武田部長が「ガハハ!」と大声で笑い飛ばしてそれを遮った。
「寝言は寝て言え! 俺はさっき着任の挨拶回りを終えたばかりだがな、営業部の業務がストップしてて大パニックだぞ! しかも!」
武田部長は、持っていたバインダーを机に叩きつけた。
それは、数日前に氷室が私に突きつけてきた「業務委託の通達書類」のコピーだった。
「この外部委託の決裁書類、俺の前任の営業部長の印も、俺の印も押されてねぇじゃねえか! 営業部の業務を外に出すってのに、管轄トップの承認をすっ飛ばして独断専行とは、いい度胸してんなぁ!?」
「そ、それは……っ! コスト削減の期限が迫っていて、事後承諾で……っ!」
「氷室くん」
結城専務の低く、冷徹な声が会議室に響く。
氷室はビクッと肩を震わせた。
「独断での外部委託強行。それだけなら、まだ『焦りからの勇み足』で済んだかもしれない。……だが、今朝、私の手元にコンプライアンス委員会経由で『ある匿名の告発状』が届いてね」
結城専務は、スーツの内ポケットから数枚の書類を取り出し、テーブルの上に静かに滑らせた。
「今回の委託先である『株式会社グローバル・ソリューションズ』の法人登記簿謄本と、代表者である矢野修平氏の経歴書だ」
結城専務の言葉に、氷室の表情が完全に凍りついた。
「設立はわずか1ヶ月前。実績は皆無。本店所在地は格安のバーチャルオフィス。……そして何より、代表取締役の矢野氏は、君の実の弟だそうだね?」
「なっ……!?」
「氷室さん、本当ですか!?」
味方だったはずの経営管理部の社員たちですら、ドン引きして氷室から距離を取った。
「あ、あの……!」
私はここで、おずおずと手を挙げて発言した。
「矢野さん、初日のご挨拶の時に『自分はプロフェッショナルだ』と仰っていましたけど……もしかして、システムの素人さんだったんでしょうか……?」
私の純真無垢な(ように見える)一撃に、武田部長が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「ふざけんな!! 要するに、自分の身内のペーパーカンパニーに会社の金を横流しするために、勝手に承認ルートをすっ飛ばして、営業部全体に甚大な損害を与えたってことじゃねえか!!」
「ち、違うんです……っ! 私はただ、会社の利益を……っ!」
「言い訳は監査部で聞こう。氷室くん、君には『特別背任』および『利益相反行為』の疑いがかけられている。……このまま私の同行で、監査室へ向かってもらう」
結城専務の宣告は、絶対だった。
氷室はその場にへたり込み、絶望に染まった顔でガクガクと震え始めた。
もう、先ほどまでの高圧的な態度は見る影もない。
『ええ、どうぞ存分に絶望してください。あなたが作り出した自業自得の泥沼の中でね』
「佐々木くん。うちの愚かな社員が、君たちに多大な迷惑をかけたね。謝罪するよ」
結城専務が私に向かって優しく声をかける。
「い、いえ……! 私はただ、言われた通りにマニュアルをお渡ししただけで……。でも、会社に損害が出てしまったなんて……私の力不足です……」
私は深々と頭を下げ、完璧な「被害者の涙目」を作ってみせた。
「おうおう! 佐々木ちゃんは悪くねぇ! こんなルール無視の横暴、俺が絶対に許さねぇからな! ガハハ、安心して元の席に戻りなさい!」
武田部長が豪快に笑いながら、私の肩をポンと叩く。
「……ありがとうございます。それでは、私は通常業務に戻りますね」
私は、へたり込む氷室に向けて一度だけ深くお辞儀をすると、一切振り返ることなく、優雅な足取りで会議室を後にした。
***
金曜日の夜。
新橋の路地裏にある、赤提灯が揺れる小さな居酒屋。
香ばしい焼き鳥の煙と、サラリーマンたちの活気ある声に包まれたこの場所は、私にとっての絶対的な「聖域」だ。
「おうっ! 奈緒ちゃん、いらっしゃい! 今日も一週間お疲れさん!」
ねじり鉢巻をした大将が、満面の笑みでジョッキをドンッと置いてくれる。
その横には、頼んでいないはずの「レバーの串焼き」が一本、小皿に乗せられていた。
「あれ、大将。これ頼んでませんよ?」
「ひゃっはっは! 今週はなんだか随分とゲッソリした顔して店に入ってきたからな。スタミナつけろってことで、大将からのささやかなおまけ(サービス)だ!」
「ふふっ、ありがとうございます。いただきます」
私は、よく冷えたグラスに氷と焼酎を入れ、外を「白ホッピー」で勢いよく割った。
シュワシュワと弾ける泡を眺めながら、グラスを傾ける。
喉を通り抜ける冷たい刺激と、麦の香ばしい風味が、一週間の澱んだ空気を完全に洗い流していく。
「ぷはぁっ……! 完璧です」
「ひっひっひ。相変わらず、いい飲みっぷりだな奈緒ちゃんは」
隣の席で、競馬新聞を片手に赤ら顔で笑うゲンさん。
「いやぁ、あのバカ女の会社の登記簿見た時は笑ったわよ! 資本金100万で、本店所在地が月額3000円のバーチャルオフィス! 利益誘導するにしても、もう少しマシな偽装をするもんでしょうに。プロの行政書士を舐めないでよね!」
その向かい側では、ヨレヨレのスーツを着たマキさんが、枝豆を飛ばしながら豪快に笑っている。
「ゲンさん、マキさん。今回も完璧な調査、ありがとうございました。おかげで、スムーズに『処理』を終えることができました」
私は小さく頭を下げた。
氷室はあの後、そのままオフィスに戻ってくることはなかった。
利益誘導の決定的な証拠と、営業部全体に与えた損害の大きさから、懲戒解雇は免れないだろうと噂されている。
彼女の弟の会社との契約も即刻打ち切られ、第3営業課の業務は再び「いつも通りの日常」へと戻った。
「まあ、承認ルートをすっ飛ばして私腹を肥やそうなんて、自業自得もいいとこだ。……しかし奈緒ちゃん、部長と専務の飛び入りまで計算してたとは、本当に容赦ないねぇ」
ゲンさんが、ニヤリと笑って焼き鳥をかじる。
「計算だなんて人聞きが悪いですね。私はただ、コンプライアンスのルールに則って『匿名で』報告書を提出しただけですよ。結果的に、会社から一番の害悪が取り除かれたんですから、大成功です」
私が微笑むと、二人は呆れたように顔を見合わせて笑った。
「でも気をつけなよ、奈緒ちゃん。氷室みたいな小者は自爆して終わりだけど、うちのツテから少し気になる噂が入ってきててね」
ゲンさんが、ふと声を潜める。
「君の会社で、近々『大掛かりな組織再編』が計画されてるって話だ。しかも、主導している経営企画室長は、かなりやり手のキレ者らしい。……今までの連中みたいに、簡単に足元をすくえる相手じゃないかもしれないぜ」
『組織再編……』
私は、手元の白ホッピーを見つめた。
『氷室みたいな、自分の欲望を隠しきれない小者は張り合いがありませんでしたけど。……今度は、少しは骨のある相手が来てくれるのかしら』
「大丈夫ですよ、ゲンさん。相手が誰であろうと、私の仕事は変わりませんから」
私は残りのホッピーを飲み干し、氷がカラリと鳴る音を楽しんだ。
完璧な笑顔で、決してNOと言わず、相手の重みを利用して自滅させる。
それが、事務職OLである私の、一番華麗なストレス解消法なのだから。
私は新しいホッピーを注文し、聖域での至福の時間を心ゆくまで堪能した。




