第20話:見えない包囲網
影山が文字通り「会社から逃亡」してから数日が経過した。
彼が持ち出そうとした情報漏洩事件は、奈緒が提出した完璧なアクセスログと証言によって「影山の単独犯」として処理された。 当然ながら、会社側も即日退職した人間をこれ以上深追いすることはせず、後は警察に任せる事にした。
オフィスには再び、タイピング音だけが響く静寂が戻っていた。
「……ふぅ。影山くんがいなくなって、また少し忙しくなったな。佐々木くん、この資料のまとめ、お願いできるかな?」
「はい、承知いたしました。佐藤さん」
奈緒は完璧な笑顔でファイルを受け取る。
『忙しくなった、ですって? 影山さんがやっていた仕事の大半は、もともとあなたがやるべき業務だったはずですけど。……まあいいわ。大人しく私の手のひらで踊っている分には、無害なのだから』
奈緒がそんな冷たいモノローグを脳内で転がしていると、突然、オフィスのドアが勢いよく開いた。
「さ、佐藤さん……っ! 大変です!!」
飛び込んできたのは、本社で行われていた定例会議に出席していたはずの田中だった。
その顔は、まるで幽霊でも見たかのように蒼白になっている。
「ど、どうしたんだい田中くん。そんなに慌てて」
「これ……っ! さっきの会議で、突然通達されたんです……っ!」
田中が震える手で差し出したプリントを、佐藤が受け取る。
奈緒もキーボードを叩く手を止め、静かに視線を向けた。
プリントに目を落とした佐藤の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「な、なんだこれは……っ!? 『業務効率化に伴う、部署統廃合のお知らせ』……!?」
その言葉に、美香もガタッと立ち上がった。
「えっ……統廃合って、どういうことですか!?」
「当部署は……来月末をもって解散し、業務はすべて本社のシステム管理部へ統合される……。所属社員は、全員別部署へ再配置、もしくは……関連子会社への出向を命じる、だと……!?」
佐藤はプリントを取り落とし、膝から崩れ落ちそうになった。
「う、嘘だろ……。僕の、僕の居場所が……っ!」
関連子会社への出向。それは、事実上の左遷宣告に等しい。
田中と美香も絶望的な顔で頭を抱えている。
奈緒は静かにプリントを拾い上げ、その文面に目を通した。
『なるほど。影山さんという「見えない工作」が失敗したと見るや、今度は権力という「暴力」で、部署ごと物理的にすり潰しに来たというわけね』
プリントの末尾、通達者の欄には、こう記されていた。
【業務効率化委員会 委員長 取締役 堂島 剛】
『堂島……。黒田課長を裏で推していた本社の役員。やはり、あなただったのね』
奈緒はプリントを佐藤のデスクに置き、ふんわりとした笑顔を作った。
「佐藤さん、落ち着いてください。まだ決定と決まったわけではありませんし、引き継ぎの期間もあります。まずは、私たちが今抱えている業務を粛々とこなすことが大切ですよ」
「さ、佐々木くん……っ! 君はなんて落ち着いているんだ……っ!」
『ええ。パニックになっても何も解決しませんから。……それに、相手の顔と名前が分かったのなら、あとは「処刑」の準備を進めるだけよ』
***
その日の午後。
奈緒が本社へ書類を届けに行った帰り、エレベーターホールで「彼」とすれ違った。
オーダーメイドの高級スーツに身を包み、取り巻きの部下を数人引き連れた、白髪交じりの初老の男。
鋭い眼光と、口元に刻まれた深い皺が、彼の社内における権力の強さを物語っている。
取締役、堂島。
すれ違う瞬間、堂島の視線がチラリと奈緒に向けられた。
その目は、路傍の石ころを見るような、冷酷で見下すような色を帯びていた。
「……失礼いたします」
奈緒は足を止め、深く、完璧な角度でお辞儀をした。
堂島は何も答えず、ただ鼻で短く笑うと、そのままエレベーターへと乗り込んでいった。
『……ふふっ。いいご身分ね。権力にあぐらをかいて、自分は安全な場所からチェス盤をひっくり返せると思っている』
奈緒が顔を上げた時、その瞳には絶対零度の冷たい炎が宿っていた。
『私の完璧な「楽園」を壊そうとするなら、相応の覚悟はできているんでしょうね? 堂島取締役』
***
金曜日の夜。
奈緒はいつものように、新橋の路地裏にある赤提灯の暖簾をくぐった。
しかし、店内はいつもと少し様子が違っていた。
威勢の良い大将の声はなく、カウンターの奥で、大将が重いため息をつきながら一枚の書類を睨みつけていたのだ。
「……こんばんは、大将。どうしたんですか、そんな難しい顔をして」
奈緒が席に座りながら声をかけると、大将は力なく笑った。
「おう、奈緒ちゃん……。いやなぁ、実は、店を畳まないといけなくなるかもしれねぇんだ」
「え……?」
奈緒の動きが止まる。
隣の席では、ゲンさんがいつになく険しい顔でホッピーのグラスを傾けていた。
「ゲンさん、これはいったい……?」
「地上げだよ。しかも、かなりタチの悪い部類だ」
ゲンさんが顎でしゃくった先には、大将の手元にある書類があった。
「今日、突然内容証明郵便で送られてきたんだ。『立ち退き要求書』ってやつだ。……このビルを買い取った新しいオーナー企業が、老朽化を理由にビルを解体するから、来月末までに出て行けってさ」
「来月末……」
奈緒はハッとした。
自分の部署の解散時期と、全く同じタイミングだ。
「大将、その書類、少し見せていただけますか?」
奈緒が書類を受け取ろうとした時、奥のテーブル席からドタドタと足音が近づいてきた。
「ちょっと待ったぁ! その書類、私に見せなさい!」
現れたのは、ボサボサの髪にヨレヨレのスーツを着た、マキさんだった。
彼女は手元のレモンサワーをドンッとカウンターに置くと、目を血走らせて書類をひったくった。
「マキさん……?」
「こういう怪しい権利関係の書類は、プロの目を通さないとダメよ! えーっと……」
マキさんはズレたメガネを指で押し上げ、書類の文面を物凄いスピードで読み込み始めた。
「……ふん。やっぱりね。よくある手口よ」
数分後、マキさんは鼻で笑い、書類をカウンターに叩きつけた。
「このビルを買い取ったっていう『X社』。こいつら、実体のないペーパーカンパニーよ。住所はレンタルオフィスだし、資本金も最低限。……おそらく、裏にいる本当の買い手が、自分たちの名前を出さずに強引な地上げをするために作ったダミー会社ね」
「ダミー会社……」
奈緒は呟きながら、ゲンさんと顔を見合わせた。
「マキちゃん、さすがプロだな。俺の調べでも、このX社ってのはここ最近急に作られた会社で、代表取締役の名前も見慣れねぇ爺さんの名前だった」
ゲンさんが腕を組む。
「……以前、桐島ってエリート気取りの馬鹿が、このビルを地上げしようとしたことがあったろ? あの時は未遂で終わったが、どうやらその時の計画が、もっと巨大な組織の力で再始動したらしい」
「……桐島が動いていた背後にも、元々は黒田や、それを推していた本社の派閥がいました」
奈緒は冷たい声で静かに言った。
「つまり、私の部署を潰そうとしている『堂島取締役』と、この赤提灯を潰そうとしている『X社』の背後にいる黒幕は、同一人物の可能性が極めて高いということです」
「おいおい……。そりゃあ、いくら奈緒ちゃんでも、相手が悪すぎるんじゃねぇか? 腐っても相手は、会社を牛耳る取締役だぜ?」
ゲンさんが心配そうに眉をひそめる。
しかし、奈緒の唇には、いつものふんわりとした、しかしどこか狂気を孕んだ笑みが浮かんでいた。
「……相手が誰であろうと関係ありません」
奈緒はカウンターの上の白ホッピーを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「私の『職場』と『聖域』。……その両方を同時に奪おうとした罪は、万死に値します」
奈緒は空になったグラスをトンッと置き、マキさんの方を向いた。
「マキさん。そのX社について、もう少し詳しく調べることはできますか? 特に、代表取締役になっている人物の素性について」
「え? ……まあ、行政書士の職権を使えば、戸籍や登記の深いところまで洗えるけど……。ただでとは言わないわよ?」
「もちろんです。調査費用は、私のポケットマネーから弾ませていただきます。それに……」
奈緒は、マキさんのグラスに新しく注文したレモンサワーをそっと差し出した。
「これが終わったら、大将の美味しいモツ煮込み、一生タダで食べられるように交渉してあげますから」
「……乗ったわ! その喧嘩、私が法務の力でサポートしてあげる!」
マキさんがレモンサワーを一気に飲み干し、力強く頷いた。
『堂島取締役。あなたは致命的なミスを犯した。私からすべてを奪おうとしたことで、私に「あなたを完全に破壊する理由」を与えてしまった』
赤提灯の仄暗い光の中。
奈緒、ゲンさん、マキさんという、異色のチームによる「取締役処刑」に向けた見えない包囲網が、静かに、そして確実に敷かれようとしていた。




