第19話:トカゲの尻尾切り
月曜日の午前10時。
本社ビル8階、窓のない無機質な会議室。
重苦しい沈黙の中、奈緒は「コンプライアンス委員会」のメンバーである人事部長と法務部の担当者、そして青ざめた顔の佐藤を前に、背筋をピンと伸ばして座っていた。
長机の向かい側には、少し伏し目がちに、いかにも「心を痛めている」といった風情で座る影山の姿があった。
「……佐々木さん。事の重大さは理解していますね?」
人事部長が、手元の分厚いファイルから顔を上げて重々しく口を開いた。
「先週金曜日の午後、我が社の極秘情報である『Y案件の顧客リスト』が、社外のクラウドサーバーへ不正にコピーされ、送信されました。……使用されたのは、あなたのログインIDとパスワードです」
佐藤がビクッと肩を跳ねさせ、ハンカチで額の汗を拭う。
「さ、佐々木くん……! 君、なんてことを……! いや、僕は全く知りませんでした! 僕のマネジメントの範疇を超えた、彼女個人の暴走でして……っ!」
佐藤は瞬時に奈緒を切り捨て、保身の言葉を並べ立てた。
奈緒はそんな元課長を横目で見つつ、静かに首を振った。
「私がそのようなことをするはずがありません。何かの間違いではないでしょうか」
「証拠は残っているんですよ!」
法務部の担当者が、一枚のアクセスログを机に叩きつけた。
そこには確かに、奈緒のIDである『S_NAO』が、該当ファイルにアクセスし、外部へ送信した記録が印字されていた。
「これについて、影山くんから報告を受けています。……影山くん、話してくれないか」
人事部長に促され、影山がゆっくりと顔を上げた。
その表情は、信頼していた先輩に裏切られた悲しみに満ちていた。
「はい……。実は先週、佐々木先輩がご自身のデスクで、しきりに周囲を警戒しながら見慣れない画面を開いているのを何度かお見かけしまして。……僕はただ、先輩が疲れているのかなと心配していたのですが……まさか、会社の機密を売るような真似を……」
影山はそこで言葉を詰まらせ、無念そうに唇を噛んだ。
「佐々木先輩……。嘘だと言ってください。僕たちの大切な部署を、裏切っていたなんて……!」
完璧な演技だった。
傍から見れば、不正に手を染めた先輩を告発せざるを得なかった、正義感に溢れる健気な後輩そのものだ。
『ふふっ。素晴らしいわ、影山さん。アカデミー賞ものの名演技ね。……でも、あなたの台本、致命的な穴が空いているのよ』
奈緒は、伏せていた顔をゆっくりと上げた。
その唇には、いつものふんわりとした、しかしどこか冷ややかな微笑みが浮かんでいた。
「……影山さん。私を心配してくださって、ありがとうございます。でも、あなたが見たという私の姿は、完全な幻覚のようですね」
「え……?」
影山が微かに眉をひそめる。
奈緒は手元のクリアファイルから、数枚の書類を取り出し、人事部長たちの前に静かに並べた。
「私自身の潔白を証明するために、少々調べさせていただきました。……おっしゃる通り、情報の持ち出しに使われたIDは間違いなく私のものです。ですが、こちらをご覧ください」
奈緒が指し示したのは、自作の監視スクリプトが弾き出した、より詳細なネットワークのアクセスログだった。
「社内のネットワークに接続されているPCには、すべて『MACアドレス』という固有の識別番号が割り当てられています。……情報を持ち出した端末のMACアドレスは、私のデスクにあるPCのものと一致しませんでした」
「なんだと……?」
人事部長が眉根を寄せ、書類を食い入るように見つめる。
「では、誰の端末からアクセスされたというんだ?」
「現在、私の斜め後ろの席を使用している……影山さんの貸与PCと、完全に一致しております」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
影山の顔から、スッと血の気が引いていく。
完璧にコントロールされていた彼の表情筋が、微かに、しかし確実に引きつった。
「な……何を言っているんですか、先輩……。僕のPCからだなんて……」
「あら? では、この物理的な端末の記録は嘘をついていると?」
奈緒は冷たく微笑みながら、さらに言葉を重ねる。
「念のため、ログに記録されている犯行時刻、午後1時15分から30分までの間……私は総務部へ備品発注の書類を届けに行っており、自席にはおりませんでした。総務部の入退室記録と、受付担当者の方の証言も取れています」
「そ、それは……! あなたが席を外す前に、僕のPCを勝手に操作して……!」
影山が必死に反論しようとするが、奈緒はそれをピシャリと遮った。
「それも不可能です。なぜなら、その時間帯、あなたはご自分の席から一歩も動かず、猛烈な勢いでキーボードを叩いていたからです」
「なっ……! 証拠があるんですか!?」
「ええ、ありますとも」
奈緒はバッグからICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
『あいつ、自分の席に座ったままだったんですけど、佐々木さんがいないのを確認してから、異常なスピードでキーボードを叩いてたんです! 時々こっちをチラチラ見て、明らかに誰かに見られてないか警戒してました……! 私、バッチリ見てましたから! いつでも証言できます!』
会議室に響き渡る、田中と美香の興奮したような、しかし怯えた証言の音声。
影山の息が止まった。
『あなたが自分のPCの前から動かなかったという「人間の目」による証言。そして、あなたのPCから私のIDを使って不正アクセスが行われたという「機械のログ」。……さあ、これでチェックメイトよ』
奈緒はICレコーダーを止め、信じられないものを見るような目で影山を見つめる人事部長たちに向き直った。
「……私のIDを不正に盗み出し、自身のPCから機密情報を持ち出して、私に罪を着せようとした。これは明確な『不正アクセス禁止法違反』であり、私に対する『名誉毀損』、そして会社の業務を著しく妨害した『偽計業務妨害』に当たります」
奈緒はゆっくりと立ち上がり、影山を見下ろした。
「すでに、この完璧なエビデンス一式を持って、警察への被害届と刑事告訴の準備を進めております」
「け、刑事……っ!?」
影山がガタッと音を立てて立ち上がった。
爽やかだった好青年の仮面は完全に剥がれ落ち、額には脂汗が浮かび、目は焦燥に泳いでいた。
「待っ……これは、違っ……!」
「影山くん! これは一体どういうことだ! 君が佐々木くんを陥れるためにやったというのか!」
人事部長が机を叩いて怒鳴る。
「ひっ……! ぼ、僕は……少し気分が……お手洗いに……っ!」
影山はそう叫ぶなり、会議室のドアを乱暴に開け、逃げるように廊下へと飛び出していった。
「あっ! おい、影山くん!!」
慌てて追いかけようとする人事部長たちを、奈緒は静かに見送った。
『逃げたわね。……でも、逃げた先はトイレじゃない。会社そのものよ』
***
奈緒の予想通りだった。
影山が会議室に戻ってくることはなく、彼のデスクはもぬけの殻になっていた。
数時間後、人事部宛に「一身上の都合により即日退職いたします」という、たった一文だけのメールが影山のアドレスから届いた。
完全に真っ黒な行動だった。
その日の夜。
金曜を待たずして、奈緒は新橋の赤提灯にいた。
「ぷはぁっ……。大将、白ホッピーおかわり」
「あいよっ! 奈緒ちゃん、今日は週の頭から飛ばすねぇ!」
ジョッキを空にした奈緒の隣で、ゲンさんが焼き鳥を串から外しながら低い声で笑った。
「影山の坊や、見事に尻尾を巻いて逃げたらしいな」
「ええ。追及された途端、顔面蒼白で逃げ出しました。……でも、あまりにも鮮やかすぎる逃走劇です。私物も残さず、会社が支給した携帯電話もデスクに置いたまま。連絡先もすでに不通になっていました」
奈緒は新しいホッピーを受け取りながら、冷ややかな目でグラスを見つめた。
「警察の介入を恐れた……というのもあるでしょうけど。彼の本当の目的は『黒幕に繋がる証拠を残さないこと』だったはずです」
「トカゲの尻尾切り、ってやつだな」
ゲンさんが頷く。
「俺の知り合いに頼んで、奴が住んでたはずのマンションを確認させたが……すでにもぬけの殻だった。初めから、しくじったら即座に飛べるように準備してたんだろう」
「……間違いありませんね。彼はただの使い捨ての駒。私を会社から追い出すための『鉄砲玉』でした」
奈緒はグラスの縁を指でなぞった。
『入社初日から完璧に作り上げられた経歴。発覚した瞬間の淀みない逃走。……こんな手回し、ただの社員にできるはずがない』
黒田を失脚させ、自分たちの意のままに動く部署(楽園)を作り上げた奈緒たち。
それを不快に思い、どうしても奈緒を排除したいと願う、会社の上層部に巣食う巨大な影。
「……面白くなってきましたね、ゲンさん」
奈緒は白ホッピーを一気に煽り、空になったジョッキをトンッとカウンターに置いた。
「私の楽園を荒らす気なら、相手がどこのどいつだろうと、完璧なエビデンスで社会的に処刑するだけです」
「へっ。相変わらず恐ろしいお嬢ちゃんだぜ。……俺も少し、本腰を入れてあんたの会社の上層部を洗ってみるか」
赤提灯の暖かな光の中、奈緒の瞳だけが、獲物を狙う捕食者のように冷たく、鋭く光っていた。




