第26話:引き継がれる猛毒
氷室からの「業務の外部委託」通達から一夜明けた、第3営業課。
フロアの空気は、まるでお通夜のように重く沈み返っていた。
「さ、佐々木さん……っ。本当に、俺たちの仕事、全部持っていかれちゃうんですか……?」
田中が、血走った目で私にすがりついてくる。
彼の手元には、これまで彼がサボりにサボり、誤魔化し続けてきた未処理データと、イレギュラー対応の山が築かれている。
「私なんて、マニュアル化しろって言われても……! 営業1課の鈴木さんには水曜日の午後以外は声かけちゃダメとか、経理の山田さんには付箋の色をピンクにしないと書類を突き返されるとか……そんなの、どうやって文章にすればいいんですかっ!?」
美香も半狂乱になりながら、頭を抱えていた。
彼女の業務は、完全に「属人的な感覚」と「社内政治の機微」だけで回っている、無駄に複雑怪奇な処理ルートだ。
そんな二人の様子を、少し離れた席から佐藤が腕を組んで見つめている。
「ふむ……。まあ、彼らのような専門性の高いプロフェッショナルなベンダーなら、僕が考案したこの『超・効率化エクセルマクロ(改)』の神髄も、すぐに理解できるだろうがね! むしろ、彼らに僕の高度なマネジメント手法を学ばせてやるいい機会だよ!」
『……そのマクロ、あなたがネットの掲示板から適当にコピペして繋ぎ合わせたせいで、日付のフォーマットが一日でもずれると全データが吹き飛ぶ時限爆弾になっているのだけど。本当に、どこまでも幸せな脳みそをしているわね』
私は心の中で深くため息をつきながら、完璧な微笑みを浮かべて3人に向き直った。
「皆さん、落ち着いてください。経営管理部の決定は絶対です。私たちは会社の利益のために、素直に、そして『一切の漏れなく』引き継ぎを行う義務があります」
私はあえて、ゆっくりと念を押すように言葉を紡いだ。
「田中さんの長年の経験に基づいた『独自のデータ補正』も。美香さんの細やかな気配りによる『特別な承認ルート』も。そして佐藤さんの『高度なマクロ』も」
私は三人の顔を順番に見渡す。
「すべて、ありのままをマニュアル化してください。分かりやすく整理する必要はありません。皆さんが普段やっている『そのまま』を、外部の方に完璧に再現していただくのが、今回の引き継ぎの目的ですから」
「あ、ありのまま……。俺がいつも勘で数字を埋めてる、あの処理も……?」
「ええ、もちろん。それが田中さんの『ノウハウ』ですもの」
「わ、私がいつもやってる、機嫌の悪いお局様を回避するための、無駄な根回しルートも……?」
「ええ、すべてです。一字一句、漏らさずに書き出してくださいね」
私の優しくも有無を言わさないトーンに、田中と美香は「ひぃっ」と小さく息を呑み、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
佐藤は「ふはは! 僕の天才的な思考を言語化するのは骨が折れるな!」と上機嫌で謎のフローチャートを書き始めている。
『素直で助かるわ。あなたたちの長年の怠慢と保身が作り上げた、マニュアル化不可能な致死量のブラックボックス。……それを一滴残らず、氷室さんのお抱えベンダーに飲み込ませてあげる』
私は、彼らが作り出す「猛毒」の生成過程を、紅茶を啜りながら優雅に見守った。
***
その日の午後。
第3営業課のミーティングスペースに、氷室が外部ベンダーの担当者を連れてやってきた。
「紹介するわ。こちら、今回の業務委託先である『株式会社グローバル・ソリューションズ』のプロジェクトマネージャー、矢野さんよ」
氷室の隣に立つのは、体にフィットした細身のスーツを着こなし、いかにも「やり手のITコンサルタント」といった風を装った、軽薄そうな30代の男だった。
「どうも、矢野です。いやぁ、御社の非効率な事務作業を、我々の最新ソリューションで一気にスマート化させていただきますよ! 安心してお任せください!」
矢野は、自信満々に白い歯を見せて笑う。
その目には、目の前にいる私(事務職OL)を見下すような、浅はかな優越感が浮かんでいた。
『……なるほど。現場の泥臭い実態なんて一度も見たことがない、典型的な「カタログスペックだけで語るタイプ」ね。氷室さんが引っ張ってきただけあって、お似合いの三流だわ』
私は席を立ち、深々と、完璧な角度でお辞儀をした。
「初めまして。第3営業課の佐々木と申します。本日はご足労いただき、ありがとうございます」
私は、デスクの上にドンッ、と分厚いキングファイル3冊と、大量のデータが入ったUSBメモリを置いた。
「こちらが、当部署のすべての業務手順をまとめたマニュアルと、過去の処理データ一式でございます」
「おお、ご苦労様です。まあ、我々にかかれば、こんな紙の束なんて数日でデジタル化して、完全に自動化してみせますよ」
矢野は、ファイルの分厚さに一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに余裕の笑みを取り繕ってUSBメモリをポケットに突っ込んだ。
「内容について、少しご説明させて……」
私が言いかけると、氷室が苛立たしげに手をヒラヒラと振って遮った。
「いいのよ、佐々木さん。矢野さんはプロなんだから、あなたたちみたいな素人の説明なんて聞かなくても、マニュアルを見ればすぐに完璧なシステムを構築してくれるわ」
氷室は勝ち誇ったように私を見下ろす。
「あなたたちは、来月からの身の振り方でも考えておきなさい。……行くわよ、矢野さん」
「はい。それでは、後は我々にお任せを!」
二人は、中身をパラパラと捲りすらしないまま、私の用意した「猛毒」を抱えて足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は口角をそっと上げる。
『ええ、どうぞ存分に召し上がれ。……エラーを吐き続けるマクロ、勘と忖度でしか回らないデータ、特定の人間にしか通じない複雑怪奇な承認ルート。仕様書のどこにも存在しない、あなたたちが一番嫌がる「泥臭い人間関係の結晶」をね』
彼らは全く理解していないのだ。
事務職がただの「作業ロボット」ではなく、無能な社員たちが日々生み出すイレギュラー(バグ)を、その都度手作業で吸収し、会社のシステムが止まらないように調整する「緩衝材」であることを。
『プロフェッショナルなあなたたちが、どれだけ見事にこの猛毒を処理してくれるのか……今から来週が楽しみだわ』
***
定時後。
私はオフィスの給湯室に入り、誰の目もないことを確認してから、私物のスマートフォンを取り出した。
暗号化されたチャットアプリを開き、いつものメンバーへメッセージを送信する。
【奈緒】:お疲れ様です。『株式会社グローバル・ソリューションズ』という会社について、少し調べていただけないでしょうか。
数秒後、すぐに二つの返信が画面にポップアップした。
【マキ】:了解! 登記簿と役員構成、株主の繋がり、あとはオフィスの賃貸契約の状況あたりを洗ってみるわ。プロの行政書士を舐めないでよね!
【ゲン】:俺の方でも、そこの裏の実態を嗅ぎ回ってみよう。……しかし奈緒ちゃん、また厄介なのを引き当てたのか?
私は、画面を見つめながら小さく微笑んだ。
【奈緒】:ええ。会社の利益を大義名分にして、私物化しようとする小者が一匹。来週には自滅する予定ですので、そのための『完璧なトドメの証拠』をお願いします。
スマートフォンの画面をオフにし、私は大きく伸びをした。
『さあ、下準備は完了。後は、彼らが勝手に胃腸炎を起こして倒れるのを待つだけね』
私は軽やかな足取りで給湯室を出ると、週末の「聖域」での至福のひとときを思い浮かべながら、帰路についた。




