第18話:罠と調査結果
影山が配属されてから三週間。
彼の奈緒に対する「見えない工作」は、日に日に巧妙さを増していた。
ファイルのデータ破損、社内共有カレンダーのスケジュール改ざん、そして宛先不明の不審なメールの受信。
そのすべてが、巧妙に「佐々木奈緒の不注意」に見えるように偽装されていた。
「佐々木くん、最近ちょっとミスが目立つんじゃないか? 君らしくもない。影山くんを見習って、もう少し集中してくれたまえよ」
佐藤は腕組みをしながら、ため息交じりに小言を並べる。
かつて奈緒にすべての実務を依存していた男とは思えない、偉そうな態度だ。
「申し訳ありません、佐藤さん。私の確認不足です……。ご迷惑をおかけしてしまって」
奈緒は深々と頭を下げ、眉尻を下げて反省の意を示した。
「佐々木さん、大丈夫ですか? もしお疲れなら、僕が一部の業務を巻き取りましょうか?」
すかさず影山が、爽やかで気遣いに満ちた声をかけてくる。
周囲の目には「ミスを連発する先輩をフォローする、優秀で優しい後輩」という構図が完全に出来上がっていた。
「ありがとうございます、影山さん。でも、自分のミスは自分で責任を持ちますから。お気遣い、嬉しいです」
奈緒は伏し目がちに微笑み、自分のデスクへと戻った。
『ふふっ……。馬鹿な男たち。私がわざと泳がせているとも知らずに、随分といい気分に浸っているじゃない』
奈緒の内心は、北極の氷よりも冷え切っていた。
影山の仕掛けてくる小細工など、奈緒が仕掛けた監視スクリプトにはすべて筒抜けである。彼がいつ、どの端末から、どのようにデータを改ざんしたか、完璧なログが奈緒の隠しフォルダに蓄積され続けていた。
しかし、奈緒はまだ動かない。
こんな小者じみた嫌がらせの証拠を突きつけたところで、「ちょっとした悪戯心でした」「操作ミスでした」と言い逃れされる可能性があるからだ。
『私が欲しいのは、言い逃れのできない一撃必殺の“大罪”。……さあ、そろそろ大きな勝負に出てきなさいよ』
奈緒はあえて隙を作ることにした。
「佐藤さん。少し総務部へ行って、備品の発注書類を提出してきますね。15分ほど席を外します」
「ああ、わかった。よろしく頼むよ」
奈緒はデスクの上にスマートフォンを裏返しにして置き、PCをロックして席を立った。
オフィスを出る直前、チラリと振り返ると、影山がモニター越しに奈緒の背中をじっと見つめているのが確認できた。
***
15分後。
奈緒がオフィスに戻ると、空気はいつも通りだった。
影山は涼しい顔でキーボードを叩いており、佐藤はネットサーフィンに興じている。
奈緒は自席に座り、ロックを解除した。
そして、周囲に気づかれないよう素早くショートカットキーを叩き、隠しフォルダのログファイルを開く。
『……ビンゴね』
奈緒の唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
ログには、奈緒が席を外していた空白の15分間に、重大なアクセス記録が残されていた。
アクセス先は、社内でも一部の人間しか閲覧権限を持たない『次期大型プロジェクト(Y案件)の顧客リスト』。
そして、その極秘ファイルが、社外のフリーのクラウドストレージへ「コピー&送信」されていた。
使用されたログインIDは『S_NAO』。つまり、奈緒のアカウントだ。
誰かが奈緒のパスワードを盗み出し、奈緒のふりをして機密情報を外部へ流出させたのである。
『なるほど。情報漏洩の罪を私に着せて、懲戒解雇にでも追い込むつもりね。……でも、詰めが甘いわよ、影山さん』
奈緒はログの右端、アクセス元の詳細データを冷酷な目で見つめた。
社内ネットワークに接続されたPCには、それぞれ固有の「MACアドレス」という物理的な識別番号が割り当てられている。
IDの偽装はできても、この物理的な端末情報はごまかせない。
ログに記録されているMACアドレスは、奈緒のPCのものではない。
現在、斜め後ろで涼しい顔をして座っている影山に貸与された、最新型のノートPCのMACアドレスと完全に一致していた。
「佐々木さん、お帰りなさい。総務部、混んでましたか?」
影山が、悪びれる様子もなく笑顔で話しかけてくる。
「ええ、少しだけ。でも無事に終わりましたよ」
奈緒は完璧な営業スマイルで振り返った。
『あなたが自分のPCから、私のIDを使って機密情報を盗み出したこと。……すべて、記録として保存させてもらったわ。ごちそうさま』
その日の夕方。
給湯室でタンブラーを洗っている奈緒の背後に、田中と美香がササッと忍び寄ってきた。
「さ、佐々木さん……っ! ご報告があります!」
美香が周囲を警戒しながら、ひそひそ声で囁く。
「どうしました? 美香さん、田中さん」
「さっき佐々木さんが席を外された時……影山が、すごく怪しい動きをしてました!」
田中が前のめりになって報告する。
「あいつ、自分の席に座ったままだったんですけど、佐々木さんがいないのを確認してから、異常なスピードでキーボードを叩いてたんです。しかも、時々こっちをチラチラ見て、明らかに誰かに見られてないか警戒してました……!」
「私、バッチリ見てましたから! いつでも証言できます!」
怯えきった犬たちが、必死に主人に尻尾を振っている。
彼らは自分たちが「監視カメラ」として完璧に機能したことをアピールしたくてたまらないのだ。
「ふふっ。ありがとうございます、お二人とも。とても助かりました。……引き続き、内緒にしておいてくださいね?」
「「はいっ!!」」
奈緒は優しく微笑み、給湯室を後にした。
『これで、デジタルな「機械のログ」に加えて、アナログな「人間の目」という証拠も揃ったわ。……チェックメイトは近いわね』
***
金曜日の夜。
新橋の路地裏。赤提灯の暖簾をくぐると、いつもの香ばしい匂いと喧騒が奈緒を包み込んだ。
「大将! 白ホッピー、氷少なめで!」
「あいよっ! 奈緒ちゃん、今週もお疲れさん!」
カウンターの指定席に座り、運ばれてきた白ホッピーを喉に流し込む。
冷たい炭酸と焼酎の刺激が、一週間の煤けたストレスを洗い流していく。
「……ぷはぁっ! 生き返る……」
「相変わらず、いい飲みっぷりだな」
隣の席から、ゲンさんがスポーツ新聞をたたみながら声をかけてきた。
「ゲンさん、お疲れ様です。……で、例の件、どうでした?」
奈緒が声を潜めると、ゲンさんは手元の競馬のハズレ馬券を丸めながら、低い声で話し始めた。
「影山って新人クンな。……調べれば調べるほど、真っ白だ」
「真っ白、ですか?」
「ああ。経歴、学歴、前職の退職理由。どれも完璧で、借金もなけりゃ怪しい交友関係もない。SNSのアカウントすら、数年前に作られた当たり障りのない風景写真だけのものしか存在しねぇ」
ゲンさんは残っていた焼酎のお湯割りを飲み干し、奈緒の目を見た。
「普通、28歳の若者なら、もう少しデジタルの足跡や、人間関係の泥臭い部分が残るもんだ。だが、奴の過去は不自然なほど『綺麗に掃除』されてる」
「……情報ロンダリング、ですね」
奈緒が呟くと、ゲンさんは深く頷いた。
「そういうことだ。あいつはただの新人じゃねぇ。背後に、かなり金と権力を持った大物がいる。そいつが、お前の部署を内部から引っ掻き回すために、わざわざ経歴を漂白した『鉄砲玉』を用意したってわけだ」
『やっぱり……。黒田を失脚させた私たちを疎ましく思う、上層部の何者かが裏で糸を引いているのね』
奈緒はグラスの縁を指でなぞりながら、静かに状況を整理した。
影山が機密情報を持ち出したのは、間違いなく「奈緒を情報漏洩の犯人に仕立て上げ、会社から追い出すため」だ。
「……なるほど。大体の構図は見えました」
奈緒が冷たい笑みを浮かべた時、奥のテーブル席からドサッと何かが崩れ落ちる音がした。
「あぁ〜……もう無理……。肩凝りすぎて頭痛い……大将、レモンサワーおかわり……濃いめで……」
テーブルに突っ伏して呻いているのは、最近この店の常連になったマキさん(35歳)だ。
ボサボサの髪に、疲れ切ったスーツ姿。彼女はフリーランスの不動産鑑定士兼行政書士で、いつも膨大な書類に追われている。
「マキちゃん、また徹夜かい? ほどほどにしとかねぇと倒れるぜ」
ゲンさんが呆れたように声をかけると、マキさんは力なく手を振った。
「ゲンさん……仕事は選べないのよ……。最近、変なダミー会社絡みの権利関係の調査が多くて……日本の法律は穴だらけよ、ほんと……」
ブツブツと文句を言いながら、マキさんは運ばれてきたレモンサワーをちびちびと舐め始めた。
奈緒はそんなマキさんを横目で見つつ、再び手元の白ホッピーに視線を落とした。
『来週あたり、間違いなく本社から「コンプライアンス委員会」への呼び出しがかかるはず。私が情報漏洩の犯人としてね』
奈緒はホッピーのグラスを掲げ、一人、静かに乾杯した。
『さあ、影山さん。あなたの用意した陳腐なシナリオを、完璧なエビデンスで粉々に砕いてあげる。……来週の処刑台を、楽しみにしていてね』




