第17話:不可視の工作
影山が配属されてから、二週間が経過しようとしていた。
表面上、彼に対する部署内の評価はうなぎ登りだった。
爽やかな挨拶、的確な電話応対、そして何より、エクセルやパワポを駆使する圧倒的な作業スピード。
「いやぁ、影山くんは本当に優秀だな! 僕のマネジメントが良いのもあるが、すぐに即戦力になってくれて助かるよ!」
「とんでもないです、佐藤さんのご指導のおかげです。まだまだ佐々木先輩の足元にも及びませんよ」
佐藤の能天気な称賛に、影山は謙虚に、かつ完璧な笑顔で応えてみせる。
お局の市川でさえ、彼の愛想の良さには気を良くしているようだった。
しかし、奈緒の周囲では、その「完璧な新人」がやって来てからというもの、奇妙な現象が頻発するようになっていた。
***
「……佐々木くん。ちょっといいかな?」
午後三時。
佐藤が、少し眉間に皺を寄せて奈緒のデスクへとやってきた。
その手には、出力されたばかりの稟議書が握られている。
「はい。どうされましたか、佐藤さん?」
奈緒は手を止め、いつものように柔らかな微笑みを向けた。
「さっき君が最終チェックをしてくれた、A社向けのシステム導入費用の稟議書なんだけど……。ほら、ここ。見積もりの合計金額の桁が、一つ少なくないか?」
佐藤が指差した先には、確かに『3,000,000円』と記載されるべき箇所が『300,000円』と印字されていた。
「経理に回す直前に僕が気づいたから良かったものの……。佐々木くんらしくもないミスじゃないか。しっかり頼むよ?」
佐藤の言葉に、周囲の空気が少しだけピリッとする。
田中と美香は、怯えたようにこちらをチラリと見てから、慌ててモニターに視線を戻した。
『……なるほど』
奈緒は、表情を一切崩さずに手元の原本データを開いた。
そして、ファイルのプロパティを素早く確認する。
更新日時:本日 12時15分。
奈緒がこの稟議書のチェックを終え、佐藤のフォルダに格納したのは午前11時30分のこと。
そして12時15分は、奈緒が昼食を取るために完全にデスクを離れていた時間帯だ。
『私がチェックを終えた後、誰かが意図的に数字を書き換えて上書き保存したのね。……実に陰湿で、古典的な嫌がらせ』
これまでは「共有フォルダのファイル名が微妙に変更される」「過去のデータが別フォルダに移動している」といった、些細で証拠の残りにくい小さなノイズのような嫌がらせばかりだった。
しかし今回は、明確に「奈緒のチェック漏れ」というミスを作り出すための工作だ。
「……申し訳ありません、佐藤さん。私の確認不足でした。すぐに修正して、再提出いたします」
奈緒は深く頭を下げ、完璧な謝罪の言葉を口にした。
誰がやったのか。そんなことは火を見るより明らかだった。
「佐々木さん、お疲れ様です。……お忙しいですから、細かい数字の見落としなんて誰にでもありますよ。気にしないでください」
斜め後ろから、影山が心配そうな声色でフォローを入れてくる。
「ありがとうございます、影山さん。私の不注意でお手数をおかけしてしまって……。以後、気をつけますね」
奈緒は振り返り、影山の目を真っ直ぐに見つめ返して微笑んだ。
影山の口角が、ほんのわずかに、しかし確実に吊り上がったのを、奈緒は見逃さなかった。
『ふふっ。私の信用を落とすために、随分とセコい真似をしてくれるじゃない。……いいわ。その安い優越感、今のうちに存分に味わっておきなさい』
***
その日の定時後。
周囲に誰もいなくなったオフィスで、奈緒は一人、キーボードを高速で叩いていた。
カタカタカタカタ……。ターンッ!
『アクセスログや更新履歴なんて、少し知識があればいくらでも偽装できる。……彼を完全に追い詰めるには、言い逃れのできない”物理的”なエビデンスが必要ね』
奈緒が構築していたのは、共有サーバー上の特定フォルダに対する、独自の監視スクリプトだった。
ファイルへのアクセス時間、変更内容だけでなく、アクセス元のIPアドレスと、PCに割り当てられた固有の「MACアドレス」を密かに記録し、奈緒の隠しフォルダへ自動送信するプログラム。
これなら、影山が自分のPCを使おうと、あるいは空いている別人のPCを使おうと、「どの端末から細工をしたのか」が完全に特定できる。
しかし、奈緒の準備はそれだけでは終わらない。
『機械の目だけじゃ足りない。……優秀な”監視カメラ”が必要ね』
***
翌朝。
奈緒は、給湯室でコーヒーを淹れていた田中と美香に、ふんわりとした笑顔で近づいた。
「おはようございます、田中さん、美香さん」
「ひっ! さ、佐々木さん! おはようございますッ!」
「お、おはようございます! 何かご用でしょうか!?」
二人はビクッと肩を震わせ、まるで猛獣を前にした小動物のように直立不動になった。
以前の騒動で奈緒の底知れぬ恐ろしさを骨の髄まで味わっている二人は、今や奈緒の言葉一つで動く完全な傀儡と化している。
「そんなに緊張しないでください。……実は、お二人に少しお願いがありまして」
奈緒は声を潜め、困ったような、少し弱々しい表情を作った。
「最近、私、少し疲れが溜まっているみたいで……書類の置き忘れや、データの紛失が怖いんです。お二人はいつも周囲をよく見てくださっているので……」
奈緒は二人の顔を交互に見つめた。
「私が席を外している間、私のデスク周りや、共有サーバーのラック付近に不審な動きがないか、少しだけ気を配っていただけませんか? ……もちろん、誰にも内緒で」
「えっ……」
「……お二人なら、安心してお願いできると思ったんですけれど。ダメ、でしょうか?」
小首を傾げ、上目遣いで見つめる奈緒。
しかし、その瞳の奥には『断るという選択肢はないわよね?』という絶対的な圧が込められていた。
田中と美香は顔を見合わせ、すぐさまブンブンと首を縦に振った。
「も、もちろんです! お任せください! 佐々木さんのデスクにはアリ一匹近づけさせません!」
「わ、私も! 佐々木さんがいない間、ずっと見張ってますから! 誰か近づいたらすぐに報告します!」
「ふふっ。ありがとうございます。とても心強いです」
奈緒は完璧な営業スマイルで礼を言い、給湯室を後にした。
『これで、彼が物理的にいつ、どこで動いたかという”証人の目”も確保できた』
田中も美香も、自分たちが「影山を監視するためのカメラ」にされていることには気づいていない。
ただ、奈緒に恩を売り、機嫌を損ねないために、彼らは血走った目でオフィスを監視し続けるだろう。
自分のデスクに戻った奈緒は、何事もなかったかのようにPCの電源を入れ、影山がやってくるのを待った。
『さあ、影山さん。次はどんな手で来るのかしら。……あなたが動けば動くほど、私の仕掛けた蜘蛛の巣に絡め取られていくことに、早く気づけるといいわね』
静かなオフィスに、今日も奈緒の小気味良いタイピング音が響き渡り始めた。




