第21話:点と線、そして毒林檎の精製
「はぁ……。全く、本社は何を考えているんだ!」
部署の解散まで残り一ヶ月を切った、ある日の午後。
すっかりやる気をなくし、一日中ネットサーフィンをしていた佐藤が、珍しく苛立った声を上げてデスクの上の書類を放り投げた。
「どうされましたか? 佐藤さん」
奈緒はキーボードを叩く手を止め、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて振り返った。
その声に反応して、田中と美香もビクッと肩を揺らし、こちらの様子を窺っている。
「いやね、今月のシステム維持費の精算をしようとしたら、本社から突然ルール変更の通達が来ていてね。……なんでも、今月からは『業務効率化コンサルタント』を間に挟んで請求を上げないと、経理がハンコを押さないって言うんだよ」
『業務効率化、ね。……堂島取締役が委員長を務める、業務効率化委員会の肝いり施策というわけかしら』
奈緒は内心で冷たく分析しながら、小首を傾げた。
「コンサルタント会社、ですか?」
「ああ。そのコンサル会社の名前が『X社』って言うんだけどね。ただの書類の右から左へのパス回しなのに、コンサル手数料だけで数十万も上乗せされているんだ。予算の無駄遣いもいいところだよ!」
佐藤の愚痴を聞き流しながら、奈緒のタイピングの手がピタリと止まった。
『……X社。どこかで聞いた名前だと思ったら、大将の店に強引な立ち退き要求を送ってきたダミー会社と、一言一句同じ名前じゃない』
奈緒はすっと立ち上がり、佐藤のデスクへ歩み寄った。
「佐藤さん、その通達書類とX社の請求書、私が確認して処理しておきましょうか? 部署の引き継ぎ準備でお忙しいでしょうから」
「おっ! いいのかい? いやぁ、佐々木くんは本当に気が利くな。助かるよ!」
自分が「引き継ぎ準備」などという名目で何もしていないことを棚に上げ、佐藤は嬉々として書類を奈緒に押し付けた。
自席に戻った奈緒は、受け取ったX社の請求書に記載された法人番号と所在地を、手元のメモ帳に素早く書き写した。
『会社のシステム経費に、突然割り込んできた謎のコンサル会社。そして、私の聖域を地上げしようとしているペーパーカンパニー。……点と線が繋がったわね』
奈緒の唇に、ふんわりとした、しかし絶対零度の笑みが浮かんだ。
***
その日の夜。
新橋の赤提灯の奥のテーブル席には、奈緒、ゲンさん、そして分厚いノートPCを広げたマキさんの三人が顔を突き合わせていた。
「……間違いないわ」
マキさんがメガネを中指で押し上げ、画面を睨みつけながら言った。
「奈緒ちゃんが会社から持ってきた『X社』の法人番号と所在地。この前、大将のところに送られてきた立ち退き要求書の差出人である『X社』と、完全に一致しているわ」
「やっぱりね。……マキさん、その会社の登記情報、もう少し深く洗えますか?」
奈緒が白ホッピーのグラスを傾けながら尋ねると、マキさんは得意げに鼻を鳴らした。
「任せなさい。プロの権限をフル活用して、裏の裏まで引っこ抜いてやったわ。……ただ、代表取締役の名前を見て驚いたのよ」
マキさんが画面を奈緒たちに向けた。
そこには「代表取締役:木村 茂」という、見知らぬ名前が記載されていた。
「そして、ゲンさんにお願いしてこの『木村茂』という人物を調べてもらった結果が、これよ」
ゲンさんが顎をさすりながら、低い声で説明を引き継いだ。
「ああ。俺の古いツテを使って戸籍やら生活実態やらを洗ってみたんだがな。……この木村って爺さん、堂島の嫁さんの実家の、さらに遠い親戚に当たる人物だ。しかも……」
ゲンさんはそこで一度言葉を切り、ため息をついた。
「現在は重度の認知症で、数年前から都内の特別養護老人ホームに入りっぱなしだ。会社の代表取締役なんて、務まるわけがねぇ」
マキさんがドンッとテーブルを叩いた。
「意思能力のないお年寄りの名義を無断で借用して、代表取締役にでっち上げているのよ。これは完璧なペーパーカンパニーだわ」
「……なるほど。構造が見えました」
奈緒は手元のメモに、関係図を書き込みながら静かに言った。
「堂島取締役は、自分の権限を使って、本社のシステム経費に『X社』というコンサルを無理やり挟み込んだ。そして、会社から支払われるコンサル料という名の『会社の金』を、X社を通じて中抜きしている」
奈緒はペンの裏で、メモの「X社」の文字をトントンと叩いた。
「その中抜きした不正な資金を元手に、今度はこのビルの地上げを行おうとしている。……会社の金を横領して、私の『聖域』を奪うための弾丸にしているというわけですね」
『私の無能の楽園を奪おうとしているだけでも万死に値するのに、あまつさえその金で私の大切な聖域まで奪おうだなんて。……ふふっ、本当に、度し難い愚か者ね』
奈緒の瞳に、獲物を完全にロックオンした捕食者の冷たい光が宿った。
その時、カウンターの中から様子を聞いていた大将が、布巾で手を拭きながら難しそうな顔で口を開いた。
「……理屈はわかったがよ。相手はデカい会社の役員なんだろ? 俺たちがこの情報を本社にチクったところで、のらりくらりと逃げられちまうような気がするんだが……」
「大将、鋭いな」
ゲンさんがホッピーのグラスを傾けながら、低く笑った。
「その通りだ。いくら状況証拠が揃ってようが、書類上、X社に堂島の名前は一切出てこねぇ。今ここで告発しても、『自分は業務効率化のためにX社を推薦しただけで、経営実態なんて知らなかった』とシラを切られるのがオチだ。典型的なトカゲの尻尾切りで終わる」
マキさんも深く頷いてメガネを押し上げた。
「ええ。法務の観点から見ても、これだけじゃ堂島を完全に引っ張ることはできないわね。彼自身が『不正を承知で手を下した』という決定的なエビデンスがない限り、名誉毀損で逆に潰されるリスクが高いわ」
「……お二人の仰る通りです」
奈緒は空になったグラスを静かにテーブルに置いた。
「だったら、どうするんだい? 奈緒ちゃん」
大将が尋ねると、奈緒はふんわりとした、底知れぬ狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「簡単なことです。彼自身の手で、言い逃れの不可能な『決定的なエビデンス』を残させればいいんです」
「彼自身の手で……? おいおい、そんなことできるのか?」
「ええ。彼がどうしても『自分の役員権限を使ってでも、X社をねじ込みたくなる』ような、魅力的な餌……『毒林檎』を撒けばいいんです」
奈緒はゲンさんの方へ向き直った。
「ゲンさん。以前お話ししていた『アレ』の準備はできていますか?」
「ああ、抜かりはねぇよ」
ゲンさんがニヤリと笑い、裏ポケットから一枚のUSBメモリを取り出してテーブルに置いた。
「海外のダミー企業を使った、一見すると莫大なリターンが見込める『超優良な事業提携スキーム』の企画書だ。……だが実態は、新規の出資者の金で既存の配当を回すだけの、典型的なポンジ・スキーム(ねずみ講)にすぎねぇ」
「素晴らしいです」
奈緒はUSBメモリを愛おしそうに手に取った。
「堂島取締役と対立している、専務派閥。……以前、黒田課長を失脚させた時に恩を売った『あの二人』に、少しだけお芝居に協力してもらいましょう」
奈緒の美しい顔に浮かんだ微笑みは、極上の毒を含んだ花のように妖しく咲き誇っていた。




