第25話:新しいお局と、無能たちの再稼働
奈緒の所属部署を、第3営業課という設定にしました。
穏やかな春の日差しが差し込む、中堅商社の第3営業課。
キーボードを叩く規則正しい音と、時折聞こえるコピー機の稼働音だけが、静かにオフィスに響いていた。
かつて、私を陥れようとした堂島取締役が自らの強欲によって自滅(?)して、会社を去ってから数週間。
彼が企てていた「部署の統廃合」も、私の聖域である赤提灯の「地上げ」も、すべては白紙に戻った。
今、この第3営業課は、まさに私にとっての「完璧な楽園」として機能している。
「いやぁ、今日も我が部署はスムーズに回っているな! 佐々木くん、これも僕の的確なマネジメントの賜物だね!」
得意げな声と共に、かつて私の上司であり、自身の失態でヒラ社員へと降格した佐藤が、ふんぞり返りながら話しかけてきた。
手には、なぜかどこから持ってきたのか分からないゴルフのパターが握られている。
私はキーボードから手を離し、口角を完璧な角度に上げて振り返った。
「ありがとうございます、佐藤さん。佐藤さんがいつも広い視野で私たちを見守ってくださるおかげです」
「ははは! まあ、僕くらい経験豊富になると、現場の空気を読むのも一瞬だからね。何か困ったことがあったら、いつでもこの僕に相談したまえ!」
機嫌良く自席へと戻っていく佐藤の背中を見送りながら、私は静かに紅茶のカップに手を伸ばした。
『ふふっ。本当に、おめでたい頭をしているわね。あなたのその「的確なマネジメント」とやらで、一体どれだけの業務が滞っていたか……すっかり忘れてしまったのかしら』
彼は今や、私が完全にコントロールできる都合の良い「防波堤」だ。
外部からの面倒な案件は彼に回せば、適当に理由をつけて跳ね除けてくれる。本人は「俺が部署を守っている」と勘違いしているのだから、これほど便利なシステムはない。
「さ、佐々木さん……っ! あの、大変です……っ!」
怯えた小動物のような声を出して駆け寄ってきたのは、同期の田中だ。
手には、汗で少し湿ったファイルの束が握られている。
「この昨日のデータ入力……間違ってたらどうしようかと、夜も眠れなくて……っ! 一応、トリプルチェックまでしたんですけど、佐々木さんに最終確認をお願いしても……?」
「は、はいっ! 私もですっ!」
田中の後ろから、後輩の美香が勢いよく飛び出してきた。
「私、佐々木さんに言われた通りのフォーマットで、一字一句間違えずにリストを作りました! バッチリ見てましたから! いつでも証言できます!」
何を証言する気なのかは分からないが、彼女の目は血走っており、私に対する絶対的な恐怖と服従の念が痛いほど伝わってくる。
かつて、黒田というモラハラ上司の思惑に乗せられ、私に仕事を押し付けて陥れようとした彼ら。
私が仕掛けた罠によって致命的な失態を演じ、減給処分を受けた彼らは、私の恐ろしさを骨の髄まで理解したらしい。
今ではすっかり、私の機嫌を損ねないように必死に動く「怯えた傀儡」へと成り下がっていた。
「田中さん、美香さん。いつも丁寧な作業、ありがとうございます。後で確認しておきますから、少し休んでいてくださいね」
私が優しく微笑みかけると、二人は「ひぃっ!」と小さく悲鳴を上げ、何度も頭を下げながら逃げるように自分の席へと戻っていった。
『従順なのは良いことだけど、少し過剰ね。……まあいいわ。よく訓練された無能は、本当に手がかからなくて最高。これで今日も、定時上がりで聖域(赤提灯)に直行できるわね』
私は温かい紅茶を一口飲み、この完璧な平和を噛み締めていた。
***
しかし、私の築き上げた「無能たちの楽園」は、ある日突然、無作法な侵入者によって踏み荒らされることになった。
カツン、カツン、カツン。
ピンヒールの鋭い足音が、静かなオフィスに響き渡る。
「第3営業課の皆さん、業務中失礼します。経営管理部の氷室です」
出入口付近で立ち止まり、フロア全体に響く甲高い声を発したのは、高級ブランドのスーツに身を包んだ、派手なメイクの女性だった。
経営管理部に新しく配属されたという、「コストカッター」の異名を持つお局、氷室麗華だ。
氷室は腕を組み、値踏みするようにフロアを見回す。
現在、この第3営業課には正式な「課長」が不在のままだ。佐藤は降格し、営業部部長が第3営業課の課長を兼任していたが、人事異動があり新しい営業部部長は部長業務の引き継ぎを受けている最中で、指揮系統が宙に浮いている状態だった。
氷室からすれば、責任者のいないこの部署の出入口から、一方的に決定事項を通達してさっさと帰るつもりだったのだろう。
そんな氷室の予測通り、フロアは水を打ったように静まり返っていた。
奥の席で佐藤がビクッと肩を揺らして目を逸らし、田中と美香は息を殺してパソコンのモニターの裏に隠れた。
誰も、彼女の言葉に応答しようとしない。
『……本当に、佐藤はいざという時に使えないわね』
私は心の中で深々とため息をついた。
このままでは、ただでさえヒステリックな他部署のお局の機嫌を損ねるだけだ。
私は席を立ち、いつもの「微笑みの仮面」を貼り付けて、出入口に立つ氷室の元へ歩み寄った。
「お疲れ様です、氷室さん。本日はどのようなご用件でしょうか?」
私が進み出ると、氷室はふんっと鼻で笑い、見下ろすような視線を向けてきた。
香水のきつい匂いが、私の鼻腔を突く。
「……誰も対応しないからどうなってるのかと思ったわ。責任者がいないからって、本当にだらしない部署」
誰も対応しなかった苛立ちからか、氷室の口からは余計な嫌味がこぼれ落ちる。
彼女は持っていた分厚いファイルを、私の胸に押し付けるように突き出した。
「用件? 決まっているでしょう。経営管理部からの正式な通達よ。あなたの部署、会社のお荷物だって自覚あります? 毎月毎月、どれだけの赤字を垂れ流していると思っているの」
「……お荷物、ですか?」
「そうよ。経営管理部の試算によれば、この第3営業課が行っている事務作業は、人員に対するコストパフォーマンスが最悪なの。会社の利益を圧迫しているのよ」
氷室は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「だから、来月からこの部署の無駄な業務は、すべて外部委託することに決定しました。あなたたちのような無能な事務職が高い給料をもらってダラダラ仕事をするより、専門のベンダーに任せた方がよっぽど安上がりなのよ」
完全なトップダウンの決定。
私は手渡されたファイルを開き、中身の書類にサッと目を通した。
『……なるほど。経営管理部としての正式な承認印は、確かに押されているわね。でも……』
私の視線は、書類の右上に並んだ決裁欄のある一点でピタリと止まった。
『……新しい【営業部部長】の承認印がない』
こんな大規模な業務の外部委託を勝手に進めるなど、本来なら管轄である営業部トップの合意が不可欠だ。
それにも関わらず、営業部部長の印だけが白紙になっている。
つまりこれは、氷室が自身のKPI(コスト削減目標)を達成するために、営業部を完全に蚊帳の外に置いて強行した、経営管理部の「独断専行」だ。
『ふふっ。こんな致命的な手続きの抜け落ちに気付かないなんて。いざとなれば、いくらでも「ちゃぶ台返し」できるじゃない』
この女は、会社のルールを利用しているつもりで、その実、基本的な根回しすらできていない三流だ。
私はその致命的な不備には一切触れず、ファイルを丁寧に抱え直した。
「……なるほど。経営管理部からの正式な決定事項、確かに拝見いたしました」
「ええ。だから外部の業者がすぐに作業を引き継げるように、業務マニュアルをさっさと用意してちょうだい。期限は今週末よ。いいわね?」
氷室の目は、私を「不要なゴミ」を見るかのように冷酷だった。
『ふふっ、これでまた私の評価が上がるわ。会社の無駄を削ぎ落とした有能な管理者としてね。それに……外部委託先の『あの会社』に業務を流せば、義弟の会社も潤う。まさに一石二鳥。無能な事務職なんて、適当に追い出せばいいのよ』
氷室の顔には、そんな浅はかな優越感と、私利私欲にまみれた黒い企みがはっきりと透けて見えていた。
私は、ゆっくりと深呼吸をした。
「……承知いたしました」
私は、氷室の目を見つめ返し、これ以上ないほど丁寧で、完璧な笑顔を作った。
「会社の利益のため、そして業務の効率化のためですね。経営管理部のご判断に従い、業務の引き継ぎには『全面協力』させていただきます」
「……ふん。分かればいいのよ。せいぜい急いでちょうだいね」
私の素直すぎる返答に拍子抜けしたのか、あるいは自身の権力に酔いしれているのか。
氷室はつまらなそうに鼻を鳴らすと、再びピンヒールの音を響かせてオフィスを出て行った。
***
氷室の後ろ姿が見えなくなった瞬間、私はゆっくりと自分の椅子に腰を下ろした。
「さ、佐々木さぁん……! ど、どうしましょう! 俺たち、仕事なくなっちゃうんですか!?」
田中が半泣きになりながらすがりついてくる。
「私、クビになったらどうしよう……っ! まだローン残ってるのに……っ!」
美香も頭を抱えてパニックを起こしている。
私は、騒ぐ彼らを完全に無視して、氷室が置いていったファイルをパラパラと捲った。
そこには、彼女が勝手に選定したという外部委託先の企業名が記されていた。
『株式会社グローバル・ソリューションズ……聞いたこともない会社ね。会社の利益のため? 冗談じゃないわ。どうせ自分のコネか何かで、利益を還流させるつもりのペーパーカンパニーもどきでしょう』
私は、冷たくなった紅茶の残りを一気に飲み干した。
『営業部を通さない強引な手続きに、怪しげなベンダー。……私の楽園を、こんな三流の小悪党に荒らされるなんて、我慢ならないわね』
私は、パソコンのモニターに向かい、静かにキーボードに手を置いた。
『いいわ。あなたが「すべて引き受ける」と言うのなら、望み通りにしてあげる』
『佐藤の思いつきで始まった無駄な集計作業。田中がサボり続けてブラックボックス化した未処理データの山。美香が属人的な感覚だけで回している、無駄に複雑で属人的な処理ルート……』
『この部署に溜まりに溜まった「猛毒」のすべてを、丁寧に、一切の漏れなく、あなたの大事なベンダーに引き継がせてあげるわ。マニュアル化不可能な致死量のタスクを飲み込んで、せいぜい盛大に自滅しなさい』
私の唇から、微かな笑みがこぼれた。
完璧な笑顔で絶対にNOと言わない理想のOL。
それが、私の表の顔。
「田中さん、美香さん。落ち着いてください。私たちはただ、言われた通りに引き継ぎの準備をするだけです」
「ひっ……!」
私の声の温度が急激に下がったのを感じ取ったのか、二人は一瞬で静まり返った。
「さあ、業務の洗い出しを始めましょう。彼らが『二度と事務職を舐めない』ように、ありったけの仕事を用意してあげなくては」
春の陽気に包まれたオフィスで、私の静かなる処刑の準備が、再び幕を開けた。




