第23話:滑稽な独壇場と完璧な白ホッピー
運命の月曜日。午前九時。
本社ビルの最上階にある特別会議室では、重苦しい静寂の中で定例の役員会議が始まろうとしていた。
巨大なマホガニーの円卓を囲むように、社長をはじめとする重役たちが顔を揃えている。
その末席に近い位置に座る堂島は、内心の昂ぶりを抑えきれずにいた。
『ふふっ……結城め。まさか自分が極秘で進めていた手柄を、この私に完全に横取りされるとは夢にも思っていまい』
堂島は、斜め向かいに座る結城専務と紗耶室長をチラリと見た。
結城専務はいつも通りの穏やかな表情で手元の資料に目を通しており、少しの焦りも見えない。
『いいだろう。その余裕の仮面を、今から私が剥ぎ取ってやる』
「それでは、本日の議題に――」
議長が進行を始めようとしたその時、堂島がスッと右手を挙げた。
「社長。議事に入る前に、私から一つ、特例としてご報告させていただきたい緊急の案件がございます」
「緊急の案件? なんだね、堂島取締役」
社長が怪訝な顔を向ける。
堂島は立ち上がり、芝居がかった手振りで手元の分厚いファイルを掲げた。
「我が社の今期の利益を劇的に押し上げる、歴史的な事業提携のご提案です。……海外の投資企業との『Yプロジェクト』。私は週末の間に先方と直接交渉し、すでに『仮契約』を取り付けてまいりました」
その言葉に、会議室がどよめいた。
「堂島くん、どういうことかね? そのような巨額の案件、事前の根回しもなしに……」
「ええ、極秘裏に進めておりましたので。何せ、スピードが命の案件でした。……もちろん、すでに我が社の社内審査をクリアしている『X社』を公式な仲介としてシステムに登録し、コンプライアンス上の手続きも私の権限で特例承認しております。本日の会議で、この案件の全容をご報告し、今後の本契約へ向けた正式な予算枠の確保をお願いしたい」
堂島は勝ち誇った顔で、結城専務を真っ直ぐに見据えた。
『どうだ結城! 貴様が温めていた極上の案件は、すでに私の手の中だ。お前はただ指をくわえて、私の出世を見上げることになる!』
しかし――結城専務の顔に、堂島が期待していた「絶望」や「焦燥」は微塵も浮かんでいなかった。
それどころか、結城専務はゆっくりと立ち上がり、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「……堂島取締役。大変素晴らしい行動力ですが、私はその『Yプロジェクト』なる案件について、一文字も存じ上げません。そのような巨額の案件が、どこから降って湧いたというのですか?」
「なっ……!?」
堂島は一瞬、言葉を失った。
『結城の奴、自分が進めていた案件を横取りされたからといって、関与を全否定してシラを切るつもりか! ……ふん、見苦しい負け犬め!』
堂島はさらに口角を吊り上げ、自信満々に胸を張った。
「私が独自のルートで開拓したのですよ、結城専務。……あなたがご存知ないのも無理はありません。ですが、すでに私の役員IDで『X社』を仲介とした仮契約はシステム上でも決裁済みです。このまま法務部と財務部の審査へ回していただいて構いません。必ずや、我が社に莫大な利益をもたらすと証明されるはずですから!」
「……なるほど。あなたがご自身の役員権限と責任において、そこまで断言されるのであれば」
結城専務は深く頷き、社長の方を向いた。
「社長。堂島取締役がすでに仮契約の決裁を下しているのであれば、もはやこれは我が社の公式な取引です。至急、監査部と法務部、財務部を動かし、この『Yプロジェクト』および仲介の『X社』について、徹底的なデューデリジェンス(資産査定と適法性調査)を行うべきかと存じます」
「う、うむ。そうだな。巨額の予算が動くのだ、当然のプロセスだ。……堂島くん、構わんね?」
「ええ! もちろんですとも! 徹底的に調べていただいて結構です!」
堂島は高らかに笑い、会議室を見渡した。
その会議室の隅。 結城の指示で来客用のティーセットを片付けていた奈緒は、ワゴンを押しながら深くお辞儀をし、静かに部屋を後にした。
ドアが閉まる瞬間、奈緒の唇に、ふんわりとした冷酷な笑みが浮かんだ。
『ええ。徹底的に調べてもらいましょうか。……あなたがご丁寧に、自らの手で役員会議という「公式の場」に提出した、完璧な毒林檎をね』
***
堂島の栄光は、たった一日しか持たなかった。
翌日の火曜日。
社長の命により、監査部、法務部、財務部の合同チームが『Yプロジェクト』および仲介の『X社』のデューデリジェンスを開始した。
調査は、初日から難航を極めた。
ゲンが裏社会のネットワークを駆使して構築し、マキが徹夜で完璧に仕上げたダミー法人の登記や偽の運用実績データは、あまりにも精巧だったのだ。表層的な調査では『極めて優良な投資案件であり、仲介のX社も全く問題のない健全な企業』という結論に至る寸前だった。
しかし、そこに「見えざる手」が介入した。
合同チームの責任者の元に、結城専務の息がかかった部署から、巧妙に偽装された内部告発の形で『決定的なリーク情報』がもたらされたのだ。
「……X社の代表取締役である木村茂氏の、現在の生活実態調査の報告書……? なんだこれは、施設に入所中の重度認知症患者だと!?」
「財務部にも匿名のリークが来ました! Yプロジェクトの運用実績データですが、この特定の口座群の金の流れ……既存の出資者の配当を、新規出資者の金で回しているだけです! 典型的なポンジ・スキームです!」
結城専務からの意図的なリークがなければ、社内審査をクリアし、会社は完全に騙されていた可能性すらあった。
プロフェッショナルたちが作り上げた完璧な偽装は、結城専務がその「急所」を的確に突くことで、初めてその醜い正体を露わにしたのである。
その結果、X社が堂島の親戚を代表にでっち上げたペーパーカンパニーであること、提出されていたコンサル実績も偽造であることがあっけなく露見した。
堂島が「自身の親族を代表にでっち上げたダミー会社」をシステムにねじ込み、巨額の仲介手数料を中抜きしようとした『利益相反取引』および『特別背任未遂』の疑いが、公式な社内調査で確定したのである。
「ち、違う! 私は、そんな会社だとは知らずに……ッ!」
水曜日の朝、緊急招集された懲戒委員会で、堂島は血相を変えて弁明した。
しかし、彼自身が役員会議で「すでに社内審査をクリアしているX社を、私の権限で特例承認した」と勝ち誇って宣言した議事録が、彼の退路を完全に塞いでいた。
そして、木曜日。
さらなる絶望的な報告が、堂島に止めを刺した。
結城専務のリークを元に財務部が徹底調査した『Yプロジェクト』の実態。それが、実態のない違法な詐欺案件であることが確定したのだ。
もしあのまま本契約が進んでいれば、会社は50億円もの損失を被っていた。
堂島は「不正を働いた」だけでなく、「巨額詐欺に引っかかった無能な役員」として、社長から直接、懲戒解雇の通達を言い渡された。
堂島が進めていたすべてのプロジェクト――奈緒の部署の統廃合や、赤提灯のビルの地上げ(X社への資金流入)――の即時白紙撤回が、社内通達として全社員に一斉送信された。
金曜日の午後。
オフィスには再び、深い安堵と静寂が戻っていた。
「いやぁ、まさか堂島取締役が裏でそんな悪いことをしていたなんてな! 僕の部署が解散にならなくて本当に良かったよ! やっぱり僕の日頃の行いが良いからかな!」
佐藤が、自分の手柄でもないのに高らかに笑っている。 さらに言うと、佐藤は降格して平社員だから「僕の部署」は間違いである。
田中と美香も、「これでまた佐々木さんに一生ついていけます!」と涙目で喜んでいた。
『ふふっ。何も知らない無能な羊たち。……でも、それでいいわ。ここは私が完全にコントロールできる、私だけの完璧な楽園なのだから』
奈緒はキーボードを叩く手を止め、完璧な営業スマイルで彼らに頷いた。
***
金曜日の夜。
新橋の路地裏。赤提灯の暖簾をくぐると、いつにも増して威勢の良い声が飛んできた。
「おうっ! 奈緒ちゃん! いらっしゃい!! 今日は俺の奢りだ、何でも食ってくれ!!」
大将が満面の笑みで迎えてくれる。
「こんばんは、大将。立ち退きの件、無事に白紙になったみたいで良かったです」
「ああ! あのふざけたX社から、いきなり『要求を取り下げる』って通達が来てよぉ! 奈緒ちゃんたちが動いてくれたおかげだろ? 本当にありがとな!」
奈緒がいつものカウンター席に座ると、隣でゲンさんがホッピーのグラスを傾けていた。
そして、その奥の席では――。
「ぷはぁーっ!! やっぱり仕事終わりの酒は最高ね!!」
マキさんが、ヨレヨレのスーツ姿でレモンサワーをジョッキで煽っていた。
「マキさん、今回は本当に助かりました。完璧なダミー法人の登記情報のおかげで、相手を完全に罠に嵌めることができました」
奈緒が礼を言うと、マキさんはズレたメガネを指で押し上げてニヤリと笑った。
「ふん、プロの行政書士を舐めないでよね。……Yプロジェクトの会社はれっきとした詐欺だから、近いうちに警察の捜査が入るわ。でも安心して、私とゲンさんが関与した証拠は、ネットワークの海にも現実の書類にも一切残っていない。完全に消去済みよ」
「ああ。俺たちの足がつくようなヘマはしねぇよ」
ゲンさんが低く笑いながら、奈緒の前に白ホッピーのジョッキをドンッと置いた。
「堂島とかいう狸親父、ポンジ・スキームだって気付いた時はどんな顔したんだろうな。さあ、お前の大好きな『白』だ。たっぷり飲んで、日頃のストレスを洗い流しな」
「ありがとうございます、ゲンさん」
奈緒は冷たく結露したジョッキを両手で包み込むように持ち上げた。
周囲の喧騒、香ばしい焼き鳥の匂い、そして信頼できる仲間たち。
『ここが、私の聖域』
奈緒はジョッキを掲げ、一人、心の中で静かに乾杯の言葉を唱えた。
『理不尽な世界に、完璧なエビデンスを』
冷たい白ホッピーを一気に喉に流し込む。
炭酸の刺激と焼酎のアルコールが、一週間の煤けた感情をすべて浄化していく。
「……ぷはぁっ!」
奈緒の口からこぼれたのは、計算された完璧な営業スマイルではない、心底リラックスした、美しい本物の笑顔だった。
月曜日になれば、またあの「張りぼての楽園」で、微笑みの仮面を被って完璧な事務職OLを演じる日々が始まる。
それでも構わない。
彼女には、どんな理不尽な悪意をも切り裂く「エビデンス」という武器と、帰るべきこの「聖域」があるのだから。




